パンチの独り言

(2010年6月21日〜6月27日)
(空、価値、客体、即物、分析、土地勘、選択)



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6月27日(日)−選択

 思い通りに事が進まないとき、原因を何処に求めるかは、人それぞれに違っているようだ。人の違いも大きいものだが、それに加えて、時代の違いも大きく、ある傾向をもつことは、何となく意識されている。成長が約束されている時代には、少しくらい停滞しても、好転する可能性に期待できるが、逆の時は難しい。
 時代の違いと片付けてしまうのは簡単なことだが、その手の納得は、打開の可能性をも否定してしまうから、好ましくない結果に繋がることとなる。本人がどれほど意識しているかは別にして、ある考えを強いられることは、自由を抑え込まれることから、嫌悪感を抱くことに繋がる。その上、ある程度予想されていたとしても、それを避けることができないのは、更なる抑圧を招く訳で、兎に角無意味にも思えることの連続となる。こんな書き方をすれば、全てが暗い闇の中にあるかのように思えてくるが、現実には、外からの力だけで、そうなっているのではないのではないか。状況としては、確かに八方塞がりと思えるものの、それ自体をどの方向から眺めるかで、結果が異なって来ることに気づかぬのは、やはり人それぞれの違いによるものだし、悲観的に捉えるか、楽観的に捉えるかで、小さいとは言え、差が出て来ることに気づくことは、こういう状況下では大きな違いを産む。元々、思い通りにならないことが、そんな状況に人を追い込むのだから、と考える人には、こんな違いが生じることは、想像ができないのだろうけれど、落ち着いて考えれば、自分の心のもちようで、これらが大きく異なって来ることに気づけば、実際には大きな安心が得られるという事実の方が、確かであると気づけるのである。単なる遣り取りと見るか、こんな流れによる違いと見るか、これまた人それぞれに違いないのであるが。

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6月26日(土)−土地勘

 生まれ育った町を出ると、そこに展開されるのは、それまでに見たことも聞いたこともない世界、となるのは、遠い昔のことだろうか。今でも、見知らぬ町を歩くと、色々な戸惑いが起こり、警戒するばかりで動きがとれなくなる。そこまで極端でなくても、見慣れぬ町並みには悩まされることが多いものだ。
 これは地理に疎いとか、そういうことを原因として、未知なものに触れる怖れのようなものがあるからだろう。同じ国の中でも、習慣が大きく異なることから、食べ物の味に戸惑いを覚えたり、人への声の掛け方まで違ってくる。これが、他の国となると更に違いは増し、戸惑いだけで済めばよしで、窮地に追い込まれることさえ起きるから、困ったなどというだけでは済まされない。様々な催しが、世界各地で開かれるのに惹かれ、遠くまで出かけるという人も居るが、その勇気はかなりのものだろう。下調べを十分に、などと旅行の手引書には書かれているが、どれほどの周到さが十分と呼べるのかは、何とも不確かなことしかない。だから、誰もが出かけるとなれば、見切り発車になるのはやむを得ないことであり、運に左右されることも少なくない。人それぞれの経験も、ほんの一例に過ぎず、それが見本となる場合ばかりとは限らない。それでも、人々はそれぞれに試し、くぐり抜けようと工夫を繰り返す。その結果、対応さえ十分であれば、少しくらいの誤りは回復可能であり、結果的には無事となる訳だ。多くの人はそんな経験を繰り返し、正解は見つけられなくても、何となく良い結果に繋がるとなる。特に、人と人との触れ合いにおいては、互いの経験の違いは簡単には埋められず、尊重するか、存在することを認めた上で、何かしらの遣り取りをするしかない。まあ、人間相手の方が、まだ楽との声もあるのだが。

