パンチの独り言

(2010年5月24日〜5月30日)
(凡庸、特例、接客、無力、養成、見当、変貌)



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5月30日(日)−変貌

 夏の山道を行くと、道案内のように先を行く虫を見かける。金属光沢のある、色鮮やかな甲虫は、斑猫と呼ばれる。これと同じではないが、車をゆっくり走らせていると、先を飛んでは降り、降りては飛ぶ鳥に出合うことがある。尾羽を拍子をとるように動かすのが特徴の、白鶺鴒と呼ばれる鳥のようだ。
 川辺などでよく見かける鳥は、気性が荒いようで、時々、遙かに大きな烏を追い立てているのを見る。渡りをすると知られていた割に、最近はいつでも見られるようになったので不思議に思っていたら、繁殖の地を変えたとのこと、人間の生活の影響がこんな所にも現れるのかと思う。都会に棲む鳥たちにとって、人間が毎日出す食べ残しは、重要な食料となる。本来ならば、虫などを捕らえて生きてきた鳥たちが、その食性を変え、残飯を漁るようになると、そこに大きな変化が起こる。生き物を相手とする場合には、季節の移り変わりに影響され、それに伴って生活の場を移動する必要が出てくる。しかし、定住している人間の出す残り物を相手とする場合には、事情は一変する。人々がすることを観察し、そこから供給源を見つければ、後は苦もなく食料を手に入れることができる。飼われているわけではないが、人間との関係は濃くなり、何かが変われば状況も大きく変わり、死に絶える可能性もある。何処かで取り上げた都会の雀の減少も、人間の生活との関係が深いからと言われた。環境破壊は、表面に現れたものを取り上げる傾向にあるが、元々、人間の生活そのものが破壊に繋がるものであり、自分たちの快適が、他の者達の不快に結びつくことも多い。だからどうすべきかなどと言うつもりはないが、生きること自体がそういう意味を持つことは知っておくべきだろう。

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5月29日(土)−見当

 団体行動が苦手、社会性の欠如が問題、などと言われる人が増えているらしい。個性を尊重する動きの反面、協調性の必要性が問われると、さて、どんな行動が適しているのか、判らなくなる。そんな環境で育った人々に、自分なりの判断を促しても、答えは簡単には見つからないかもしれない。どうしたものか。
 このような問題を抱えた世代では、社交性や協調性が重要との考え方が目立ち始めている。これ自体は成長を促す意味では、大切なものと思われるが、そこで別の問題が生じるとしたら、更に複雑な事になるのではないか。自分達に無いものを手に入れようと躍起になる人々にとって、手に入れたいものが何かを考えるのは、簡単ではない。何しろ、何を社交と言うのか、何を協調と言うのか、知らないままに育ち、その解決を目的とするのだから、困難に違いない。その一方で、こんな集団の中で、自分の特長として社交性や協調性を主張する人々がいる。他人と話をする事が得意とか、話を合わせる事ができるとか、そんな様子なのだが、実際に話をしてみると、融通の利かなさに呆れる事となる。話題が少ないのに、それを広げようと必死になり、知りもしない話に手を出して、引っ込みがつかなくなる。話題を合わせる為に、相手の主張を受け容れるだけとなり、自分の考えを曲げるばかりで、結局うまくいかなくなる。それが極まれば、自己主張の無い人間と見なされる事もあり、悲惨な結果を導く事になる。本人は、自らの売り込みに必死になるのだろうが、現実には、欠陥商品を売りつける事になる。果たして、これが良い道だったのか、後になってから考えても仕方が無い。自己評価などと言っても、評価基準が肝心であり、それが見込み違いとなると、はて。

