パンチの独り言

(2010年6月7日〜6月13日)
(足元、損得、無償、先後、驀進、実地、親身)



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6月13日(日)−親身

 よかれと思ってやっているのだろうが、どうもそうとは見えないことが沢山ある。他人の為に、社会の為に、世の中の為に、色々な為があるのは分かるが、奉仕を前面に出しているもの程、怪しく見えてしまうのは何故か。所詮、こちらの視線が湾曲しているからだろうが、その真意を確かめたくなるのだ。
 世の為人の為と言葉にすることは簡単である。だが、それが誰の為になっているのか、考えながら行動する人は少ないのではないだろうか。現状を変えることにより、それに関わる人々に変化を導入するのは、よくあることだが、それが良い方に向かうのはどれ位あるのだろう。生活を変える、環境を変える、仕組みを変える、変える方法は沢山あるけれど、結果が良くなるものとは限らない。自分のことならば、自らの責任で、その結果についても受け容れるのが当然だが、他人にそうされた時には、期待と不安の入り混じった心境で臨み、結果に一喜一憂する。その上で、悪化の度合が大きければ、不満を訴えることもある。だが、折角して貰ったのに、と考えると、その厚意を無にしては、という思いから、不満に蓋をして押し黙ることもある。厚情を見せた人は、それを無言の感謝と受け取ることもあるだろう。この図式は、何処にでも起き得ることだし、誰かの為を強調する人々には、良くあることではないか。余計なお世話と、相手が罵れば、随分と違った様相になるが、そんなことの起きる確率は低い。窮状を訴える人は、既に弱者の相を呈しており、差し延べられた手を、振り払うことはしにくいものだ。あれこれと次々に手を差し出し、親身に接してくれる人を、追い払うことなどできない。だが、親切の押し売りは沢山あり、迷惑だけが残ることも多い。誰の為、とは、どういうことか、考えてみることも必要なのでは。

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6月12日(土)−実地

 何でも、簡単に済ませる方法が出てくる。そんな時代に育った人々は、自分で工夫することなく、誰かに教えてもらえることを当然と思う。見て盗め、と言われたのは遙か昔のこととなり、懇切丁寧に教えなければ、何もしてもらえなかったと憤慨し、不満を露わにしつつ、去っていくこととなる。
 何十年も前、テレビゲームのはしりのような機械が、喫茶店などに設置されると、爆発的な人気となった。得点を競う人々は、技術を磨くだけでなく、その為のコツを探したという。見つけた人は有名にならなかったが、その方法は瞬く間に全国に広がり、愛好者に知られることとなった。隔世の感があるのは、最近の新しいものでは、攻略本なるものが売り出され、皆それを参考にして楽しむようになったことだ。誰かの工夫と言えば、その通りかも知れないが、何処かずれているような感じがする。これに限らず、あらゆることにコツを説く書籍が出版され、人より上を目指そうと必死で読み耽る人々がいる。自分で手に入れたものでなく、人の話を鵜呑みにしつつ身に付けたものでは、想定外のことが起きれば、立ち往生してしまうことが多い。未経験なものでは、どんな場合でも同じことが起きるのだろうが、それまでに培った経験の有無が、大きな差を産むことがある。と言っても、そんなことはほんの稀にしか起こらず、多くの人々は、安易に手に入れられるものに引き寄せられるから、ものによっては爆発的な売れ行きを記録することもある。結局、本の内容についてとやかく言ってみても始まらず、目の前にいる人間の知識の薄さと経験の浅さを問題にするしかない。要領よく進めているように見えても、大きな穴を残す人は多く、そんな例に何度も出くわすと、やはりと思うしかないわけだ。

