パンチの独り言

(2010年7月5日〜7月11日)
(射幸、価値、過誤、肯否、診断、滅私、保護)



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7月11日(日)−保護

 弱肉強食、何かある度に引き合いに出される言葉だが、文字通りの意味に使われることは少ない。弱者と強者の違いを表現するのに使うわけだが、現実には、その区別が明確なわけでもなく、場合によっては、自らの都合に合うように、適当に改竄されている。最近の傾向は、権利の主張が鍵となるようだ。
 社会の中に弱者がいたとき、それを保護する必要が煩く言われるようになったのは、近代化が進んでからだろう。人権は、必ずしもそのためのものとは言えないが、そこに「権」の文字があるせいか、引き合いに出されることが多い。確かに、権利というものは、それぞれの人々にある筈のものであるが、ある特定の権利となると、少し話が違ってくるように思える。ここで話題にしているように、弱者に特定の権利があるというのは、ごく当然のこととして取り扱われる場合が多いが、実際には非論理的なことが多いのではないだろうか。弱い者だから小さくなるべき、という考え方が明らかに間違いであるのは確かだろうが、そうならば、逆に、権利を主張できるのだから大きく出るべき、となるわけではない。だが、最近の傾向を見ると、弱い者の方が却って大きな顔をして、自らの権利を当然と見なしている。万人が持つ筈の権利を、自分も当然のように、という話ではなく、自らは特別な存在であり、それに見合う権利を有する、という論理だから、話が混乱するのである。人権についての話も、同じ理屈で考えれば、すぐに解決する筈が、歪曲した論理を押し付けようとするから、訳が分からなくなるのである。特別な存在、という考えが如何に間違っているかは、少し考えれば解るわけで、こんなことを論じる必要は全くない。にも拘わらず、こんな方向に展開が向かうことは、明らかに何らかの思惑があるからに違いない。誰が得をするのか、という。

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7月10日(土)−滅私

 この頃は、金の使い込みや私腹を肥やすことが取り沙汰されても、公私混同が話題になることが少なくなった。これは、そういう事例が無くなったからでは決して無く、それが当たり前となってしまったからではないか。人々の心の中に何となくであろうが、他の連中もやっているのだから良いだろう、との思いがあるのか。
 人の心は、ちょっとしたことで揺らいでしまうものであり、安定成長を続けていた頃には、何処かしら余裕を示し、自らの立ち位置についても客観的な見方をしていた。そんな環境下で、悪事を働き、私腹を肥やす人間が見つかると、その度に公私混同が話題となっていたのが、成長が見込めなくなり、先行き不安ばかりが大きくなると、心の余裕は消し飛んでしまい、身勝手な行動に走る人が急増した。こんな状況になってから、様々な形で制限をかけたとしても、欲求の大元となる心が腐ってしまっているのだから、歯止めをきかせることは難しく、捕まれば運が悪いと噂される始末。こんな状況で、公私を混同するかどうかなど、問題外と見なされているのではないだろうか。しかし、こういう心の動きをする人々は、元々そういう動機を抱くのであり、依然として、多くの人々はそんなことは微塵も思わず、真面目に暮らしているのだろう。しかし、一攫千金を夢見る人々は、何かにつけて、きっかけを探り、梯子の場所を定めようと努力をする。所詮は他力本願には違いないが、上の者に擦り寄り、競争者を蹴落とし、自らを加害者と見なすことは決して無く、常に被害者然となる。だが、実際には私利私欲の塊であり、自らの欲を満たすことに精を出す。こんな状態の人間が、人の上に立つ時代とはどんなものか。想像したくないが、現実に実例が此処彼処に転がっているのだから、適わない。公私の区別は、こんな人々にはあり得ないのだろう。

