パンチの独り言

(2010年7月12日〜7月18日)
(揺動、暗転、両極、統一、彼我、衰退、差異)



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7月18日(日)−差異

 様々なものが互いに異なっている事に、どんな感想を抱くだろう。自分の仲間であるものが、自分と違っていると、それだけで排除しようとする心が動く。ごく当然の事とも思えるが、個体差という考え方からすれば、違っている方が当たり前となる。違いを見分ける目は、生きる上で重要だが、ここでは余計なのかもしれない。
 どれほどの違いがあるのかを示す指標の一つとして、多様性という言葉が用いられる。同じ仲間の中での違いと、どれだけ違う仲間がいるかという違いと、それぞれに対象は異なるが、現実には違いの幅を重視する考え方は同じように適用される。違っている事を喜びに繋げる人は沢山いるものの、それが自分の身に向けられると、心が揺れる事が多い。どちらも違いである事に変わりがない筈なのに、どうにも受け容れられないといった心理が働くのは、どうした事だろうか。この辺りに、人間特有の身勝手が反映されているように見える。そう思って、最近の話題となっている多様性に目を向けてみると、そこにも同じような歪曲された基準の適用が見えてくる。都合に合わせて、という言葉は適切でないかもしれないが、その時々の解釈を適用し、自分達の考えをうまく当てはめようという努力が見え隠れする。何故、こんな事が必要なのか、すぐには理解できないが、そんな事に精を出す人々には、何かしらの意図があるに違いない。ただ、本人も含めて、その辺りの理解ができていないように思えるのは、事実のようだ。考え方を編み出す人々は、それぞれに思惑があるのだろうが、それを実践する側には、少し違ったものがありそうに見える。どんな方に向かうのかは、ここから見えてくる事はなく、時間が経過した上でやっと見えるのだろう。何が起きるか、見守るしかないのだろうが。

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7月17日(土)−衰退

 ある日突然始まった解体作業が終わり、後にあった家並みが見通せるようになると、そこに古い看板があることに初めて気がついた。織物買継商とあるが、はてどんなものなのやら。古い商売で、今ではもう絶えてしまったものかと思ったら、今も続いているものらしい。問屋への販売と工場への製作指導が役目とか。
 とはいえ、繊維不況の煽りを受けた辺りから、この手の商売は困難に突入した。生産も海外が主流となった今、製作指導の必要性もなくなり、粗悪品を出さない努力も、買わない努力の方に移ってしまった。生産地に近い町は、大都市であることは殆ど無く、所謂地方都市であり、このところの不況により、その勢いは衰えるばかりとなっている。往事賑わった商店街も、今では開かぬ店ばかりとなり、持ち主さえもいない状況も見える。次々に空き家になる商店には、借り手を捜す張り紙があるが、さて勢いを無くしたところに入る奇特な人が居るものか。そんな中で、最近の驚きの一つは、学習塾の撤退である。その時期が来ると、迎えに来る親の車が溢れかえっていた一角が、すっかり閑散とした状態となり、寂しげな雰囲気が漂う商店街が、更なる静けさを迎えたように思える。これも全て勢いの問題か、はたまた、別の問題があるのか。おそらく、数え切れないほどの課題を抱え、為す術もなし、といった感じなのだろう。何処からも打開策が出されぬままに、勢いは衰えるばかりとなる。誰か何か特別な方策を思いつかないか、という願いは何処にも届かないし、他力本願では何も解決しないことは見えている。では、どうすればいいのか。勢いを増す努力ではなく、現状の維持を考えるべき時なのかも知れない。

