パンチの独り言

(2010年4月19日〜4月25日)
(拒絶、難読、根拠、代替、認知、無知、不適)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



4月25日(日)−不適

 憎む相手の根も葉もない噂を流す。井戸端会議での一幕、としか思えなかったのに、最近は、公の電波で流されたり、恰も根拠があるが如くの、脚色までされる始末。それ程、この手の業界の腐敗が進んでいるということか、それとも、人間性の凋落で、下世話なことに興味を抱く人が増えたせいなのか。
 攻撃が最大の防禦であることは、屡々取り上げられるが、まさにそれを地で行くが如く、自らの欠陥を覆う為に、他の欠陥に注目を集める。その際に、少々の脚色はやむを得ない、などと、身勝手な台詞が続けば、詐欺行為などの犯罪とどう違うのか、さっぱり判らなくなる。一方、正義の味方を気取った人々は、強烈な批判を繰り返す。だが、ここでも本質を見失っているが為に、的外れな論調が目立つこととなる。これでは却って逆効果であり、役に立たぬばかりか、その後の展開を悪い方にしか導かない。人を裁く行為は、正義の表れと思えるが、所詮人の判断によるところであり、不完全に過ぎない。それを補完するものとして、様々な仕組みが設けられているが、遂に究極と思える段階に達した。強制力を持つ制度は、これまで障害を抱えていた案件に、明るい兆しを与えたかのように扱われているが、どんな結論が得られるのかは不明である。その上、判断力の欠如が目立つ人々は、嵩に懸かったように手を伸ばす。事故の原因究明を、その制度の活用の結果と捉える人々は、そのことを繰り返すが、原因とは「ある物事や状態を引き起こすもと」とあるように、ここでその手の人々が求めるものとは異なる。更に、既に原因は明らかとなり、防止措置の必要性の有無が問われているに過ぎない。ここまで書くと、当然批判される部分があるだろうが、責任と原因を異種のものと扱えぬことが異様なのだ。

* * * * * * * *

4月24日(土)−無知

 無駄遣いを戒める意見に、異議を唱える人はいないだろう。だが、何が無駄かという議論には、賛否両論が次々と登場し、収拾が付かなくなるものらしい。先行投資、将来計画、様々な形で施しておかねば、その時になってからでは遅すぎる、と言われるものも多い。その場では無駄に思えても、というわけだ。
 組織だって無駄を洗い出す作業が、再び始まった。前回とは異なるという見方もあるが、現実には同じことにしか見えない。つまり、人材活用の面での道筋を確立することは、既得権益のようなものであり、それを排除することが一番の無駄減らしという論理だ。いや、前回はそんな形じゃなく、それぞれの事業が対象であり、今度はそれを実施する機関が対象だ、と解釈する向きもあるが、前回の措置を見る限り、同じ根拠に基づくものとしか見えない。一つだけ違いがあるとすれば、殆どの事業が単一の機関に委託されたものであったのに対し、今回は複数の機関を統合することで、効率化を図るという意図があるくらいだろう。ただ、ここでも前回同様、単なる予算減らしという浅慮が露出しているのは否めない。減らせた額の多寡を競うのだったら、根拠も論理もなく、ただ無くせば済むことだ。だが、ここで求められているのは、効率化であり、それは同じかそれ以上の達成度を意味する。無くすことで、水泡に帰すだけなら、改革という名の下に無駄ばかりを残した政権と変わりがない。本来、整理統合とは、単純な数減らしを意味するのでなく、同程度の事業を効率的に行う組織を作る為のものである。前回、業界人から猛反対を受けたのも、その辺りの理解不足が露呈した為であり、目的が違うことを忘れたことが原因だろう。何処かの国が、少ない機関に業務を任せているのだから、という論理は、その事情を十分に理解してこそ、意味をもつことに気づくかどうか。

