パンチの独り言

(2010年4月26日〜5月2日)
(慎重、抱卵、情理、変心、餅屋、国威、難儀)



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5月2日(日)−難儀

 ラジオから流れる音声に、耳を疑うことが度々ある。言葉の乱れは、そんなところだけでなく、色々な場所で指摘されることだが、一般大衆ならまだしも、言葉を伝えることを生業とする人々の、聞くに堪えない内容には、呆れるのを通り越した感がある。職業意識の薄れは、様々な場面で意識させられるものだが。
 そこで流れていた言葉は、「聞く耳を持たぬ」というある首長の発言である。外国語にすり替えることで、不思議な響きばかりが強調されたが、所詮は票集めの約束に過ぎないものが、ここへ来て、現実味を帯びると共に、実現性が下がるばかりとなり、対象となった地域は、蜂の巣を突いたかの如くの騒ぎとなった。民意なるものが、最優先される時代には、それに従うことが代表者たる者の役割であり、どんな立場にあろうとも、そうすべきとの縛りのようなものが感じられる。そんな中で、話し合いの場を持つ機会は失われ、互いに一方的な主張の投げ合いとなりそうな雰囲気の中で、話題の表現が使われたそうな。しかし、この表現は殆ど悪い意味にしか使われず、批判の含意を持つとされており、不適切な言葉にしか思えない。もし、件の首長がこう発言したのなら、その人物の品位は失墜するはずであり、以前ならば大事と考えられたが、いとも簡単に伝えられた。だが、後日画面で流された発言は、「耳を傾けぬ」という表現であり、かなり意味合いが異なる。となると、このところ資質の低下が目立つ、ある業界の人々の作文となるのだろうか。言葉を扱う業界において、もしこんなことが行われたのなら、どうしようもないと思える。まあ、そんなことを改めて言うまでもなく、そんな程度なのさ、という声も聞こえてきそうなのだが。

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5月1日(土)−国威

 国の力を示すことが第一と思うのが、政に携わる人間の考えることなのだろうか。この国も、嘗てはそれだけを目標に邁進し、様々な歪みを産みつつ、その称号を手に入れようと躍起になっていた。結果は、さほど明らかにはなっていないものの、溜まりに溜まった歪みは、社会の構造を揺るがすほどになった。
 同じことを繰り返したいと思う人間は、どこの国にもいるようだ。ただ、大きな違いは、過去の間違いを繰り返さない、という台詞が度々聞かれることで、恰もより良い結果が約束されているような、そんな印象を与えるところにある。しかし、違いは予想よりも小さく、先人たちの功績は薄ぼんやりとした存在となり、結果的には大同小異の歪みばかりが、蓄積することとなる。その勢いに押された国々も、嘗ての台本とよく似た展開に、警戒を強めるばかりで、手を貸そうとする動きは起きない。結局、他人事であることには変わりなく、内政干渉と声高に反論する姿勢を見ると、放置するのが精々といった感覚も芽生える。これから十年ほど、どんなことが起きていくのか、予想ができるはずもなく、ただ見守るのがやっと、というのはごく当然のことかも知れない。しかし、四十年も前の出来事と比較する姿勢には、何か特別な感覚が見えるし、結果を重視する心理には、ある意味の危うさが見え隠れする。優位に立つことの重要性は、十分に理解できるものに違いないが、それがどれ程の意味を持つのか、その評価に関しては、大した意見も出てこない。これは、凄いという表現の裏返しとは言えず、却って、大したことないからこその反応と言うべきではないか。最終的な数値が発表されても、お国柄の誤魔化しを連想する人には、無意味に過ぎないのだろうから。

