取扱説明書という意味の言葉が、少し意味の違うところに使われる。行動の仕方、生き方、その他様々な、人それぞれの歩むべき道筋に対して、まるで唯一の正解があるかのように、解説しようとするものだ。昔なら、個人差の方が遥かに大きいと見なされた為に、こんなものに注目が集まる事は無かったのだが。
そんな時代の事を知らない若い世代だけでなく、ある程度齢を重ねた世代にも、こういった類いのものは人気があるようで、様々な世代を対象とした教則本が、書店の店先に平積みされている。先輩の動きを真似、技術を盗む事が当然と言われた時代に、育ってきた世代でさえ、ここにきて、混迷の時代に真似るべき指標が周囲に見つからず、本に載せられた話に頼らざるを得ない、という状況なのかもしれない。しかし、自分自身の判断を採り入れながら、人真似を取捨選択していたのに対し、次々と真似る事柄が提示され、それを繰り返させる手法が、どれほど有効なのかは怪しいものと思える。個人差とか、個性とか、そんなものを重視せよと言われた時代が、急速な衰退と重なったせいか、それ自体がまるで悪者のように扱う風潮が起きた。そんな中では、唯一無二の指標を示す事は、猿真似という悪い点より、確かな手法という良い点の方が優先され、持て囃される事となった。他人との差を気にする立場から言えば、何の違いもないものこそが、堅固な守りに繋がる訳で、それを如何に素早く身に付けるかが、他人との差を産むものとなる。ごく当たり前の事、と受け取る向きもあるし、全体を押し並べて見れば、特別な存在より、ごく平凡な存在こそが、有用である訳なのだから、こんな風潮が当然なのかもしれないが、こんなやり方、特別に扱わないと身に付かないとは、何処かおかしな気がする。
個性で片付けるには、逸脱の度合が大きすぎる時、人は原因を病に求めるようだ。病気と呼ぶと、余りに異常な印象を与えるので、そうならないような呼称を考え出すようだが、いずれにしても、他の大多数と異なることを、確定させる手段に過ぎない。その割には、気軽に持ち出す人が多いのは、聞こえの問題か。
個体差は、どんな生き物にもあり、人間の感覚からすると、異常とも思える行動を示す個体は、どこにでもいるらしい。ただ、人間以外の動物や植物では、たとえ、そんなものが見つかっても、個体差なる呼び名で、簡単に片付けられる。ところが、いざ人間に関わる話になると、ことは簡単ではないようで、個性という軟らかな表現で括り、それに収まらないと見るや否や、特有の症状を括る呼称を編み出してくる。新たな表現であれば、それまでに培ってきた認識に当てはまらず、表面的には柔らかな響きを醸し出すから、使いやすいのだろうか。人権擁護という立場からも、極端な誤解を産む表現より、何か得体の知れないもののほうがましとでも言うか、怪しげなままでの流布が起きる。異常さは明白であり、そのような行動は、以前から散見されていたにも拘わらず、新名称によって、別の解釈が施され、その行動への理解が強いられる。この流れは、ごく最近に出回り始めたものだが、それが当然のように扱われることから、反論の余地は残されていない。一種不幸な人間に対して、温かみの感じられる光が当てられることとなったと言えば、言えなくもないことなのだが、原因への理解を放棄し、現実の理解を強制することに、抵抗を覚える人もいるだろう。肯定的な考え方は大切だが、そこに強引な動きがある限り、本物の理解は覚束ない。
田舎の道を行くと、向こうから街宣車がやってきた。曰く、ばらまき政治を打破する、と。其処に掲げられた政党名は、ついこの間まで、同じ台詞の批判の矢面に立たされていたもの。相も変わらぬ芸の無さに、呆れつつ、車を走らせ続けていた。何とかの一つ覚えではあるまいに、攻守ところを変えただけなのだ。