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7月9日(金)−診断

 類人猿と呼ばれるのだから、似たところがあるのは当然なのかも知れない。しかし、檻の中で一つ一つの個体が、別々の所に落ち着き、それぞれに暗い表情で時間を過ごすのを見ると、これを人間と同様の病気と受け取るべきか、戸惑うばかりとなる。人間の医者ならば、即座に診断を下しているだろうが。
 心の風邪という呼び名を考え出した人は、ある業界から感謝状を受け取っているのではないか。そう思えるほど、最近の注目のされ方は、異常な状況にある。そんな話題に触れてから、動物園に出かけて、何とかゴリラと名札が付けられている檻を眺めると、まるでこちら側の世界の縮図のような光景が広がる。もっと小さな猿たちの檻では、盛んに動き回る姿が見られ、悩みなどある筈もない社会が展開する。ところが、巨体の方は大人しく横たわり、自らの指先を眺めながら、一日を過ごす。その姿は、様々なところで取り沙汰される患者の行動に似通っており、人によっては、それをそのまま動物にも当てはめ、彼等が閉じ込められた檻の中で、同じような病気に罹ったと解釈するかも知れない。だが、実際のところはどうなのか。自然の中での姿を知らぬ人にとっては、知る術はないのだが、彼等のそのような行動を病気と診るかは、別の視点を必要とするのではないか。こんなことを改めて書くまでもなく、彼等は本来あるべき姿とは違うものとなっているに違いないが、それが病に繋がるかは別の話だろう。しかし、そんなものを何かにつけ、人間の抱える問題と繋げようとする心理は、ある意味で異常な雰囲気が漂う。何故、と思う暇もなく、すぐに結びつけるのは、何処か短絡的に思える。これこそが、一番の問題、病と呼ぶべきものかも知れない。

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7月8日(木)−肯否

 言葉で伝えることの続編である。日頃から不思議に思っている、と言うか、腑に落ちないことがあり、意味を汲み取ろうと思っていたのだが、またその混乱を助長するような言葉が発せられた。誤解を招かぬように、という配慮と言うより、何か別の力が働いているように見えるが、その真意はつかみ取れない。
 一昔前には殆ど聞かれなかったのに、最近屡々使われる表現に、「関与していなかったかどうか捜査している」というものがある。これだけ読んで不思議に思わない人もいるだろうが、何故否定形を使わねばならないのか、一切引っかからないというのだろうか。関与を疑う姿勢で、捜査を続けているという意味であれば、そこでは肯定形を使っても全く構わないと思える。しかし、現実には否定形ばかりが専ら使われているのであり、そこには何らかの意図があるものと思われる。何故だろうと思いつつも、その理由は見えてこない。肯定すれば、恰も断定した如く感じられるから、という言い訳は、同じことが否定にも当てはめられ、どちらにしても、予断を与えることになる筈である。どちらの方が都合が良いのか、という観点から決められているとしたら、何故、否定形の方が都合が良いのか、これが判らないのである。そんな悩みが解決せぬままに、もう何年も経過しているのだが、その状況を更に悪化させるような言葉がラジオから発せられた。これもサイトの文言をそのまま貼りつければ、「かかわっていたとみて捜査する」とある。ここでは肯定形があからさまに使われており、一定の基準によって予断を防ぐ為の方策、といった考え方が全てに当てはまるわけでないことが分かる。さて、では、その使用意図は何か。これは依然として不明なままであり、そこから何も伝わってきていないことだけは確かなのだろう。

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7月7日(水)−過誤

 情報伝達において、言語は唯一の手段となっている。第六感とか、空気とか、色んなことは取り上げられるようだが、全ての人に正確に伝える為には、言葉を厳選し、誤解を招かぬように配慮する必要がある。そんなことは当然だ、と思う人は多いだろうが、現実には、そんなことさえままならぬ場合の方が多い。
 自ら命を絶つのは、悲惨な幕引きに違いなく、本人の悩みがどれ程であっても、周囲に残す影響の大きさは計り知れぬものがある。そんなことから、毎年のように集計され、その数に注目が集まるわけだが、このところ漸減とはいえ、減る傾向にあることは喜ばしい。それでもまだ多くの人が、という指摘を忘れぬことは大切だが、ラジオから流れた言葉に耳を疑ってしまった。その放送局が掲示しているサイトの文言は、「自殺する人の数は去年9月以降は前の年の同じ月を下回っていますが、依然として1年間に3万人を超えるペースで増え続けています。」とある。これを読んで、不思議に思わぬ人はいないと思うが、どうだろうか。前半では前年比で減り続けていることを述べ、後半では増え続けていると明記する。はて、この文章の書き手は、何を相手に伝えたかったのだろうか。おそらく、初めから言いたいことがあったのは確かだろう。しかし、それを強調することは、現実の数の変遷からは難しい。となれば、どうすれば、自分自身が抱いている意図は伝わるか。そんなところから生じた表現なのだろうが、余りに不確かで、敢えて言うならば明らかに間違った表現では、意図が伝わるどころか、信頼を失うのみなのである。こういう書き手が増えていることは、世の中の情勢を見る上で重要と思われ、意図ばかりが先立ち、勇み足を出し続ける。こうなれば、信頼を失うだけという簡単なことが、何故分からないのだろう。