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6月11日(金)−驀進

 愚かな言動や行動を指摘する声が高まっている。しかし、その対象となる人々には、そんな意見が届くことはないようだ。聞く耳を持たないという欠陥もさることながら、まさか自分のことではないという、理解力の欠如の方が更に大きな問題となっている。そんな連中に、何故媚びを売らねばならぬか、ここに最大の問題がある。
 馬を走らせるために、鼻先に人参を吊す話は有名だが、有権者と呼ばれる人々は、まさか自分たちが馬になってしまったとは思っていない。だから、自分が利益を得られる、場当たり的な政策に振り回されても、それが賢い選択と信じ込んでいる。その行動の無軌道さに呆れる人々は、愚かな選択であることを、繰り返し指摘しているが、的外れとしか受け取れない人々に、そんな忠告が届くはずもない。まして、そんな意見を吐いている人間たちが、大同小異の言動を繰り返していることは、信頼を失うだけであり、互いに、相手の話を聞く態勢はできていない。他人への批判を繰り返し、自らの利益のみを追求する姿勢は、一部の人間たちには昔から存在し、それによって、抜け駆けのように成功に結びつけてきた。ところが、それらはほんの一部であることが肝心であり、同じことを多数が行うことになれば、社会全体が崩壊に突き進む。これまでの制動は、意識的かどうかに関わらず、自然とその数を制限してきた。ところが、品格と称されるものを失い、欲に駆られた人々は、心の制動を失い、一方向への暴走を繰り返す。混乱に陥り、判断力を失った馬が、暴走を続けるのと同様、これらの人々も、人間性を失い、狂気に満ちた行動を繰り返す。自己判断は兎も角、冷静さを無くした人々には、その問題たるところが伝わるはずもなく、信じるところと自分が思うことをする。結局、甚大な崩壊が起きない限り、止まることはない、ということだろうか。

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6月10日(木)−先後

 「問題有り!」と叫ぶことは簡単だが、その本質を突くことは難しい。その認識のないことが、更なる問題を産むわけだが、範疇に入る人々には、思い当たるところがある筈もなく、果たして、何らかの解決が成される可能性があるのだろうか。批評家ばかりの社会と言えば、その通りには違いないのだろうけど。
 批判ばかり繰り返す人々に欠けている感覚は、物事の順序をつけるところにある。目の前に現れたものばかりに注視し、全体を見渡す能力が欠如するが為、一つずつ片付けているように見えて、結局は、何も整理されていないのだ。順序は、基準を置いて付けるべきものであり、ただ闇雲に並べればいいわけではない。最近の傾向を見ると、出てくる順番が優先され、そこに何の判断も入らないことが多い。その為、整理の機会は失われ、そこから生じるはずの対策も、埋もれ忘れ去られるだけだ。当事者たちは、躍起になって片付けている気だろうが、その杜撰さは後々に堆く積もったものを眺めれば分かる。それ以外の手法を知らないと言ってしまえばそれまでだが、無知の塊のような行動に、淡い期待は消し飛んでしまう。その一方で、彼らの多くは、自らの整理能力に自信を持ち、優先順位の付け方にも優れた能力を示していると信じ込む。この辺りに最大の問題があることは、随分昔から知られてきたことだが、自己評価能力に欠陥を持つ人々には、自覚がないだけに手の施しようがない。大切なもの、重要なもの、大事なもの、どれをとっても、判断を誤れば悲惨な結果に繋がる。にも拘わらず、このところの世の中の流れは、そんなことばかりが目立つとは、一体全体どういうことなのだろうか。考えても何も出せない人に、期待する方が変だと、気づかぬ人ばかりの世界、ということか。

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6月9日(水)−無償

 ほんの例外に過ぎないことだが、事件が起きた時に、引き籠もりなどの問題が表面化することがある。これが十代の人間ならば、大して印象に残らないものだが、三十代とか四十代となると、どういう意味なのかと、理解に苦しむこととなる。自身を守るために、家の存在が重要というわけでもあるまいに。
 成人することだけが区切りとは限らないものの、人はそれぞれにある区切りを持って、それまでとは違う生活に入る。たとえ、家業を継いだとしても、立場の変化に伴い、意識が変化するわけで、何も変わらないということは殆どあり得ない。ところが、問題視された人物について考えると、そこに大きな違いが見えてくる。つまり、変化を望まぬ人間が、自分の殻の中に閉じ籠もり、そのままの生活を続けるわけだ。それが平穏に人生を閉じるところまで続けば、幸いなことには違いない。しかし、起こるべくして起きた事件の場合は、とてもそんなことが望める状態にはない。これを本人たちの責任にすることは簡単だが、当然のことながら、家族との関わりは無いとは言えない。親の責任を、四十の人間について議論すべきかどうかには、様々な意見があるだろうが、そこまでの経緯として、何の責任もないという人は居ないだろう。手取り足取りの話題を取り上げたこともあるが、豊かな時代に親が子に施すことを眺めると、こんなところにも、歪んだ世界が広がっている気がしてくる。どんな事情かは知らぬが、毎朝、親が子供を近くの駅まで車で送る姿を見かけると、何を考えているのか、不思議に思えてくる。徒歩5分ほどの距離を、車での見送りは何を意味するのか。障害者でもなく、ただ高校に電車通学している人間に、そこまでしてやる必要は無いと思う。