こういう行動を見るだけで、今の政治の水準の低さには、呆れるばかりとなる。だが、その原因は、そんな連中の口車に踊らされ、人気投票の如くの行動に出る、庶民と呼ばれる人たちにあり、期待外れとなった途端に、自らの行動を顧みることもなく、批判を繰り返し、罵声を飛ばすのには、また、呆れるしかない。期待がどれ程現実離れしたことか、あるいは、実現の可能性がどれ程か、自分の頭を使って考えたことのない人たちが、最も激しい攻撃を繰り返すのだから、このような負の連鎖が止まるはずもない。嘘つき呼ばわりする前に、思考とは何をすることか、考えてみたらどうだろう。確かに、政に対する期待は悉く裏切られてきた。原因は双方にあるものの、現時点で明らかなことは、その中心にいる人々の資質の無さだろう。にも拘わらず、自らが掌握することに、異常なほどの執念を燃やす。結果として、官僚批判の矢が、回り回って元に戻り、自らの無策を暴くこととなる。こんな調子では、社会は荒んでいくばかりだが、新たな変化は出てくるのか。そんな話題で、友人と話していた時、ふと思ったのは、こんなことが繰り返され、根本的な解決が必須となった時、どこからそれが出てくるのか。ほぼ明らかなことは、下地を作るべき人々が、その任を全うする覚悟を持つこと、官僚の意識改革のみが、その出所となることなのではないだろうか。
本能と聞くと、一段下の能力のように受け取る人々がいる。確かに、何か特別なことを考えなくとも、自然に現れる能力だから、敢えて努力して身につけるのと比べれば、簡単なものと見なせなくもない。だが、そんな考え方をせずに、単に、動物との違いを際立たせる為、といった感覚が主体となる場合もある。
そんな人々にとって、本能とは下等なものであり、苦もなく実行できるはずのものだろう。考える力があってこそ、人間の存在が際立つわけで、それを忘れてはいけない、と思っているのではないだろうか。しかし、生物本来の能力であるものを、何かしら別の力によって、抑えつけることについて、どう考えるのだろうか。高等なる生物が、下等な能力を上回る、更に上等な能力を獲得したと見るのだろうか。こんなことを書いた方が良いのでは、と思ったのは、人間の欲望に振り回される行動が、時に、本能と見なされるべき行動をも、抑制することによって、生来の能力を失うばかりか、人間としての尊厳さえ喪失したような、そんな事件が多発するようになってきたからだ。欲望も、本能の一つと見なされることもあるが、所有欲の多くは、それとは異なる領域にあるように思える。金銭欲もその一つなのだろうが、それに振り回された結果、家族の絆が失われたり、他人の命を奪うまでに、生き物としての能力を失うことには、驚かされてしまう。社会性の喪失や協調性の低下なども、同じような現象であろうが、そういう必要不可欠なものに対して、もっと厳しい指摘があっても良いような気もする。理性などと呼ばれるものが、いつの間にか姿を変え、野性に戻るかの如く、扱う人もいるが、現実には、本能までもが失われているわけで、かなり深刻な状況にあるのではないか。
山の上の池の周りを飛ぶ鳥がいる。飛び方からすると、燕のようだが、どんな種類かは識別できない。そう思って麓へ降りてみると、こちらでも独特の飛び方をする鳥を見かけるようになった。そんな季節かと思ってみるが、では、彼らはどんな仕掛けで、この季節になると南方から渡ってくるのだろうか。
渡りをする鳥類は多い。子育て、餌の関係、など、色々な理由があるのだろうが、前年の巣を使うなど、燕の行動はその中でも際立っているように見える。誰に教えられたわけでもなく、ある意味、自然に起きる行動のことを、本能と呼ぶらしいが、考える何とかと、自分自身を呼ぶ動物種にとっては、そんなものはごく簡単な仕組みで実現されるもの、と映るらしい。だが、渡りの経路や時期の判断をどうするのか。行き着く場所をどうやって見つけるのか。そんなことを疑問に抱くと、その答えが見つけられないことに、愕然とするのではないだろうか。方向を知る手がかりでさえ、多くの人間は身につけていない。教えられて初めて、東西南北を知った人の方が遙かに多い。それを苦もなく実現する動物を眺めて、驚かない方がおかしい気もしてくる。そんな指摘をすると、決められたことを決まったようにするだけで、特別なことは一つもないという反論もある。確かに、その通りかも知れないが、どう決めているのか、そんな疑問には答えてくれない。本能と思考によるものの違いを、特殊な違いの如く扱えば、その通りかも知れないが、現実には、それ程大きな違いはないのかも知れない。仕組みが分かるか分からないか、そんな指標で考えたり、対応の違いが出るかどうかで区別することに、どれだけの意味があるのか。そんな思いを抱きながら、本能を考えると、急に何もかもが分からなくなる。
