パンチの独り言

(2010年5月31日〜6月6日)
(進退、悪意、絵空事、回避、濁流、自説、驕慢)



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6月6日(日)−驕慢

 祭りの多くは、天からの恵みに感謝する目的で行われてきた。何事も積極的に、という考えが根底にあるのか、西洋の方式は常に人間を中心として、自らの意志を貫き通そうとするのに対し、こちらの方は、少し事情が異なるように見えていた。人間の違いなどある筈はなく、そこには人為的な作用が働いただけだろう。
 天の恵を待つのに不満を持ち、次々に変革を起こそうと、創意工夫を繰り返した結果、それなりの発展が起こり、豊かな生活が保証されてきた。その一方で、様々な歪みが重なり続け、天の怒りとも思える異常が次々に起こる。自らの欲を満たすための工夫が、それらの原因ともなりうることが明らかになった時、全てを反省して、分相応の形に戻そうという決意が、成される可能性はあったのだろうか。現状を見渡すと、更なる欲に駆られた人々が、活躍する場を見出したのみであり、人々の反省の機会は永遠に失われたように見える。現代社会の便利さを失うことの、それによる損失は計り知れないものだが、その一方で、今再び、天からの恵みという考え方を見直してみることの意味は、大きいのではないだろうか。自らの力を過信し、全てを制御できると思い込んだ人々は、その力の大きさよりも、自らの欲望の無限の大きさにこそ、驚きの声を上げるべきだろうし、その満足が何を引き起こすかを真剣に考えるべきだろう。自然の回復力がどれ程のものかは知れないが、制御という名の下に、更なる暴挙を繰り返そうとするよりは、ずっとましな結果に繋がるのではないか。不便な生活に舞い戻ることの難しさは、誰もが痛感するところだろうが、その一方で、過信に基づく暴走を続けようとする驕りに、誰も目を向けないのにはどんな理由があるのだろう。

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6月5日(土)−自説

 原稿を読み上げる姿が画面に映る。それを眺める人がどんな感覚を抱くか、読んでいる当人は何か思うことがあるのだろうか。自分の言葉で、と殊更に強調した人が、当時の自分が情けないと思うほどの姿をさらすことは、どうにも理解に苦しむところだが、立場の違いによるものと言うしかないのだろう。
 そういう印象が全てを決めると言われるところでは、それを誤魔化すための技術革新が著しい。原稿に目を落とす姿を見せないために、それとは気づかれない媒体を視線の向こうに設える。手振り身振りを交えて、如何にも劇的に話を締めくくった姿を見て、絶賛の言葉を投げかけようとする人が居るが、現実には、台詞を覚えきれない役者が、観客に気づかれないように、此処彼処に落書きをするのと変わりがない。ただ、それもごく当たり前のこととなり、誰の関心も呼ばないこととなると、次にはどんなことをする必要があるのだろう。おそらく、原点回帰が必要な時期が来ており、言葉遣いの優れた他人が作った文章でなく、自らが編み出した言い回しを使うべきなのだろう。そんなことをしたら、間違いばかりが起きると思う人も多いが、自分自身の言葉を使わぬ人が、完璧な筈がないのではないか。まず、自分の考えを素直に表し、それを分かり易く伝えることこそ、そういう立場にある人がすべきことであり、その資質があるかどうかこそが、資格を持つかどうかの鍵となる。自分の表現を大切にする人は、他人の言葉も尊重するわけで、そこに初めて意見交換の機会が訪れるのである。飾りばかりの言葉を操ることが、意思疎通に必要なことと誤解する連中には、こんな簡単なことさえ理解を超えているのだろうが。