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4月30日(金)−餅屋

 政を感情で行うことに、賛成する人はいないと思う。しかし、それを支える人間たちが、感情に流されることに、違和感を覚える人も少ない。現場で動く際に、喜怒哀楽を露わにすることは、悪い結果しか生じないと理解していても、劇場と呼ばれた如く、賑やかな遣り取りがあれば、分かり易いと思うのは、異常ではないか。
 劇場効果を産み出すとして注目されたものが、二番煎じになったかどうかは、早晩知れてくることになるだろう。それ以前の問題として、相変わらずの煽動を繰り返す人々は、端から評価を下げている。面白いと思うのは、大した効果も上げなかった初回のものの評価を、改めて高くし、そこから下げるという、毎度お馴染みの手法をとっていることだ。余程の記憶障害が、大衆に蔓延していると思うからか、このやり方を捨てきれないらしい。それにしても、感情に訴える手法が、これ程の人気を博すのは、明らかにそれを受け取る人間の劣悪化が進んでいるからだ。そこまで馬鹿にされたと気づく人もなく、ただ貧乏劇団の芝居を見に行く人のように、入れ込む姿勢を維持するか、あるいは、看板を一瞥して立ち去る人のように、関心すら示さない。ここまでの経緯から、少しずつ明らかになってきたのは、この見せ物の主題は、あくまでも天下りという既得権益の排除であり、一目瞭然の数値しか理解できない輩の無能ぶりであろう。本来の目標である、効率化という事柄に関して言えば、殆ど何の成果も上がっていない。同じような業務を行う組織の整理・統合という考え方も、結果を伴わなければ、空論として忘れ去られる。政を行う人間たちが、大した知識も判断力もなく、口を出し続けることに、呆れる人も増えるだろうが、そんな時に、肝心なことは何なのか。期待できるのは、結局、現場の人間となるしかないだろう。

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4月29日(木)−変心

 庶民感覚の欠如を問題とする人がいる。人の上に立つ人間にとって、それを持つことが必須のように扱うことに、異論を唱える人は少ないが、果たしてどうなのだろう。庶民の味方とか、市民感情に照らし合わせてとか、そんな話題の振り方が多くなったのも、最近のことで、これが正しいかは論じられない。
 もし、一般大衆の考えることが全てであり、その通りに物事を進めていけばいいのであれば、その代表という存在は不要だろう。あらゆることを、市民の視線で見つめ、その解決を講じればいいわけで、誰かが代わって決める必要はない。そんな流れがあるからか、代表となる人の数は、経費との兼ね合いもあって、漸減し続けているものの、まだ過剰と見る向きもある。いっそのこと、全てを廃止して、自分たちで全てを決めればいいのに、と思うこともあるが、そんな極論は出てこない。その割に、市民感情をもとに、代表たる人間の選び方を極端に変え、不安定な状況を作り出しているのは、何故なのだろう。おそらく、そんな意識もないままに、批判を繰り返し、自分たちの意見の反映のみを願うわけで、ゆっくりとでも、組織の改革を進め、より良い仕組みを築こうとする気持ちは感じられない。明らかに矛盾するものを両立させようとする動きにより、自らの基盤を脆弱なものにしていることに気づかぬ人々は、本心として、どこに向かおうと意図しているのか。煽動する連中は別として、一般大衆と呼ばれる人々が、何を欲しているのかを見極めることは、かなり難しい状態にある。命令系統の朝令暮改は話題になるものの、それを受け取る人間の気の変わり様の速さが問題になることはない。だが、世界で問題となっているのは、まさにそこなのではないだろうか。

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4月28日(水)−情理

 論理とは、議論の筋道であり、そこに断絶があれば、話が繋がらず、同意は得られない。筋立ても、身勝手なものでは受け容れられず、多くの人の賛同が得られるものでなければならない。そんなことから、客観的な見方が採り入れられ、大多数の人々の理解が得られるものとなり、成立することとなる。
 論理的な思考は、皆が当然のように身に付けるべきものであり、共有することによって、社会の秩序が守られることとなる。これ程歴然としたものの価値が、最近揺らいでいるように感じられるのは、由々しきことではないだろうか。現代社会の風潮は、市民感覚などの言葉で代表されるように、感情が最優先となる傾向にある。世論を重視する見方も、そこにある論理でなく、庶民感情を中心に据え、あらゆることが感情的に流れるようになった。それが単に感想の域に留まっていた頃は、大した問題も生じなかったが、強引な運動が台頭するに連れ、制度改革にまで影響が及ぶと、直接的な作用が働くようになる。これによって、民主主義が浸透すると受け取る向きもあるが、現実には、一部の声のみが届くようになり、意図的な操作が目立つこととなる。感情に流される人々にとって、論理を理解する面倒はなくなり、欲望に近い形での表明方法を、安易に振り翳すことができるのは、一種の安心に繋がるのだろう。どこからも反対が出ないことも、世論の後押しという形で解釈が施され、突進する体制ができあがった。諦めの早い人は、たとえこの状況を世界戦争に突入した時代と酷似すると思ったとしても、口を噤んでしまい、あの頃と同じように、無駄な手出しは無用と考える。馬鹿げた方法しか知らない人は、これこそ権利と歓声を上げるばかりで、本質を見ようとしない。大切なものを見失うことは、かなり危険な筈なのだが。