話すままに書くのは間違い、と指摘する人々がいる。確かに、話し言葉と書き言葉には違いがあり、それを無視した形の作文は、読むに堪えない代物を、濫造するばかりとなるのだろう。しかし、その一方で、何を書いて良いのか悩むばかりで、一歩も踏み出せない人がいる。そんな人でも、話ができるというのに。
要するに、言葉の使い方だけでなく、話では遣り取りが中心となり、互いに補い合うことができるのに対し、書くことでは、一方的な組み立てしかできず、相手のない中で流れができないということだろうか。だが、まず一歩目として、普段話している如く、気楽に書き始めたらどうか、という意図があったのではないか。そう考えると、一歩目が必要な人への助言として、こんなきっかけの与え方もあったのだろう。にも拘わらず、杓子定規に、内容の違いを殊更に取り上げ、批判を繰り返すことで、更なる萎縮を誘うとしたら、そんな意見は的外れといわざるを得ない。確かに、高度な内容を分かり易く説くことが重要な時に、話すようにというやり方は難しい。そこまで進歩した状態の人に、敢えて話すようになどと助言する人はおらず、全く違った指摘が必要なことは明白だろう。それにしても、教則本も含めて、何故これ程までに対象の絞り方が不十分なのだろうか。自己評価においても、自分に足らない部分を的確に指摘する人は殆どおらず、結局、どんな対処をしたらいいのかも見えてこない。こんな状態で、誰かの助けを欲したとしても、余程の達人でない限り、見極めることは不可能だろう。自分に見えないものを他人に委ねるのは、ほぼ不可能に近いことなのだから。ただ、誰にも始めの一歩はあり、そこでの一言は大きな影響を残す。そんなところなのかも。
困っている人を見かけたら、助けるのが当たり前、と言われているけれども、実行する事は難しい。ほんの小さな事でも、自分が動く事となれば、そこで決断が必要となる。それに対して、他人事ならずっと気楽なもので、大した抵抗感も出てこない。自らに降れば、やっとのことでが、他なら、どんどん進めて欲しくなる。
これは制度の問題ではなく、自分が動くかどうかが、大きな違いを産む。援助の手を、誰か困っている人に差し延べるのであれば、それで良いとなる。そこには、自分の存在は無く、ただ、誰かと誰かが、互いに遣り取りするだけの事だから、他人事となるのは当たり前である。だが、それが気楽になるかどうかは、人それぞれの感覚の違いによる訳で、そちらは簡単には片付けられない。にも拘らず、このところの気楽な試みの増加は、何を意味しているのだろうか。社会全体が困難と直面し、その解決を迫られている最中、他人事かどうかが重要と見られるのは、何処かに矛盾があるような気がしてならない。典型的なのは、これから社会に出る人々への救済だろう。社会全体としてみれば、今後の展開を考える上で、重要な要因であり、彼らの将来を保証する事は、社会を支える上で、必要不可欠な動きに違いない。だが、一時の救いの手が、その後の展開に対してどんな影響を及ぼすのか、その辺りに関する議論は、殆ど行われていない。人を育てるという立場から、様々な発言が行われてきたものの、こういう場になると突然、即席の手当が行われ、他に手だてが無いかのように扱われる。少し考えれば、これまでにもこういった応急手当の連続があり、根本治癒の無いまま、見かけの動きばかりが重視されてきた。結果が明白であるにも拘らず、依然として同じようなやり方を継続する。やはり、他人事に過ぎないからか。