凄惨な事件が起きる度に、異常な行動に驚かされるが、これは人間に限ったことでもあるまい。常軌を逸した行動と、精神の異常を結びつけるのは、海の向こうから来た考え方であり、近年の傾向ともなっているけれど、動物の生態を眺めても、異常と思えるものは数限りなくある。心の問題とすべきか、それとも。
先日、ある公園で寛いでいたら、不思議な行動をする鳩が近くに来た。首を動かしながら歩き回っていたと思うと、次には羽が傷つき、動けなくなった様子を示す。傷つき倒れた姿からは、何やら悲惨な雰囲気が漂っていたが、近くに人が来ると突然、何事もなかったが如く動き出すのだ。様々な動物が、敵に襲われたときに死んだふりをする、という話はよく聞くが、二羽の鳩はそんな窮地には追い込まれていない。二度三度と同じ姿をさらすところを見ると、別に人間にそれを示すことが目的ではないらしい。暫く様子を見ていたら、そんな行動のあと、羽繕いが始まった。もしかしたら、と思ったのは、壁蝨か何か、羽に付いているのを、熱せられた石畳の上に、体を密着させることで、退治しようとしているのかも、ということだ。全くの想像でしかないが、立ち直った連中は、必ず羽の中を嘴で突いていた。そんなところかと、勝手に結論づけていたが、逆に言えば、こんな想像をしなかったら、傷つき倒れたことだけが印象として残り、異常な行動の意味を、真剣に悩み考えていたのかも知れない。人間の大いなる欠点は、他の動物の行動も、自らの論理で理解しようとするところで、それによって得られるものもあるが、失うものも大きい。同じことが、異常な行動を示す人間の理解にも当てはまり、彼等の論理は全く別の所にあるのに、何とか自分の考えに当てはめようとする。これ自体が間違いだとすれば、どんな結論が導けるのだろう。
指示待ちの世代にとって、何が重要なのだろうか。的確な指示を出してくれる人の登場か、それとも、何もかも懇切丁寧に説明してくれる人の方が、更に有り難いものだろうか。そんなことを考えていると、本当に馬鹿らしくなってくる。一方的な助けを望み、自らの責任を感じない、そんな人間は必要ないだろう。
こういう人々に、こんな話をすると、必ず返ってくる反応は、自分たちの無責任ではなく、周囲の責任についてのものだ。自分で考えることの大切さを、「誰も」教えてくれなかった。そんな言い回しが多用されるが、その意味するところを、発言者本人が気付くことはない。判断を下す機械が存在せず、一部の研究者はその開発に努力している。存在しないのは嘘との反論もあるだろうが、設計者の設定した基準に基づく判断は下せても、基準のないところでの判断は不可能であり、そこが人間との最も大きな違いとなる。だが、ここまでの話を読めば分かるように、今問題視されている人々は、そういう観点から眺めれば、人間としての存在を自ら捨てたということになる。少しくらいの説教では、こんな事情を飲み込める筈もなく、更に言えば、それを理解しようとする積極性の欠如が、諸悪の根源であるだけに、如何ともし難いのである。人間でないと振り分けられた連中の行き着く先は、全く見えてこないのだが、そんなのが蔓延る社会はろくでもないものにしかならない。自由意思などと評されることもあるが、その尊重がこういう事態を招いたとしたら、それは元々、そんなものを持ち合わせていない輩に、尊重もへったくれも無いということになるだろう。こんなご託を並べてみても、何も始まらないとは思うが、こんなことを思いながら、雷を落とすことは必要だ。
新たな提案に対して反対の声が上がる。理由はこれこれと並べられるが、その的外れの激しさに呆れることがある。提案者の意図は全く別の所にあり、その実施によって、反対者が並べる下らないことをも防ぐことができるのに、それに気付かず、自らの卓見に酔ったが如く、危険性を叫び続けるのだ。