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5月28日(金)−養成

 伝家の宝刀とか切り札のように、絶対的なものとして紹介され、それを手に入れようと欲する人々に、意味のない情報を提供する。詐欺紛いであったり、まさに詐欺そのものだったり、そんな事件にはこんな類のものが含まれる。さて、どんな事件を思い浮かべるか、これだけの話では絞りきれないのが当然だ。
 人にものを教えることの多くは、真面目に取り組み、その成果を測りながら、成長を促す。だから、教育産業には、こんな話が馴染む筈はない、と思う人が多いだろう。しかし、よく考えてみて欲しい。自分たちが何も考えずに、教わったことが身に沁みたことが何度あっただろう。教え方が上手いとか、生徒の気持ちをつかむのが上手いとか、そんな話が出てくるけれど、それが何故万能の力を得ていないのか。本当に絶対的なものであれば、相手がどんな人間だろうと、通用する筈ではないか。そうならないのは、受け手に問題があるからなのだ。臓器の拒絶反応のように、受け容れない仕組みが備わっているわけではないが、反発するばかりで、興味を示さない人間に効果を及ぼす方法はない。そんな人間でも、と反論する人々も、興味を引き出す力の話ではないことに注意して欲しい。要するに、聞く耳を持たない人間には、あらゆる作用が無駄となるわけだ。そう考えると、送り手より受け手の問題が先であることが分かる。その中で、即物的で、即効性のある能力獲得を謳ったとしても、殆どの人には効果が得られず、ほんの一部だけが獲得ではなく、気付きということで何かを得るだけなのだ。その意味で、力をつける主体は受け手にあり、送り手は多くの場合大した役割を負っていない。そこで重要な要素は何か。聞く耳と理解する頭、だけではないか。

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5月27日(木)−無力

 何かある度に、力が問題とされる。実力がある、などと評されるものの、その実体は不明確な場合が多い。腕力のように数字で表せるものならいいが、処理能力といった括りのように、結果のみが取り上げられ、その中身がはっきりしないものは、漠然とした感覚でしかない。そんなものに注目が集まるのは何故か。
 複雑な話は抜きにして、単純にしてしまえば、力のない者が増えているという感覚が、こんな表現を使おうとする気持ちを高めているのだろう。使い古された言葉の、最近の云々というものも、同じ心理から出てくるものだろうが、その真意はかなり異なっている印象を受ける。漠然としたものは、そのまま茫洋としたままで良い筈なのに、力の上に具体的な言葉をつけることで、実体が明確になるように、といった意図が見えるからだ。ただ、そんな考えが上手く働いていないことは確実で、そんな言葉が編み出される度に、意味不明な尺度が作られたという印象を世の中に与える。人間としての力というつもりの言葉は、ある意味で最悪のものであり、もし、それを備えない人が居たら、どんな生き物になるのかと思える。改めて周囲を見渡してみると、この手の新語が巷に溢れており、中には重宝なものと受け取られている。だが、これ程までに力の指標に拘ることは、人を混乱に陥らせ、欺瞞に満ちた社会を築くことになるのではないだろうか。大きな括りで表現すればするほど、その対象はぼやかされ、実質のないものになるだけのことだ。そんな力が役に立たないことは明白であり、その養成に力を注ぐというのは、無用の長物を作り出すこととなる。こんな話題が取り上げられる度に、永田町や霞ヶ関と揶揄される、懲りない人々の思いつきが散布される。暇人の戯言に耳を貸す必要はないのだろう。

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5月26日(水)−接客

 ホームの待合室で、見知らぬ人から声を掛けられた。駅の検札の仕組みが変わったことに関する感想だが、久し振りの遠出で驚いたとのこと、そんなものかと思いながら、変更の理由を説明した。高齢者にとって、世の中の仕組みの変化は、全てがこんなものであり、理解しがたい変化に戸惑うのだろう。
 話の続きで、様々なカードに話題が及び、一切そういう物に興味を持たない、とのことだった。直接の理由は聞かなかったが、無くす恐れと持つ意味に触れていたから、そんなところが理由なのだろう。客と店の関係という説明も、その利益を意味あるものと受け取らない人には、成立しないものとなる。便利とか、付加価値とか、世の中では様々な形で取り沙汰されるが、真の価値がどれ程か、解釈は人それぞれだろう。そんな考え方からすれば、安売り合戦が激化する時代も、競争という名の下に、無駄なことを繰り返す馬鹿げたもの、としか映らないのかも知れない。新たな商売の方法かのように、時々取り上げられるものの中には、古くからあるごく普通の手法が多い。それを特別なものと扱う人間たちには、古き良き時代が遠い昔と言うより、別世界のものとしか見えないのだろう。古いものが沢山揃えてある、田舎の何でも屋のような百貨店の話題も、新商売のような扱いを受けていたが、穿った見方をすれば、旧態依然としているだけのことだ。町の電器店で、小さなものまで注文を受け、配達するところは、大規模店のような安売りをせずとも、人気があるという。これもまた、ご用聞きが当たり前だった時代の名残であり、当時はそんなやり方が当たり前だった。安売りチラシを点検し、町中を走り回る世代には、損ばかりする馬鹿げた買い方だろうが、それでしか満足しない消費者もいるのだ。