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4月27日(火)−抱卵

 育むという書き方が、使っても良いと分類されたらしい。そんな読み方は知らないとばかり、押しつけのような躾を実行し、育てていると思い込む親も多いようだが、同じ字を使っても、雰囲気が微妙に違うのは何故だろう。温かく見守る雰囲気が伝わるのと、手を焼き、熱心に取り組む雰囲気に違いがありそうな。
 不思議に思いつつ辞書を紐解いてみると、育てるは「一人前になるまでの過程をうまく進むように、世話を焼き助け導く」とある。それに対して、育むは「親鳥がひなを抱いてそだてる」とか「発展を願って大切にする」とある。育むの後者は、人が対象でなく、学問などの分野を対象とするものだから、少し気分が違うかも知れないが、手のかけように微妙な違いがありそうだ。いずれにしても、要領が明確となり、道筋が明白となったと思われる時代には、育むといった待つ姿勢は尊ばれず、全てを路線通りに進ませることが最良と見なされる。教則本が流行するのも、そんな時代背景によるもので、どの道を進むかがはっきりせず、選択肢が多数あったり、逆に、選択の余地が無かった時代には、そんなものに頼る風潮は存在し得なかった。どちらが良い時代かは、人それぞれに違うわけで、どんな時代に育つかは、運に左右されるのだろう。しかし、今現在を考えれば、運についてとやかく言うわけにも行かず、何とか最良の結果を得たいと思うのが、普通だろう。こんな中で、手取り足取りの風潮が高まり、あらゆる教育機関が、固定された目標を持ち、それに邁進する姿勢を示すのは、ごく当たり前のことに思える。だが、教え育むと表現される事柄を扱う以上、押しつけで枠にはめることだけが役割ではないだろう。そんな選択ができない環境を作らせるのは、如何なものかと思う。

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4月26日(月)−慎重

 何でも知りたがる。最近の人々の傾向、と言うには少し躊躇いが残る。自分のことにしか興味を示さない人間が、急増しているという状況があるからだが、出歯亀は言い過ぎとしても、何にでも首を突っ込みたがる人たちにとって、今の世の中は大変有り難いものに違いない。玉石混淆、あらゆる情報に溢れている。
 しかし、そこにあるのは、ほんの一握りの確かな話と、根も葉もないかあるいは、思惑に満たされたガセネタの山である。情報の流れが一部の組織に任されていた頃、偏向は当然あったものの、嘘に塗れた話は殆ど無かった。だが、インターネットという仕組みが普及するに従い、嘘、曲解、煽りなどといったものばかりが増え、信頼できるものの数は激減した。それでも、従来から存在していたものが、これまで通りの方針を維持していたのなら、大した影響もなかっただろう。世の中の流れに遅れてはならじと、速度ばかりを気にする人々が台頭し始め、これらの組織でさえ、未確認、不確定など、操作の意図までが見え隠れする情報を流すこととなり、歯止めが利かなくなった。それでも、情報源を詳らかにしない姿勢は維持されており、放言を流しても、その出所が知られることはない。驚くべきは、その流言飛語の批判をすることで、発言者の属する組織への批判に繋げ、世論を誘導しようとするやり方で、これこそ、形を変えたマッチポンプの典型となりつつある。馬鹿げた発言を繰り返す人々の品性は当然のことながら、それを利用しようとする報道の姿勢は地に堕ちたと言うべきものだろう。こんな軽佻に乗せられる軽薄な人々は仕方ないものだが、こんな時こそ、調子に乗った連中に理に適った批判を浴びせる必要があるのではないか。

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