いつだったか、この国で一番大きな湖の北端辺りの景観が映されたことがある。人間と自然の営みが丁度良く入り混じったものは、いつ頃からか里山と呼ばれるようになり、手付かずの自然とは大きく異なる種類のものと見なされることとなる。環境保護を強く訴える人々とは、一線を画したような存在として。
あの映画が賞を受けたとの知らせが入ったのは、それから数ヶ月後だったか。画像の美しさもさることながら、撮影者の構えが独特だったことが評価されたのだろう。その後も、大昔の「自然のアルバム」の如き内容のものが、何度も流されていた。自然保護という言葉は、人間の傲り高ぶりを表すものと言われることもあるが、本当のところは分からない。ただ、目指すものを眺める限り、自分たちの存在を否定することが第一とされ、何とも言えぬ気持ちになることだけは確かだ。それに対し、この国の中で静かに進められてきたものは、共存に近いものと見なせ、一方的な保護でないように見える。元々、自らの力を信じ、あらゆるものをその信念に従って、変えていくことを目指した連中とは異なり、生かされるという言葉でも分かるように、力ずくで抑えつけようとする気は微塵もなく、周囲に溶け込むことを第一としてきた人々は、ごく当然のことを行ってきたに過ぎない。それでも、保護の意味からすれば、破壊であることに変わりが無く、人間の都合によるものであることは確かだろう。だが、立ち位置が違うというと通じにくいかも知れないが、根底にある考え方には、埋めることのできない程の隔たりがあり、相容れない要素が多くある。だが、このような映画が撮られた背景には、この国とて経済第一という悪弊に冒されており、徐々に独自の考え方が失われつつあることがある。多様性を求める時代に、画一性が尊重されるからか。
効率という言葉は、様々なところで使われるが、現実の適用範囲は小さいのではないか。対費用効果を重視することは、確かに重要なことではあるが、それに見合わない事柄も多く、その追求に目を奪われるあまり、本質を見失うことが多い。特に、最近はその傾向が著しく、迷走を繰り返すことが多いようだ。
経費削減の掛け声と共に、種々雑多な投資に関して、見直しが繰り返されてきた。その結果見えてきたのは、削減の幅が限定的だったのに対し、そこから生まれるはずの効果の量と質が共に、激減したというものだった。税率の引き上げを課題とする向きも、一方で、予算の見直しを徹底すると約束するようだが、これまでの経過を見る限り、その成果はかなり限定的であり、将来の手当てを見込むと、却って逆の効果を生じるのみとなりかねない。何故、こんな事が起きるのか、その説明は何処からも聞こえてこないが、結局のところ、節約の意味が曲解されているからなのではないか。収入が少なければ、出費を抑えねばならないことは、各人の家庭でも同様のことで、理解し易いことである。しかし、それぞれの費用の効果を考えた時、即効性のものと遅効性のものが入り混じれば、そこでの判断は容易でなくなる。にも拘わらず、無能な人々は選別の無駄まで省き、一様な変化を促す。結果は、肝心なものの効果は失われ、無用なものは依然として残る、という、何とも不可思議なものにしかならない。それに輪を掛けて悲惨な経過を辿っているのは、時間を要する事柄であり、人を育てることもその範疇に入れられる。これは育児という意味に限らず、人材育成と格好良く記されるものも含み、社会形成に欠くことのできぬものである。先見性のない施策に期待できないのは当然で、特に長期性のあるものには、その傾向が際立つのに。
字の如く、小麦色に色付いた畑からすっかり刈り取られた跡に、水が張られて、青苗が植えられる。学校で習ったことによれば、二毛作と呼ばれるらしいが、そうならないところもあるようだ。同じように青々と茂る畑には、水は張られず、苗の葉もずいぶん大きなものが見える。これが、夏には人の背くらいになる。