* * * * * * * *

4月23日(金)−認知

 個人の尊重という意味も込めて、個人主義なるものが台頭した時期があった。ところが、ある時期から、そんなことはなかったかの如く、振る舞う人が増えてきたような気がする。平均とは中庸とか、そんな言葉が強調されたのも、そんな頃だったろうか。人並みに、という気持ちは理解できるものの、おやと思う。
 個々の人格の尊重は、それぞれの存在を認めることから始まる。虐めが問題視された頃に、意識的な無視が注目されたのも、人格の全否定の行為と見なされたからだろう。存在は否定できないから、自分たちの行動の中で、存在を認めない行為を繰り返し、差別を強めるといった効果があったらしい。しかし、子供染みたと片付けるなら、これ程稚拙な行為はなく、一時の誤りとできる。が、その一方で、被害を受けた人々から出された言葉は、悪魔的な動機による、犯罪とも言うべきものであり、その扱いが難しいことを表す。個人が強調されれば、こんなことは起きないという考えがあったのかどうかは分からないが、そういった主義が強調された背景には、そんなものがあったのかも知れない。いずれにしても、社会構造に馴染まない話は、長続きするはずもなく、異分子的な一握りの人間だけが、それを体現していたのだろう。どんなに話題にされようとも、少数派であることには変わりが無く、そのまま徐々に忘れ去られつつある。個人の能力の評価にしても、元々存在を認めていれば、大した障害もなく実施できる。この時点で無理矢理そんなことを気にするより、ごく当たり前のやり方をすれば済むことなのだ。主義主張には、何処か歪曲された部分が多いと言われるが、こんな経緯にもそのようなものが強く影を落としている。自分を意識すれば、他人を意識することができ、それが社会を形成するという簡単なことなのだ。

* * * * * * * *

4月22日(木)−代替

 新しい技術の開発は、概ね歓迎される。ずっと昔理論物理学者達が、一致団結して反対を唱えたように、殺傷能力を高めた武器の開発に繋がる技術は、嫌悪感を催すだろうが、それとて、使い方次第では有用と見られなくもない。だが、それらの本質を、歓迎する全ての人が理解しているかと言えば、怪しいものだろう。
 技術開発は、それを実現する製品が目の前に現れて、初めて実体が理解される場合が多い。難しい理論によるものであれば、その入り口で止められたまま、中を覗く機会さえ降ってこないからだ。一方、中身は兎も角、その実用性に注目が集まるものもある。こちらに関しては、如何に有用かの情報ばかりが飛び交い、その影響に言及することが少なく、表に出てきて初めて、それが発覚することもある。以前問題になった肺癌の治療薬も、本格的な使用が始まってすぐに、副作用の問題が拡大し、結局鳴り物入りでの採用が仇となった。最近の話題で、そんなことが思い浮かぶのは、万能細胞と呼ばれるではないだろうか。その入手手段の問題から、隣の国の著名な研究者が地位を失い、倫理問題が注目された。その後、新たに開発された技術により、倫理問題が払拭され、その展望が開けたと報じられたが、それに続く流れを見る限り、事はそう簡単なことではなかったようだ。人間の病として、最も恐れられているものの一つである癌の原因を利用した技術では、その発病の可能性を排除できたかどうかが、非常に大きな問題として捉えられた。続々新たな手法が試され、実際にはまったく違った技術の導入から、問題が片付いたとされているが、実際のところはよく分からない。ただ、こんな話題が中心に取り上げられているが、本当の問題は別の所にある。臓器移植をせずに済ませられることは開発の主目的だが、移植の是非は未だに結着していない。これはどういうことか。

* * * * * * * *

4月21日(水)−根拠

 どんな頻度で行われているのか知らないが、毎月のように実施されているのではないか。国民の意向を捉える為と言われる、世論調査のことである。出てくる数字をまるで金科玉条のように扱い、その動向を重要視する報道機関は多い。しかし、それがどれ程の信頼性に基づくものか、触れられたことは殆ど無い。
 調査とは、本来全数に対して行わなければ正確なことは言えない。と考える人もいるが、統計を生業とする人からすると、多数のものでも、そこから千程度を無作為に抽出すれば、全体を反映する結果が得られるようだ。そんなところから報道機関が行う調査は、殆どの場合、千を超えたところに対象をおく。無作為調査であれば、実施できない例も含まれるから、その数を超えるまで繰り返すこととなる。その結果として、各社は支持率などの数値を、恰も全体のものの如く、伝えることとなる。理論的には、この手法に間違いはないと思えるが、少し考えると、おかしなところが目立ち始める。抽出は本当に無作為なのか、という疑問に対して、乱数作成方式で電話番号を決めているから、無作為という説明があるが、地域差を考慮した場合、本当の乱数では人口密集地の数値を低く見積もることとなる。それを避ける為に、始めから地域に割り振って、という補足説明には、首を傾げざるを得ない。つまり、そのような形で抽出を割り振れば、それぞれの地域の全数を反映する為に、それぞれから千を超える数値が必要にならないか、ということだ。誤魔化し、と言ってしまえばそれまでだが。もう一つは、設問の妥当性に、誰も触れないという点だ。これらだけでも十分に疑う理由となるが、本人たちは一切気にしない。これまでの結果から正しいとするだけのことだ。そんな人々が、ある調査の抽出に異論を唱えても、無意味に思いたくなる。