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6月4日(金)−濁流

 自信のない人間の存在を問題としたが、これを際立たせている要因に、別の種類の人間の存在がある。矢鱈に自信を誇示する人々は、いつの時代にも居たものだが、最近の傾向は、その大部分が過信とも呼ぶべきものを、掲げていることにある。何の根拠もなく、何の実績もないのに、自慢気に力を誇示しようとする。
 若気の至り、という言葉で片付けられるように、若い頃には無理を承知で、虚勢を張ることはよくある。こんな事は、いつの時代にも見られた話であり、今に始まったことでないことは確かだ。しかし、この頃の傾向は、それが一人の人間に当てはめた時に、ある年代特有の一過的な現象ではなく、幾つになっても続く、殆ど慢性的な行動様式であることであり、それが様々な形で、周囲に悪影響を及ぼしていることが、大きな問題となっている。特に、そういった流れが勢いを増したのは、個人主義だけでなく、自己評価なる指標が優先されるようになった時代と重なっており、その間に何らかの関係がありそうに思える。つまり、端的に言えば、見る目を持たない者が、自らの姿を眺めて、自信を深めるという、正の帰還が起きているのである。通常、評価はそれが元の所に戻ることで、更なる改革を導き出す形をとる。しかし、狂気に近い感覚を持つ連中は、自己陶酔に陥り、自らの行動を眺めて悦に入るわけで、そこには制御なるものの存在は無い。そんな暴走を目の当たりにすると、普通の感覚の人間は、自分の自信の無さを思い知らされることとなる。狂った連中を指標にすることの誤りに気づかず、自らの過小評価に追い込まれるわけだ。こんな風潮が定着してしまったことに、そろそろ気づくべき時は来ており、早急に対処しないと、全てが崩壊の渦に巻き込まれるだろう。

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6月3日(木)−回避

 先行きの不安に押し潰されそうになる人もいるが、これ程不安定な世相では、致し方ないところかも知れない。しかし、不安定という意味では、ずっと昔の方が更に酷い状態だった筈で、今突然に起きたことでも何でもない。では、何故、これ程までに過剰な反応が世間に満ちているのだろうか。自信喪失、なのでは。
 若い世代に向かって、自信を持てと諭す年配者は多い。しかし、今、不安に苛まれている人の多くは、こんな言葉を気楽に若者に浴びせる人なのである。自分たちの話は棚上げしておいて、次代を担うからと言って、重い言葉を軽い気持ちで吐くのは、情けないとしか思えない。だが、この傾向は、今のこの国を覆い尽くしており、誰も彼もが、他人の言葉に振り回され、自らの方針を明らかにできず、迷路に入り込んだが如くの様相を呈している。自分のことを自分で決められずに、何ができるというのか。そんな中で、若い人々に向かって、勝手な戯言を振り回すとなれば、害有って益無しとなる。人を選ぶ時も、誰も決断せず、先送りの連続となれば、選ばれるべき人々には、更なる重圧がのし掛かる。本人たちは、自らの息継ぎばかりに躍起となり、相手のことにはお構いなし、そんな世の中になっていることに、誰も気づかないというのだろうか。これまで、即効性のものばかりに気を奪われ、歩むべき道筋をつけてこなかった世代は、ここに来て迷走状態に陥っている。さっさと退場してくれればいいものの、その決断さえつかないとなれば、最悪の事態を招く恐れが高まる。これは何も、ある一部の業界に関係する事柄ではなく、この国を覆っている暗雲の如くのものを指している。何処かから日が射すのを待つのか、それとも、内側から光を発するのか、選択は自分たちでできる。

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6月2日(水)−絵空事

 責任感は永遠に失われるのだろうか。話題になっている彼のことを指すのでなく、自己主張を押し通しながら、自らの椅子に居座り、追い出された途端に、身勝手なことを喚いた人や、自分たちが作り上げた案件が、ほぼそのままの形で実現するのに、他人事のように振る舞う人々の方が、当てはまるように思う。
 自由な発言が保証されているのは、そういう社会構造になっているからだが、最近の放言や妄言の連続は、発言主の責任も崩壊寸前であることを予感させる。これも主は、上で挙げたような人々でなく、彼らの発言を伝える立場にある人々のことである。以前から、癒着が取り沙汰されていたが、最近の報道を見ると、それが事実であったことが何となく解る。昔なら、様々な方面から情報が徐々に漏れだし、報じられたことの幾つかは事実となった。しかし、最近の傾向は大きく変動し、下手くそな台本書きが作り上げた物語が、誌面を飾るようになり、そこには何の確証もなく、裏付けなどは欠片さえない。言論という言葉が、強く意識された時代と異なり、手っ取り早く、理解し易い筋立てを、まるでそれが事実であるが如くの装飾を施す。後々、まるで違った展開となったとしても、健忘症を装うことさえなく、次の醜聞をでっち上げれば、自らの地位は安泰となるわけだ。こんなところに責任が伴うはずもなく、まるでタブロイド紙が面白可笑しく作り話を載せるのと同じように、天下の全国紙や電波を利用する人々が、自分たちの作り上げた筋を押し通そうとする。確かに、力を誇示したい心理は理解できないわけではない。しかし、これではまるで、実力のない人々の空言でしかない。根も葉もないものを流すのが彼らの役目ではない筈だ。