教科書では、典型的な事例が取り上げられ、それを学ぶことが第一とされる。しかし、地方毎の違いは歴然としており、学習する内容に違和感を覚えるところもあるだろう。全国均質な、という考え方は、中央集権の典型と捉えられるが、果たしてそれだけが理由となるのか。批判的な人々にとって、こういう事例も強烈な批判の対象となる。ただ、物事を習い覚える人たちにとって、違和感は当然のこととして、それとは違う状況に接することも大切なのではないだろうか。この辺りの遣り取りで、最大の問題となるのは、教える側の無知というか、配慮の無さだろう。違いを認める代わりに、優劣を中心課題とし、教科書に掲載された事実のみを、受け容れることを強要する。そんな態度が、様々な問題を生じることは明らかだが、これまでに何度も取り上げてきたように、そんな人間が教壇に立っている事実は、変わらない。重要なことは何か、という視点を常に持ち、それが時と場合によって変わりうることを、しっかりと認識していさえすれば、このような混乱は起こるはずがないのだ。他律的な行動を主体とし、命令に従うことを優先するあまり、状況把握は疎かとなり、個々の事例への対応に誤りが生じる。こんなことの繰り返しが、度々起こるようでは、現場の混乱が鎮まることはない。所詮、学校でのことに過ぎない、と片付ける向きもあるようだが、大きな間違いと思う。
ある運動競技では、教えることに躍起になる人が沢山いると聞く。人の動きを眺め、ここは駄目、あそこは駄目と指摘し、矯正に手を貸そうとする。時に役立つこともあるようだが、多くは助言を受けた人が悲劇に見舞われ、基本を見失うことが多いらしい。本質を見極めずに、思いつきが並ぶからだろう。
これと同じようなことは、世の中に溢れているように感じられる。あれこれと批判を繰り返し、如何にも高尚な助言を繰り出すが、それが効果を上げたことはない。これは極端に過ぎるとしても、その場の思いつきを的確な助言のように飾り付け、結果が伴わなくとも、何の責任も負わない人間は数多居る。教えることの本質は、その分野で最も重要になるわけで、現場では投げ入れられる意見に、右往左往する人々が走り回る。付け焼き刃は言い過ぎとしても、誰もが最善と信じる手法を他人に押し付けたとしても、それが良い結果を産むとは限らない。最善は、各人それぞれに異なっており、絶対確実な方法はないからだ。にも拘わらず、今の世の中は、夢の手法があると信じ、それを教え込もうと躍起になる人々がいる。ここでは、最初に取り上げた競技の話と同様に、手取り足取り教え込まれた方が、何をどうしたらいいのか分からなくなり、結局は道を見失うという悲劇に行き着く。教える側は、現代社会の抱える重大な課題に向け、自らの能力を発揮しようとするだけなのだろうが、余計なお世話としか思えないものを、押し付けることとなる。いずれにしても、自立を目指す人々にとって、手取り足取りは重荷になるだけで、何も産み出さないだけなのだ。確かに、問題は問題としてそこにあるのだろうが、その扱いを誤れば、別の失敗に繋がるだけだ。
まるで、詐欺師が詐欺にあったかのように、開いた口がふさがらないとは、このことではないか。何かにつけて、民衆の意向なる言葉を引き合いに出し、それが全ての如く扱い、対抗勢力への攻勢に精を出していた人間が、一夜にして心変わりした人々の意見に、奈落の底に落とされる。小説より奇なり、か。
如何に馬鹿げた言動を繰り返していたか、そういった反省を頻りにするなら理解できるが、どうも、依然として何がおきたのかの理解が足らないらしい。所詮、お飾りのような人間共が、演台に上がっては、自分に集まる注目に酔い痴れるわけだから、始末に負えない。それだけの力量を持ち合わせる人間であれば、三文芝居に足らない要素が何か、気がつくのが当然と思えるが、これまでのドタバタ劇に、同じように舞台を走り回るだけでは、何も起きないのが当然となる。民意などというものが、実体のないものであり、それに振り回されることが、糸の切れた凧の迷走となっていることに、何故気付きもせずに、走り回ることができるのか、そちらの方が理解の域を超えている。愚かなる民という言葉は、現代社会で用いれば、それだけで袋叩きの憂き目に遭わされるのだが、現実は、それ以下の状態にあると言えるだろう。目先にぶら下げられた食べ物に、一喜一憂しながら、それを追いかけ続ける馬の如く、愚かな行動に没頭する。流石の馬でも、そこまでのことはないとの反論が出る程か、このまま、こんなやり方を続ければ、没落の一途を辿ることも不可能ではない。そんなことはこの国の歴史上、嘗て無いことであった、と言うのはごく簡単なことだが、無ければ、起きないという保証がされるものでもないのだ。他国のことをせせら笑うことは、誰でもできることだが、自らの足元の不確かさに気づかないのは、愚の骨頂というべきものだ。