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6月25日(金)−分析

 人間の記憶の危うさを訴える話は数々あるが、その内のどれ程が、意図的な改竄と断言できるのだろう。希望的な意識や恥を避けようとする心の動きが、その背景にあることも多いだろうが、嘘を吐く行為の多くは、相手を騙そうとする心理が働いており、意識の強さは遙かに強いものとなることが殆どだろう。
 前言撤回というのも、よく使われる表現だが、どちらかが意図的な虚言であれば、確かな記憶に基づく訂正というより、意識的な情報操作と受け取られる。その為の補足的な説明が付く場合には、操作は更に手の込んだものとなり、意識の強さが窺える。平然とした顔つきで、こういうことを繰り返す人間は、どんな社会でも大きな態度をとるもので、如何にも自信ありげに、自らの優位性を保とうとする言動を続ける。人々に選ばれる立場になると、それを達成する為に、一時的な嘘は構わないかの如く、次々に繰り出される魅力的な内容や自らの正当性を訴える内容は、その多くが時間の経過と共に印象が薄れ、忘れ去られるものとなる。問題が、発言者の無責任にあるのは間違いないのだが、その片棒を担いでいるのではないかと思われるのは、甘言や虚言に振り回され、一喜一憂を繰り返す大衆のことだ。朝令暮改などと揶揄しなくとも、受け取り側の冷静な対応さえあれば、何の心配も要らず、不安に苛まれる必要もない。何故に、こんなことを繰り返し続けるのか、通常の感覚では全く理解できないが、巻き込まれたと信じている人々には、ごく普通の感覚としか見えていない。その辺りの乖離は、何が原因なのか、どんな理由があるのか、さっぱり見えてこず、解決の糸口さえ見えない。分析能力の欠如は、あらゆる面で大きな影響を及ぼし、こんな経過を辿るのを見ると、身に付けさせる意味は大きいと思うのだが。

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6月24日(木)−即物

 世の中は、短気な人ばかりとなったのだろうか。あらゆる事に、短期的な効果が期待され、それも、誰が見ても明確に理解できるものという、勝手極まりない補足が付く。何事にも、成果が望まれるのは当然のことだが、その有無が事前に論議され、場合によっては、始まる前から中止が決まるという。
 そんな時代に育った人間は、自分が関わる事柄についても、同じ考え方を適用する。何かが提示されれば、それが自分にとって、何の役に立つかを吟味し、無用と思えば捨て去るわけだ。まるで、買い手市場の図式だが、同じことが、自分を対象にして起きるなどとは、その時点で想像することがない。こういう方式が流布されたせいで、想像力の欠落がさほどの問題と捉えられず、自分の立場のみで物事を考える人間が、異常に増えたことが、こんな現象をより目立つものにしているようだ。即席の効果は、あらゆる所で求められ、それを提供すれば、耳目を集めることができる。様々な商売で、こんなまやかしが罷り通る時代には、誰もが長期的な視点に基づき、確実な歩みを進めようと思うことができない。結果的に、見かけだけのものが作り出され、それが人材となれば、その場限りといく筈もなく、高い買い物を繰り返す場合も出てくる。その対象となった人間も、見栄えの良い、訴求効果の高いものに、飛び付くことは明白で、こんなことの繰り返しが、様々な方面に質の低下を招いていることに、どれだけの人が気付いているのだろうか。自らの努力を惜しみ、高い効果を狙うのは、消費者の心情の典型と言われるが、消費という言葉のもつ意味に、どれだけの人が気付いているのか。こんな世の中だからこそ、自分に関することくらいは長い目で見る習慣をつけて欲しいものだ。

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6月23日(水)−客体

 現代社会の抱える問題として、主体性の無さを挙げる識者は多い。自分が何をしたいか、よりも、社会に何が望まれているかを優先し、そればかりを追求する人間を、標的とするものなのだが、どうにも勢いが感じられない。攻守、どちらの側にも、主体性の欠如が露顕しており、議論が希薄となるからだ。
 独自性の欠落が問題と、揶揄されることの多かった国民性だが、その中でも、批判する側とは異なる面での、創意工夫は実施されてきた。それを独自と呼ぶかどうかは、それぞれの都合によるところがあり、議論をする意義は感じられない。それより、国全体を襲った問題として重大と考えられたのは、あらゆる面で追従を良しとし、他との違いを欠点と見なす動きが高まったことの方である。相対とか比較は、ごく簡単な作業であり、特に、違いを見出すことは誰もが得意とするところだろう。その中で、独自性の追求より、平均化を優先する動きが高まり、中庸を良しとする考えが再び台頭してきた。そんな時代に、突然、他との違いを尊重し、それを育もうとする風潮が巻き起こる。素地のできていないところへ、突如として発展を推進しようとしても、誰もが戸惑う結果となり、別の形での批判が繰り返されることとなった。大衆の教育においては、極端に走ったものは成功を収められず、崩壊することはこれまでにも何度も起きたことだが、ここでも、同様の経過を辿ったわけだ。もし、特殊能力を掘り出し、それを伸ばそうと企てるのであれば、まず選別を先にする必要があり、それを抜きにしては、混乱を来すだけのことである。これ程自明なことに、何故気付かぬかを論じても、愚かな人々には答えが見出せるはずもなく、迷路に陥るだけのことだろう。利己主義でない自分中心があるかは不明だが、それに近い考えが必要となりそうだ。