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6月1日(火)−悪意

 以前から使っていたメールアドレスが、組織の都合などで使いにくくなり、最近新しいものを使うようになった。特に面白いことではないが、殆どの登録を新アドレスに変更してみると、毎日投げ込まれるものの殆どが悪質極まりないゴミばかりだと分かる。これが便利の代償、と言ってしまえば終わりなのだが。
 呆れるほどの数を自動的に送り出す。あらゆる場所に停滞を招く仕組みは、ついこの間までは思いもよらなかったものだ。だが、こうなってくるとこんな方法が必要なのか、という基本から考える必要があるように思えてくる。重要な遣り取りの処理に時間を費やすのは、ごく当然の事務なのだが、ゴミ捨てに時間を要するというのでは、呆れるしかない。本来、メールの遣り取りは私信の類だから、それが他人に漏れることはあり得ない。しかし、このところの漏洩騒ぎの連続をみると、そんな秘密は何処にも存在しないことが分かる。管理の不備、不用意な行動、様々な原因があるが、昔と同様、名簿売買なるものも存在する。疑いを持ってかかるべきか、そんな無駄なことに精を出すのは止すか、選択は様々だろうが、そろそろ追尾装置のようなものを付けて、何が起きているのか調べてみたい、と思っている人も多いのではないだろうか。鼬ごっこをいつまで続けるのか、と考えると、始めからこんな仕組みに関係しなければ、という結論にしか達しない。便利さとの引き替えという納得も、程度問題という話も流れてくる。違法写真の掲示によって逮捕される人が出ることは、全ての情報の流れを探る方法が確立していることを意味する。この状況を広く知らしめることで、予防を図るとしても、それを理解できぬ人間には効果は望めない。

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5月31日(月)−進退

 自らの主張が通らなくなった時、どう処すべきかは難しいところだろう。だが、その人物が属する組織にとっては、組織自体の方針を貫くことこそが重要であり、同意しない人間をどう扱うかは、難しい決断とはいえ、答えは決まっている筈である。そんな見方をする人が少ないことが、今の世の中の問題なのでは。
 外から勝手なことを言う人が続出するのは、今の時代の特徴とも思える。自分勝手な言動を繰り返す人間に、両極端な評価を下す人がいることに、首を傾げたくなるが、目先のことばかりを追いかける人々には、これが当たり前ということだろう。それにしても、主張を曲げるかどうかの決断に迷うのではなく、そのまま言い続けて居座る姿を見た時、人は何を思うのだろう。遠くにいる人でなく、そんな人が傍にいたら、と考えてみると、おぞましい感覚が起きてくる。何故なら、こんな人が最近は何処にも居て、邪魔者と蔑んだ目を向けられる一方、それを感じずに同じことを続けることで、更なる混乱が巻き起こるからだ。主義主張の重要性が強調された時代には、上下関係による服従が問題視され、そこから起きる腐敗に危機感が叫ばれた。だが、物事を進める上で、何らかの結論を導く必要がある時に、それを妨げる主張が引き下げられなければ、無理矢理とも思える決断が出されなければならなくなる。こんな遣り取りが起きないように、様々な話し合いが持たれるわけだが、確固たる主張を繰り返す人には、聞く耳を持たないのと同じこととなる。最近の現象の不思議さが際立つのは、去就に関するところであり、機械仕掛けの人形のように、決まった動きしかとれない人間や、糸の切れた凧のように、迷走を続ける人が多いことだろう。言葉に責任を、という話も、全ての人に当てはめてみると、おやおやと思うことが多い。

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