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7月6日(火)−価値

 対価を支払う。一昔前には、殆ど聞かれなかった表現だが、最近では、しつこいと思えるくらい頻繁に飛び交う。しかし、その使用形態はかなり恣意的なものに限られているのではないだろうか。全てに適用されるのであれば、もっと厳密に算出されなければならないし、その根拠も明確でなければ。
 これまでに接したことのある例では、どちらかと言えば、些末なもの、質の低いもの、低価格のものに限られているようで、算出根拠よりも、適用意図の方が先だっているように思える。いかにして、そこに抑え込むかという思惑が、中心となっているように見えるのだ。そんな気分にさせられるのは、こういう話が高価な商品や高額の報酬に対して触れられることがなく、根も葉もない話をまことしやかに施すといった具合だからである。何故、そんなことが起きるのか、本当のところは知る術もないが、すぐに思い当たるのは、そういった話の流れに導く人々の存在である。彼等にとって売買取引が中心であり、自らの得る報酬と、それをもたらす収支の均衡が、興味の対象となる。更に言えば、ここでの論理は、自らの有利になるように組み立てられており、損害を及ぼすものについては、悉く省かれることとなるからだ。こんな事情や背景を知らぬままに、対価の話をしたり、自らの価値の話に及ぶのは、全く愚の骨頂なのではないかと思うが、使われる側の論理は、常に弱く脆いものらしい。要するに、下らない話の筋に乗ろうと努力する人々には、それがどれ程馬鹿げた行為かという認識がなく、それを煽る人々の関与も相俟って、世の中全体に、それが当然という風潮が満ち溢れているわけである。確かに、価値判断は重要な要素だが、それを公正な立場で行ってこそ、のことなのである。

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7月5日(月)−射幸

 昔流行った歌に、公営賭博に関するものがあった。射幸心を煽るものとして、いつの時代も批判の対象となるものだが、それをお上が仕切ることに対する抵抗も、多くあるようだ。その一方で、時代の変遷と共に、経営が行き詰まり、多くの場が失われつつある。一攫千金の意味も、何処からか変化したというのか。
 そんな話題が見え隠れしつつ、常にその対象として幾らかの注目を浴びていたものがあった。単に賭博の対象としてだけでなく、自らの地位を保つ為の八百長の真偽が話題となり、何度も取り上げられたが、結局結束力の強い組織の恥部を暴くところまでは行かなかった。今回の事件は、それとは全く違ったものであり、一部の人間が関係したのみとして、その世界全体を巻き込むわけではないから、意外なほど簡単に認められたようだ。だが、これらのことが犯罪であることには変わりが無く、更に、本来ならば、誘惑に駆られて手を出した人間だけでなく、賭け事そのものを取り仕切っていた連中にまで、手が及ばないと話にならない。現時点での騒ぎを見る限り、そこまでの到達を臭わせるものはなく、根源のところからの解決を見通せる気配はない。同じ頃、全く別の世界でも賭け事が話題となっていたが、こちらは同じ世界を対象としたものであり、更に状況は深刻であろう。だが、全く違う世界が同じものを対象とした賭博に関わるのを聞くに及んで、この事件の根深さ、それから、それに関わってきた組織の強大さに、驚かない人はいないのではないか。一攫千金を夢見たのか、はたまた、闇の世界からの誘惑に勝てなかったのか、更には、世事に疎い人々の迷い事なのか、理由はそれぞれに違うのだろう。いずれにしても、自分たちだけの世界を築くことの危険性は、こんなところに現れるのだろう。

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