パンチの独り言

(2010年5月10日〜5月16日)
(強要、下克上、注意、中庸、定石、切迫、続報)



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5月16日(日)−続報

 ニュースとは新しい情報を伝えるものだが、情報の取捨選択には、何らかの思惑が影を落とす場合が多い。そこでは人間の心理の動きが重要な役割を果たし、関心を呼ぶための要素の有無が鍵となる。本当に不安定な時代には、明るい話題が歓迎されたが、安定とはいえ停滞する時代には、不安を煽るものが選ばれる。
 本当に不安に満ちた時代であれば、こんなやり方は通用しないと思われるが、停滞期で、今後下がるのか上がるのかが定かでない時には、楽観的な話より、悲観的な話の方が扱いやすいのだろう。ただ、真の関心が呼び覚まされたのでないことは、同じ話題が継続して伝えられることが少なく、次々に話題を変えて、不安に満ちた時代を演出する傾向から分かる。それぞれの話題が、人々にとって重要であれば、その続報が待ち望まれるし、そういったものを欲する声が、情報を流す機関にも届くだろう。現実には、その場限りの将来を危ぶむ声が伝えられ、その後の展開には誰も興味を持たず、いつの間にか忘れ去られる。そんなことが繰り返された結果、今では、続報の必要性は認識されず、情報の垂れ流しが当然のこととなっている。個々の話題は、それに関わる人々にとっては重要であり、将来への重大な問題を提起する筈だが、画面や誌面のこちら側の人間たちは、その場で煽られる不安感に振り回されるだけで、問題の本質に触れようという気はない。これでは何も起きないのに、と思うのは、物事を真剣に考える人だけで、多くの人はその日暮らしを続けるだけだ。都会の雀が減少しているという話題も、多くの報道機関が関心を持ち、流しているようだが、その意図は明確になっていない。関係者の話は深刻に映るが、話題として何を伝えたいのか見えないばかりか、また、すぐに忘却の彼方かと思えてくる。

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5月15日(土)−切迫

 世の中に余裕が無くなった為か、はたまた、端からゆとりなどという感覚が、馴染まない対象に当てはめた為か、いつの間にか姿を消したものがある。提案をして、時の人となっていた人物も、今は何処に行ったのやら、表舞台から降りてしまった。心の状態を表す言葉を、時間の長さのみに適用したことが間違いか。
 それにしても、総括することなく、当然のことながら、反省の言葉もなく、方針転換を行う人々には、連帯責任という感覚はない。推進していた時代には、殆どの人が決定権を持っていなかったのだから、何もできなかったことは事実だろうが、転換すべきとの判断には、確固たる理由が存在する筈であり、そこには功罪入り混じった結果が、影を落としているのである。いずれにしても、政策とはこんなものと思っておけば、振り回されながら、一喜一憂を繰り返すことの馬鹿らしさが、はっきりしてくる。それを承知の上で、転換に対応しつつ、自分なりの信念を貫けば、大して心配する必要もない。人任せを忘れ、結果が見えてから批判するのは、愚行としか言えない。それは兎も角、時間数を増やす為には、休みの数を減らす必要があり、週末の休みは一日となる。教える側の負担の話は、相も変わらずの本末転倒だが、振り回された結果、休めなくなった子供たちに、効果的な教育を施そうとする動きがある。折角の時間だから、特別な内容を、という考え方に、開いた口がふさがらないが、今一度、基本に立ち帰る気配が見えないことが、この業界の荒廃を物語るのではないか。更に、それを伝える側が、初めての土曜日の授業などと述べるのは、何も知らない子供たちに、更なる誤解を与えるだけだ。何十年ぶりの再開と言うべきであり、昔は当然だったことを伝えることこそ、本当の意味を知らせることなのではないか。