* * * * * * * *

4月20日(火)−難読

 春になり、鳥の啼き声が喧しくなってきた。これが読めれば十分と言われる漢字の部類には入らないが、しばしば用いられるから何となく見たことがあるといった感覚だろうか。そう言えば、屡々という字も、以前は変換できても、表示ができなかった。何とも不思議な状況だが、お上の定めるところとなる。
 この国では漢字と呼ばれる表意文字も、世界から見ればほんの一部の地域でしか使われない。使用人口比率で言えば、あの国に住む人の数から、地域による比較に比べれば、遙かに高くなるけれど、結局は共通言語には不向きとされる。自国の人間でさえ苦労するのに、他所の国からやってきた人には、責め苦の一つと映っても仕方ない。その上、効率化の一端か、簡体と繁体などと呼ばれる、起源が同じでもまったく違ったものに見えるものまで現れ、混乱の原因は数限りなくある。この国でも、その中間的な存在や、独自の文字があるほどであり、文字は生き物であると評する人までいる。しかし、考えを伝える為には、重要な道具の一つであり、同じ音でも異なる意味になるものや、似た表記でも微妙に伝えたい雰囲気の異なるものがある。遊びと見なしてしまえばそれまでだが、表現力を豊かにする助けとなるのではないか。そんな考え方からすれば、より多くを使いこなせることが重要となるが、その努力の価値があるかは、人それぞれとなるのだろう。お上の定めも、そんな事情から生じたものかも知れないが、勝手にさせろ、という主張もある。ただ、これ程に電子媒体が普及してくると、そちらとの調整の方が重要となるかも知れない。折角使おうとしても、表示できなければ無意味だからだ。その辺りの変遷はどんなものか。少なくとも、微細な表示が可能になっただけに、不可能は無さそうにも見える。

* * * * * * * *

4月19日(月)−拒絶

 同じ音でも、無知と無恥では大きく違う。多くの人は無知を恥と感じるようだが、誰でも知るまでは知らないのが当然であり、無恥を隠すことこそが恥なのではないか。厚顔無恥を地で行く人は、世の中に溢れているけれども、知る喜びを感じられない人々の将来は、そんなところが精々なのかも知れない。
 自らの無知を曝すのは、ある意味で勇気の要ることだ。周囲の全てが知っているのに、何故自分だけが、という思いがあれば尚のこと。そんな中で、恥を忍んで尋ねることは、どうしても躊躇の対象となる。しかし、多くの場合には、周囲の殆どが同様の不安に苛まれているわけで、心配ご無用という結果になることが多い。ここで最も重要となるのは、躊躇の方が大きい場合に、それをいつまでも繰り返し、結果的に機会を失うことだろう。知らないままに時間が過ぎれば、更にその殻を破ることは難しくなる。恥知らず、などと揶揄されようが、一時と考えることで、何とか思い切る必要がある。一方、自ら表明することはなくても、他人が色々と教えてくれる機会もある。ところが、こちらでもそっくりとは言わないが、似た状況により、折角の機会を失うことが多い。それは、知っていること以外は理解できない、という不思議な心理のことだ。特に、学習を終えかけた世代に多い現象だが、それまでの苦労を感じるせいか、新しい知識に対する臨み方に違いが出てくる。知っていること、聞いたことのあることは、理解できるというのは、おそらく興味という括りの為だろう。だから、一度も接したことのないものには、積極的に取り組む姿勢が見られず、結局、何かを得ることはない。未熟な心にこそこんな思いが宿ることは、何を意味するのか。

(since 2002/4/3)