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7月16日(金)−彼我

 一部の気違いは論外だが、多くの人々が職を得るのに苦労している。確かに、先行き不安感がこれ程に強まれば、誰しも自らの身を護ることに心を奪われ、他人のことなど構っていられない。しかし、殆ど全てのことが、結果的には自分の身に戻ってくることを考えれば、こういう時こそ、やるべきことがあるように思う。
 だが、現実には遠くばかり見つめていて、足元がしっかりしない人が多く、そんな連中に関わることは控えたくなるのが、本心なのだろう。まともな意見交換など、期待すべくも無く、更に酷くなれば、話が通じない連中までいるとなれば、できる限り触らぬ方が無難となる。だが、そういう考えをする人ほど、自分の過去を思い出すべきなのではないか。現状認識がやっとであり、先の見通しや過去の分析など、全く手付かずだった時代、それでも周囲の理解によって、生き延びることができた。今、目の前にいる手の施しようのない人間と、その時の自分とが、どれ程の違いをもっていたのか、改めて考えるべきと思う。それでも、自分は違っていた、という自信の持てる人は、勝手に進めばいいわけで、そんな人のことは、誰も構うつもりはない。ただ、多くの人は、そんなことを促されると、目の前に展開される現実に対しても、少しは違った考えが過ぎるのではないだろうか。無理をして、温かい目を向けてやる必要は全くなく、冷たい仕打ちも時には必要となる。それでも、関わりを持たせてやれば、次の世代にも機会が訪れるのだ。自分の時のことは棚に上げ、世の趨勢がこういう具合になったのだからと、勝手な振る舞いをし続けるのは、自己中心的な考え方としか思えない。もう少し、広い視野を持てと、当時、何度も言われ続けたのではないか。それと何が違うと言うのだろう。

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7月15日(木)−統一

 大都会と同じ区分なのに、南方遙か遠くにある島は、他の土地から隔絶された世界であり、その為、独自の生物分布をもつことで知られている。その特長を活かして、例の如くの指定を受けようとする動きがあるようだが、人間の影響が大きく、その排除が条件の一つとなっているようだ。どうなるかは判らぬが。
 孤立した環境では、文化や生態など、多くが独自のものとなる。物珍しさも手伝い、最近では注目に値するものとされているが、関係者の動機に怪しげなところもあり、様々な障害が生じているようだ。この手の場所の中でも、特に世界的に有名なのが、陸亀や小鳥の珍種がいることで知られる群島である。大陸から離れた環境では、独自の進化が起こり、固有種が数多く棲息する。個の固有名詞は、隔絶とか孤立とか、その原因の説明があり、その状況から全く別の用法がなされている。世界の趨勢から離れ、独自の発展を続けるものに対して、この諸島の名称が当てられ、独自性の尊重というより、孤立することの問題点が取り沙汰される。特に、工業製品においては、市場規模の拡大が最重要課題とされるから、孤立は大敵であり、統一規格の策定において、自らの方式が選ばれるように、努力するのが当然とされている。だが、最先端技術の開発がなされる場所では、時に、それが孤立化を招くことがあり、結果として、後れをとる懸念が強調される。このところ、その類の話題が取り上げられているようだが、新たな事業展開においてどの戦略をとるかは、現時点での独自性とは別の問題に思える部分もある。標準が最良とする動きと、これから新たな市場を開拓するのだから、ここが巻き返しの好機であるとする動きが、激しい対立を産んでいると聞くが、さてどちらの考え方が正しいのか。自動車の運転席の変更なども、その産物の一つであり、現在も続いているのを見ると、統一が絶対要素とも思えないが。