悩んで大きくなる、など言う人が居るが、真偽の程は不明だろう。自身の経験を基にした、と主張する人でも、どんな形だったのかを明確にする人は少ない。しかし、その割には、如何にも具体的な指示があり、苦労せよと言われることがある。何とも不思議な感覚だが、多くの人が憂き目に遭うらしいのだ。
確かに、自らの経験を紹介し、それに基づいた対処法を勧められると、受け取る側にとっては、それが何となく確かなものに思えてくる。しかし、体験話の一部が真実だとしても、それ以外の部分に創作が含まれるとなると、指示を鵜呑みにして良いものか、迷うところとなるだろう。一二度経験すると分かるが、こういった展開を好む人間と、そうでない人間がおり、どちらが目の前に現れるかで、その後の騒動の形態が大きく異なってくる。散々悩んだ挙げ句、結果的には徒労に終わってしまう人が居るのは、何とも不幸な話には違いないが、その多くは、誰を相手にするのかで決まるのだから、注意したいものだろう。ただ、その選択が自分でできれば、という話であり、組織の中で動く場合には、自由選択があり得ないだけに、対処が難しくなる。特に、上下関係が絡むものとなれば、選択の余地は全くなく、どうにも振り回されるだけとなる。まあ、交通事故のようなもので、運が悪かったと諦めてしまえば、と言われることも多いが、渦中の人間にとっては、時と場合により、そんなに簡単には諦められないものもある。いずれにしても、上手く立ち回ることは重要であり、指示を守りつつも、自分の判断で動く必要も出てくるだろう。ここでは、要するに、人間の質を見極める目が必要ということなのだ。大きく見せようと努力する人間の言葉は、注意を要するのだろう。
時代の流れに逆らってはいけない、と言われることが多いが、実際のところ、賛否両論があるようだ。但し、物事それぞれに当てはめるのではなく、どちらかと言えば、結果論として話題となるようで、どちらに与するかは結果が出てから考えるとなる。はてさて、これでは何の為の議論かと思うが、そうなるのである。
本来、決断を迫られた時に、時代の流れに乗るかどうかが問題となるのに、結果が出てから考えればいいと言われたのでは、何ともならない。こんなに明らかなことなのに、何故、今更のように、結果を見てからそれらしく分析する人が居るのか。彼らに問い質せば、返ってくる答えは決まって、今後の為の分析であって、これ自体に役立つと思っているわけではない、となる。しかし、次に同じようなことが起きても、事前の判断が為されることは少ない。再び、沈黙の時間が続き、結果が決まりかけた頃に、議論が始まるだけだ。何故、こんなことが繰り返されるのか。最も簡単な答えは、元々解答のないものだから、ということなのではないか。やって見なけりゃわから無いものを、無理無理見通せるかの如く振る舞い、それによって、自らの地位を築く人々がいる。相も変わらぬ評論を繰り返せば、それによって、何かを手に入れることができるわけだ。こんな人種にとって、結果から分析することが最も確実で、手っ取り早い方法となる。しかし、時に、事前の意見伺いなるものがあり、その際にはそれなりの答えを示す必要に迫られる。だが、心配は要らない。こんな時も、適当に可能性の数え上げ、どっちつかずの結論に至れば良いだけだ。後日、結果が出てから、こうだったと解説すれば、その時の半端な答えは、忘れ去られるのだから。科学にはそんなものが当てはまることは少ないが、それ以外の分野には山程実例があるようだ。