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6月8日(火)−損得

 拳を突き上げる姿に、違和感を覚える人は居ないのだろうか。画面に映る姿は、眉間に皺を寄せ、真剣な雰囲気を漂わせているものの、何処か、ずれた感じがするのも否めない。所詮、現実の世界とは隔絶された、何処か別の世界の出来事に過ぎないと、そんな思いを巡らせる人も居るのではないだろうか。
 日々の生活に追われて暮らす人々にとって、どんなものであれ、施しは嬉しいものなのだろう。そんな雰囲気が巷に溢れるようになり、何が何でも手に入れたいと、躍起になる人が闊歩する時代となった。見返りと言っても、こちらから渡したものは、何の役にも立たないものばかり、それで金やら権利やらが手に入るのだから、こんな楽なものはない。だが、そのツケは誰に回されるのか、そんな思いが過ぎるのは一部の善良な市民であり、善良なふりをした利己主義者にとっては、そんなことは知ったことではない。何故、こんな方向に回り始めたのか。嘗てはそんな連中は陰の世界に住むしかなかった。それが明るいところを、何の恐れも抱かずに歩いているのだ。個人主義に対する批判は、様々にあるだろうけれど、こういう歪みが、そんなところから噴出していると考えるのは、的外れなのだろうか。権利ばかりが前面に押し出され、それと組になる筈のものは、溝に打ち棄てられてしまった。誰もが、利益になるものばかりを追いかけ、損になりそうなものを敬遠する。一度こんな展開が受け容れられてしまうと、もう、他の選択肢が見えなくなる。三方一両損なる考え方は忘れ去られ、WinWinWinなる不可思議な考え方が世の中に蔓延する。勝負に拘ることも、同時に湧き出てきた考え方だろうか。拳一つで、そんな思いを巡らすのは、憂国の情から来るものとは限らない。

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6月7日(月)−足元

 目先のことばかりを追うようになって、人々の生活はどのように変化しただろう。良くなったと感じている人は少なく、悪くなったと思っている人の方が、遙かに多いのではないだろうか。それを承知した上で、依然として目先の変化を追い回し、束の間の利益に一喜一憂する姿をさらすのは、何とも情けなくないか。
 成長が続いていた頃の目先と違って、後退が専らとなった時代の目先は、まるで幕府の時代の人々の暮らしと同じくらい短い。ただ、心情の違いは著しく、宵越しという言葉で表現されるように、長い目で見た暮らしを愉しむより、一日一日を大切に生きようとする心意気が感じられる昔と異なり、利害のみを追求する貧しい心だけが、今の社会を満たしているように思われる。何もかもが安定を失ったことに、憤りを感じる人も多いが、現実には、その原因を作っているのが、社会を構成する人々なのだから、困ったものと言うしかない。こんな状況は、古今東西、あらゆる所で起きていたに違いないが、それでも何とか安定を感じられたのは、そのことを重視する人々が要職にあったからではないか。最近の傾向は、規則で縛られた国を除けば、猫の目のように変わる状況にあり、安定を保とうとする力は、失われてしまった。変化を望む声を上げる人々も、何処に落ち着き先があるのかに思いを馳せることなく、落ち着きのない生活に恐れを抱きながら、更なる不安を導き入れようとする。施政者たるもの、このような時代にやるべきことは決まり切っているが、現状を見る限り、そんな常識を身に付けた者より、非常識極まりない人間共の方が、権勢を振るう。庶民は被害者然としているが、現実にはその状況を強める一番の元凶なのではないか。

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