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5月14日(金)−定石

 人を裁くことの難しさを訴える声が上がっている。新たな制度の導入により、専門知識を持たない人の参加が必須となった為だが、法による裁きを無知なままで実行せよという話は、庶民感覚からは無理難題に映るだろう。それでも、様々な助けを得て、一応無難な形で進んでいるようで、一部には安心感が広がっている。
 これとは無関係な制度改革だが、裁くべきかどうかを決める仕組みにも、改正が行われた。こちらは、専門家の判断が社会通念に合致しない場合に、再考を促す為に設けられた組織だが、その決定が何の強制力も持たないことから、専門的な判断が最終的に覆されることが殆ど無く、無意味な手続きに過ぎないとの批判があった。今回の改正では、最終的に強制力を行使できることとなり、画期的なものとして、既に幾つかの事例が、裁きの場に委ねられている。改正の意図がそのまま現れた結果とは言え、裁き自体は法に照らして行われるから、必ずしも決定を下した人々の期待通りになるかどうかは分からない。しかし、世論というものは、恰も既に勝利を手に入れたが如く、流れるから不思議なものだ。その上、手順さえ踏めば、毎度同じ結果が出ると決め込み、憶測を飛ばす連中が出てくる始末。もし、その通りならば、制度自体が形骸化しているわけで、正常な判断を下していないこととなる。いつ頃から、こんな考えが蔓延したのか定かではないが、専門家の判断より、一般大衆の判断が尊重されるのでは、西部劇の一シーンと変わらぬ事態ではないか。確かに、法律の厳密な適用は、関係者の心情を汲みきれない結果に繋がることも多く、理解しがたいと受け取る向きも多い。だが、心情を汲もうと感情的になったのでは、法治国家と呼ぶには恥ずかしい状態となる。この点は、裁きに参加する人々へも、伝えられているはずだ。

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5月13日(木)−中庸

 どちらが頭の良い仕組みなのか分からないが、分かり易さという意味では、対極を形成する形が上に来るだろう。白黒はっきりさせることは、誰にも結果が見やすくなり、意見を反映させやすい。だが、このところの結果とその後の流れを見ると、極端に陥る傾向が強まり、構造欠陥が目立ち始めた気がする。
 そんな中で、本家本元の結果は意外なものとなった。極端になれば、目先の結果を求めることとなり、混迷の度が増すばかりという、ごく普通の感覚が台頭したのだろうか。しかし、制度の上では、どんな結果を導こうが、明確な体制を築くことが第一であった筈で、自制が働いたとしても、予想外としか言えないものだろう。そんな様子を遠くから眺めると、両極体制の良さを引き入れるとして、その実、自らの優位を保つことを第一に、小さな区分けを導入したのは、予想通り、安定という名の下の悪政と、不安定な風見鶏政治を、導くこととなった。元々、白と黒の区別しかできない人々と、中間色に心を奪われる人々に、違いがあるのは当然なのに、互いに、隣の芝生に目を向けてしまえば、不慣れな舵取りを迫られ、心の安定は遠ざかる。あちらの今後の成り行きも、興味深いものがあるけれど、所詮、他山の石となるより、対岸の火事にしかならないのではないか。中途半端と、外から批判されようとも、中間的で、ぶれの小さな変動のほうが、この国には適しているような気がしてくる。自らの利益しか考えない人々の、極端な意向が反映されることは、大きな規模の組織を動かす為には、障害としかならないことは、ここ数年の動きで明白となった。そろそろ、制度ありきでなく、自分たちの性格に適合した仕組みを、考え直す時期が来ているのではないだろうか。

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5月12日(水)−注意

 会社ごとに表示方法が異なるが、障害者を始めとした弱者を優先する意図で導入された席は、様々な話題を提供してくれる。最近も、少子化の影響からか、妊婦をその仲間入りさせようと、自己申告でなく、何らかの印を提示させることとし始めた。だが、効果の程は、どれに関しても芳しくないようだ。
 特に、技術革新の影響を一番受けている、車内での通信機器の使用に関して、表示や車内放送によって、注意喚起が頻繁に行われているが、効果は全く無いに近い。我関せずの状況で、メールや話に夢中になる若者の姿が、蔑んだ視線を集めていたのは、もう昔のことで、今や、全く状況が変わったと言ってもよい。電子音が喧しいと思って、その先を見つめたら、その席を占めても良いと思われる年齢の男性が、麻雀ゲームに勤しんでいた。席についた老人が、地下鉄線内で、駅に着く度に、画面を覗き込む姿も目立つ。降りる準備を始めた時、補聴器を耳に装着するのを眺め、呆れるのを通り越してしまう。別の席では、若者に流行の、リンゴの印のついた機器を扱う、やはり十分に資格のありそうな男性が、メガネを通さぬ視線を画面に送る。そんな姿が見えても、誰も注意しそうにもない。皆、無視するだけのことなのだ。電磁波の危険性を訴える人がいる一方、直接的な証拠がないのを強調する企業がある。監督官庁も、様々な手法を用いて調査しているようだが、決定的な証拠は、白黒どちらにも出されていない。結局、自衛手段に訴えるしか方法が無く、一時話題となった埋め込み機器も、影響を受けないものが導入され始めたと聞く。道徳観、倫理観の喪失が叫ばれて久しいが、既にその標的となっていた世代が、若者の模範とならねばならない年代となった。もうおしまい、という声も聞こえるが、自己中心の社会は、どうなっていくのか。