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5月25日(火)−特例

 契約が馴染まない社会と言われてから、随分長い時間が経過したが、依然としてそんな雰囲気が漂う。世界標準などと散々叩かれたのにも拘わらず、相も変わらずの状態であるのは何故か。その一方で、何もかも縛り付ける仕組みに疑問を抱く声も高まる。どちらが正しいとは言い難く、感情を操る為に腐心する。
 署名する意味は何か、考えたことのない人間にとって、その手の書類を持ち込む人間は、敵にも味方にもなりうる。しかし、未開地の人間なら兎も角、文明社会として長い歴史を誇る国の人々が、何か起こる度に大袈裟に揉めるのは何故か。一度決めて、契約書やそれに準ずる物を交わしたのに、いつまでも未解決のように振る舞う。時に、自らの署名がありながら、その真意をすり替えようとする始末、一体全体どんな頭をしているのだろうか、と怪しみたくなる。例外が許されるのもこの国の特徴であり、次々に繰り出される言い訳に、辟易とすることは多いが、自分のこととなると、つい頼んでしまうのだから、勝手なものである。こんな人々が集まり、責任ある立場に座っているわけで、外から見れば何とも不思議な図式ができあがる。時と場合により、様々な手法や手順を使い分け、その決定は密室で行われる。輸入規制の緩和を要求した人々は、多分、こんな障壁を強く感じていたのだろう。一つ一つ、徐々に解かれた規制も、その度に長い時間がかかり、当事者たちには永遠とも感じられるものだったのではないか。だが、そんなに手間をかけて壊した仕組みも、様々な抜け穴が掘られ、例外の山が築かれる。心情を汲んで欲しい、などという戯言を使えば、法律なんて破棄されてしまう。施政者の大衆化とは、こんなことを言うのだろうか。

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5月24日(月)−凡庸

 穂が色づき始めた麦畑の隣に、水面から頭を出した苗が揺れる稲田が輝く。ごく当たり前の風景が失われつつあると聞くが、こんな光景を眺めていると、人為的なことにせよ、自然の変化にせよ、そう簡単に全てを消し去ることはできないように思えてくる。自給率だけ見れば、厳しい状況にあるには違いないが。
 天候不順に振り回され、野菜や果物の供給が不安定となる。そんな報道がある度に、心配の声が大きくなるが、いつの間にか鎮まってくる。旬の感覚が失われて久しいが、こういう報道でそんな話題に及ぶことはない。人為的に季節外れの供給を整え、それによって、利鞘を稼ぐ手法も、皆が同じようにしては、特異性が失われ、儲けが薄くなる。そんな所へ天候不順やら、原油高騰やらが襲えば、黒字が減るどころか、あっという間に赤字へ転落、飛んでもないしっぺ返しに見舞われる。人々の要望に応えることが、商売の秘訣と説く人はいつの時代にもいるものだが、こんな顛末を眺めていると、地道な商売の大切さが感じられる。拝金主義が世に蔓延り、利潤追求が何処までも浸透したので、こんな事は当然と見る向きも多いが、ごく普通に今まで通りのことを続ける人は、今でも沢山居る。味や質の追求という目的を持つ人も居て、そこに付加価値を見出す動きも多いが、そういう特殊例ばかりを追いかけても、全体を見渡すことはできない。ごく普通に、当たり前のことを繰り返すことが、恰も間違いのように伝える人々には、その先に起きる混乱に思いを及ばせる力はない。場当たり的な、一時の流行に振り回される、そんな動きばかりに注目するのは、そろそろ止めにして、普通のことを当たり前として伝えることに、戻ってはどうだろう。

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