こんなことが身近で起きたことはないだろうか。これはどんな社会でも起き得ることであり、特に腐敗した場所ではその傾向が甚だしくなる。理由は簡単なのだが、意外に気付かれぬことが多い。反対者の論法は、自らの行動に基づくものであり、自らの論理が反映されているのが常である。そこから考えれば、反対理由の殆ど全ては、自分ならそうする、ということの表れであり、危険性は提案そのものでなく、反対者の心の中から産み出されるものであることが、容易に知れることとなる。こんな状況だからこそ、腐りきった考え方を排除し、正常化する必要性があるわけだが、反対する人々はそれに気付くことはない。それより、新たな提案によって、一部の人が自分自身が望むのと同じように、利権を得る為に裏工作をし、甘い汁を吸おうとすると考えるわけだ。如何にも深読みをしているように振る舞うが、その実、自分の心の中にある欲望を顕在化しているに過ぎないことに、当人が気付くことはまずあり得ない。こんなさもしい心の持ち主たちが力を得て、自分たちの思う通りに物事を動かしている状態こそが、明らかな誤りに違いないのに、彼等の論法では、それ自体が民主主義という名の下に、全てのことが行われることこそが正しい道とするわけで、その大いなる矛盾は解けることがない。正しくない心から生まれるものに、誤ったもの以外があるとは思えない。
昔、何処かの企業が求人で、学歴不問なる文句を表示して話題となった。流石に、最高学府の卒業は前提条件のように扱われたのだろうが、学閥なるものを排する姿勢を示すものとして、一石を投じると言われた。実力を見極める力と、それを見定める時間さえあれば、可能となるものの、保守的な仕組みの中では難しい。
その後も、従来の傾向は変わることなく、相変わらずの書類選抜が行われているが、それを忠実に反映させたのが、進学傾向だろう。有名無名を問わず、自分のやりたいことを、と望む若者はそれなりの数居るだろうが、現実を前にして、対策に走るのもやむを得ないといったところか。にしても、これ程極端に表面化している国は珍しい。理由の一つは、玉石混淆という事情であり、現実には何の役にも立たないものが乱立していることがある。こんな状況では、学歴そのものには意味が無く、どれ程の負荷を経験したかが問題とされる。そこが学閥形成に影響を与えるわけだ。数自体が少ない国では、こんなことを心配する必要はなく、保証が付くこととなるわけだから、それのみで十分となる。一方、海の向こうの膨大な数が乱立する国では、有名かどうかの区別が最重要となる。そんな事情からか、取り沙汰される名前も多く、それがまるで宣伝文句のように使われる。同程度、同水準、その他、色々な表現で、勧誘に走っているようだが、所詮は他人による詐称に過ぎない。これが当然と見るか、違法と見るべきかは、人それぞれだろうが、お墨付きかどうかを問題視するのであれば、触らぬ方が良いに違いない。真の実力を優先する世界では、こんなことは問題にもならない筈だが、現実には、それとは正反対の結果が生まれる。結局、実力を見極める力を持つ人間はおらず、そんな期待を持つ方がおかしいと見るべきか。
社会全体に歪みが蓄積し、ひび割れが生じているように見える。中でも、弱者と呼ばれる人々の立場には、以前と比較して大きな違いが起きているようだ。あくまでも、弱い立場にある人々に対し、救いの手を差し延べる必要があり、その為に様々な方策が講じられてきた。これ自体は何も悪いことはないのだが。
弱い者に何かしらの救済を施すことは、何処も間違っていないように思えるし、事実、弱者はそうされることを望む場合が多い。こんな面を見て、弱者に成りすますことの重要性に思い至る人々がいて、その範疇に含まれる為の方策を編み出そうと努力する。この考え方の狂った点は、弱い立場にあるべき人間が、そのようなものなのかを論ずることなく、ただ単に、弱みを見せつけることでその権利を得ようとするところにある。時には、狂気に走った気分を振りまき、恰もその淵に落ち込んでいるかの如く振る舞うから、始末に負えないものとなる。人間は少なくとも、越えてはいけない線をそれぞれに持ち、その外側に出ることを忌み嫌うものだったはずだが、現在はそんなことを躊躇う人の数が減りつつある。何を目的としたものかは知る手立てもないが、当人たちは権利を得る為に躍起となり、そこに明確な線があったとしても、無視し続けるのだろう。場合によっては、高い障壁さえも気軽に乗り越えることとなる。普通に暮らすことで、様々な壁が立ちはだかることがあるが、そちらには一切の興味を示さず、権利を得る為に必要となれば、その努力を惜しまぬわけだから、理解の範囲を大きく超えているように思える。狂ったふりが本物となり、狂った考えが強い力をもつとなれば、狂気だろうが何だろうが、いとも簡単に受け容れてしまうとは、如何なる秩序が働く世界なのだろうか。そうでないことを祈りたいが、どうも怪しく思えてしまう。