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5月11日(火)−下克上

 上意下達を謳った組織改革は、悉く風塵と化した。などと思いたくなるほど、硬直した組織は、その形を変えることもなく、ただ其処に突っ立っているだけである。民主的と称して、様々な考えを吸い上げようとする動きは、纏まりのない迷走に繋がり、四散したが、それを修復する為と期待された改革も、また同じ運命か。
 一点に集約させた仕組みの導入は、組織全体がその意向に従うことを前提とする。だが、頭の悪い中枢部の問題か、あるいは、心変わりの早い下層の問題か、上下を往復する批判の応酬ばかりが盛んとなり、効率化の夢は脆くも崩れた。ここで話題にする改革を施した組織は、国単位の大きなものから、企業などの一部署のようなちっぽけなものまで、どれにも当てはまる話であり、塵の山の大きさは違えども、類似した結果を生じたことに変わりはない。確かに、上に立つ人間の責任は大きい。方向性の見えない動きは、従わざるを得ない人間にとって、暴走や迷走にしか映らない。説明責任という流行語も、そんな場面で屡々使われるが、その辺りにも問題があるだろう。理解力のない人間に分かる説明は、無いに等しいわけで、それを要求する人間への対処こそが問題なのだ。それを、気短な管理者は、始めから諦めの境地にいたり、気長な管理者は、懇切丁寧を心掛ける。どちらも徒労に終わることは確実であり、前提の間違いに気づくべきなのだ。一方、下で支えるべき人間たちにも、責任がないわけではない。支えること、任せることの意味を理解しようとせず、ただ、自らの欲望に走り続けた結果、組織内の歪みは強まるばかりとなり、柔軟な対応は実現できない。では、と思うのは、結局、こんな状況だからこそ、原点に立ち帰り、上意を心掛けるしかないだろう。となれば、従わぬ者には、ある程度の罰も必要か。

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5月10日(月)−強要

 異常な行動の結果起きた事件が、屡々報道されるのだが、その度に、それを知る必要のある人がいるのかと、不思議に思う。特殊な事情が背景にあるものほど、一般化できる可能性は皆無であり、何かの役に立つとは思えない。寧ろ、素直な受け取り方をする人ほど、そこから生じる疑いに苛まれるのでは。
 知らなくて済むなら、その方が良い、といった類のものは非常に多い。物知りは尊敬の念で見られるものの、本人自身は悩みに沈むこともある。自慢気に話す人々は、実際には興味を抱くこともなく、ただ知りたいという欲のみで動くから、心理的にも平穏なままでいられるが、首を突っ込むだけでなく、何となくその気になってしまう性格の人は、困り果てる場合もあるだろう。そんな人々の性格の違いを無視し、不要な情報を垂れ流し続ける社会の仕組みは、何処かに重要な欠陥があるように思える。社会の秩序を守る為に、最も重要なことの一つは、安心感であると言われる。それを提供することこそが、一つの社会を維持する為の、重要な手段であることは、政治や経済の問題が、これ程大きく取り上げられることからも、よく分かるだろう。だが、そういった情報を流す人々が、同時に、不要なものを強いて取り上げることには、疑問を抱かざるを得ない。確かに、ある種の病気が蔓延するようになり、その扱いに苦慮する時代なのだが、それを社会全体の取り組みとすべきかどうかは、怪しいものだろう。安心と疑心は、正反対のものに見えるのに、それを同時に持てと促される。そこから、過度な不安定が生じるのは、当然のことであり、連鎖反応が起きたとしても、不思議はない。知る権利ばかりを殊更に強調するのではなく、知りたくない権利を保護する姿勢も大切なのだろう。

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