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6月22日(火)−価値

 付加価値は、購買意欲を高めることで、収入の向上を図る為の手段と考えられるが、最近は、それとは異なる考え方が、紹介されるようになりつつある。例えば、環境保全の為の経費を含めたものや、安全性の維持を謳ったものなど、従来から言われた付加とは少し違った趣のものが、出回り始めているようだ。
 そんなことが議論されるのと並行して、効率とか経費削減とか、そういった言葉が依然として強調される面もあり、実は矛盾に充ち満ちた状況が続いている。両立する筈のないものを並べ称して、どちらも尊重しようとすれば、破綻を来すことは明白であるにも拘わらず、売り言葉に飢えた人々は、何でもかんでも陳列しようとするらしい。労働効率を上げることは、人件費の削減に繋がるのだが、機械化などの手段以外に、それを追求しようとすると、何処かずれた感覚が横行し始める。木材需要は既に安定期に入っているが、供給に関しては、かなり大きな変動をしているらしい。その中で、更なる自給率の向上には、効率化が欠かせないと主張する人々の中には、手間のかけ方にまで話を及ぼす人がいる。間伐という、森林管理において重要とされる作業についても、機械化だけでは不十分とし、機械的な作業にし向けようとする動きがあるらしい。つまり、何処をどうするのかを、知識を基に考えるのでなく、単純に線引きすることで、誰でも簡単に、という方式を採り入れようとするわけだ。一見、効率化と省力化を両取りしようとするように見える改革だが、早晩崩壊の憂き目に遭うのではなかろうか。間伐にしろ、枝打ちにしろ、樹の育ち方との関連が強く言われる。また木材の価値という最重要な事柄も、そこから出てくるものと言われる。いつものように、効率追求が自分たちの首を絞める事になることに、また気づかないのだろうか。

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6月21日(月)−空

 活性を高める為に、様々な方策が考え出された。経済原理の解説では、こんな表現が頻出し、それらが正当な手続きによるものと位置づけられる。貨幣や紙幣が、そのものが持つ価値でなく、何らかの保証による価値を付加されてから、種々の取引が数字のみによるものとなり、時に破綻を来すことが起こる。
 これまでにも、何度もこんな悲劇に見舞われたが、その度に、新たな解釈が加えられ、回避の可能性を示すことで、同じ仕組みが生き続けている。しかし、架空の取引とは異なるとはいえ、所詮は現物の遣り取りを省いた取引では、欠陥が露出するのが当然であり、幾度となく、危機が再現されている。構造欠陥との指摘も、活性化に欠くことのできない仕組みとなれば、一切を取り除くこともできず、自己矛盾に陥っているが如くの状況にあるが、事が起こる度に、この手法の問題点が指摘されるのは、何故だろうか。現物がその場になくとも、将来の供給を見込んで、取引を続けるというのが、本来の考え方であった筈が、いつの間にか、単に売買を繰り返す為の一手段と見なされ、非現実的な遣り取りが可能となるに至って、その影響は拡大化してきた。特に、仮想的な取引の中では、帳尻合わせが可能となり、売買の拮抗による相殺が、量の膨大化を招くこととなる。外見上は何も起きていないように見えて、実際には巨額の取引が為されれば、仲介者の利益は莫大となり、業界全体の活況に繋がるとなれば、今更、金の卵を手放す馬鹿がいる筈もない。あらゆる商取引に、このような仕組みを導入することで、仲介者の利益を向上させたことは、経済活動自体を活発化する為に大きな役割を果たしたわけだが、それ以外に、この手法の恩恵に浴したのは誰か、その影さえ見えてこないように思う。

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