お国自慢は色々あるだろうが、やはり一番であるものが、最も分かり易いだろう。そんなことから、競争が始まり、何かというとどちらが上か、を競う話になってしまうのも、仕方のない所だろう。数字の大小を競うものであれば、違いははっきりと現れるから、大した苦労もなく結果を出せるが、そうでないと大変だ。
人の数を争おうと、今積算を躍起になって行っている催しも凄まじいが、一方で同じ街が背の高さを競っていることは、これまた面白い状況に見える。確かに、分かり易いことは確実だが、だからといって、同じ状況かでの競争かと言えば、そうも言えないものだろう。にも拘らず、こういうことになると引く気もなく、何でも押し切ろうとするのは、自慢に走る人間心理を如実に表したものだろう。だが、元々は力の象徴のように扱われたのに、今では、それとも少し違った観点から眺めねばならぬほど、様々な要因が複雑に入り組んだものとなっている。紙切れが飛び交うことで、何かの象徴のように扱われたものが、実質や実体が薄れてしまい、結果的にその勢いが萎えてしまった場合には、中途半端なことも起こりうる。実際に、そんな現象が起きたことは、ここ数年の間に、途中で中断されたままになっているものを見る度に、人の心に思い起こされるようだ。紙切れの遣り取りが、恰も現実のもののように扱われ、その方が尊重されることとなった時、人の心に驕りが産まれ、盲滅法に走り続けることさえ起きる。自慢する為でもないのだろうが、結果としては、そうとしか思えぬほどに他との差を強調し、そこに自らの存在意義を示そうとする。見栄を張るとはよく言ったものだが、見栄があるからこその自慢であるのは間違いなく、それを示すことだけが生き甲斐となる人も居る。人間心理の難しさと可笑しさを示すものと言えるか。
情報を手に入れる手段が、どんどん増えているように見えるが、実際にはどうなのだろう。ごく当たり前の情報は、その手に入れ方が違ってきただけで、中身が変わることは殆ど無い。それに対して、それまで入手不可能と思われたものについては、新たな手段が登場したように見える。だが、本当にそうだろうか。
これまで書物のように、印刷された形で人の目に触れてきた情報が、最近は画面の中に表示される。一つ一つの本に当たらなくても済むから、昔と比べたら、ずっと気楽なものとなったのは確かだが、これらについては、内容については何の変化もない。手間が省けたというのは、たったそれだけという受け取り方もあるだろうが、実際にそれらに触れる機会をもった人々にとっては、大きな恩恵となっているだろう。しかし、それ以外のものにまで、仕組みの変化が大きな影響を及ぼしているかは、余り明確にはなっていないようだ。要するに、玉石混交であり、そこに示された情報の多くは、何の根拠もないものであることが多く、逆に偽物に振り回されることとなるから、迷惑のみが際立つこととなる。何故このようなことが起きるようになったのか。その原因の主たるものは、出版に頼っていたり、印刷物で人の目に触れるものについては、かなり綿密な点検が行われていたのに対し、最近の表示のみの情報では、誰もが供給源になることができ、それぞれが責任を同等に負うこととなっていないことが、大きなものとなる。それでも、数多くの偽物に混じり、時に光り輝く情報が流されれば、その意味は大きい。そんなことから、強制的な規制をかけるより、放置しておく方が選ばれたようだ。そうしておいて、受け手が判断を下せば良い、という考え方だが、どうも怪し気な所ばかりが目立つ。結局、判断力の欠如が最大の原因か。