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7月14日(水)−両極

 ものを考えるのが面倒になったのか。どうも、物事を単純化して、分かり易くしようとする傾向が顕著になっている。白黒はっきりさせるどころか、多数の選択肢を最小にしようとする努力が目立つし、何事も二極化させようとする動きが急に思える。考えさせないことを最優先にしようとしているのだろうか。
 ここで面白いと思うのは、その必要性が求められている対象である。難しいことを考えなくて済むとか、分かり易くて大歓迎とか、そんな表現で伝わってくるが、馬鹿にされていると思わないところが、一番の不思議なのである。説明する側が、真意を伝える為に努力を惜しまないことは重要だろうが、本質を伝えられなくても、理解し易くすればいい、という方に努力が向くと、それは嘘を積み重ねることに繋がりかねない。嘘でも、真実でも、理解できるものであることが大切、という考え方が優先されると、何が本質なのかを見極める余地は無くなり、全てを鵜呑みにするしか無くなる。これを歓迎すること自体、明らかな間違いであり、それを続ければ、虚構の世界が築かれ、いつの日か大きく崩れ去ることになるわけだが、そんなことを考えるだけの能力がないからか、現時点では大した問題とは受け取られていない。選択肢を二つに減らすことは、物事の違いを明確にすると言われるが、自らのこれまでの選択を考えれば、そこに二つしかないことは殆ど無く、たとえ、初めは二つでも、その後の展開から多数の選択肢が浮かび上がることが大部分だったのが分かるだろう。これ程単純なことでも思い至らない状況には、何か大きなことが影響しているとしか思えない。全体として、そういう方に誘導され、心地良い言葉に踊らされていることに、気付く時が来るのだろうか。

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7月13日(火)−暗転

 筋書き通りとほくそ笑んでいる人がいるのではないか。劣勢を跳ね返す為には、人事の一新を図るべきとの情報を流し、安定より人気に走らせた後、一気に凋落を迎えさせる。もし、数字に信頼度が付けられるのなら、最後のもの以外はどんな操作が入っていようと、不思議はないわけで、これが意図された展開なのだ。
 こういう話が出る度に、利益は何処にあるのかとの指摘がある。不安定は、誰の心にも有り難いものではなく、避けたいのが心情だろうが、それによって、注目度が上がり、収益が確保できるとなれば、話は別だろう。更に、調査という名目で行われた結果の数値が、如何様にも扱えるとなるから、展開は自在に動かせる。ここ数年の動きを、振り返って眺めてみると、そんな穿った見方をせざるを得ないほど、世の中の動きは誰かの思惑通りに展開している。マッチポンプという表現も屡々使われるが、それとは少し違った筋書きもあり、人の心を揺さぶる形の、心理的な不安定を招く手法が、特に好まれているようだ。ただ、中身は大した考えに基づくものでなく、吟味が殆ど為されていないので、張りぼて状態であることは確かだろう。そんなものを、大衆の目の届くところに曝しても、その実体が暴露されることが少ないのは、大衆の白痴化が進んだだけでなく、連中に協力する形の人々の存在が、暴かれない方向への誘導を繰り返していることにある。数字が発表される度に、都合の良い論評を繰り返し、まことしやかな筋書きが為されることで、満足する人々が、画面や誌面のこちら側に溢れかえる。一喜一憂を繰り返させれば、不安定は助長されるから、思惑通りの展開が更に容易となる。もし、これが意図されたものでなかったら、こんな展開に陥ることは、社会の没落を予期させるものとなるのだが。

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7月12日(月)−揺動

 再び、安定を退ける結果が出た。何かを追い求めるか如く、このところの迷走ぶりは、国民を巻き込んで、という論評もあるが、実際にはどうなのだろう。戸惑い、喚き散らしながら、走り回っているのは、選ばれる側でなく、選ぶ側なのではないかと思う。自らの利益を追い求める姿も、何となく見え隠れし。
 現実的な話題には目もくれず、全体でなく、個にばかり目を向ける。こんな風潮が際立ち始めたのは、いつ頃からだろう。例の如く、成長が止まった時期を挙げることは、ごく簡単な仕業だが、現実には、それよりかなり以前から、その傾向が現れていたのではないかと思う。成長を続けていた時期にも、そこには個人差が徐々に歴然とし始め、勝ち負けとは称されないまでも、何となく、埋められない差を羨む声が大きくなっていた。他人を出し抜き、自らの利益を追求することを優先させることは、個人主義の台頭と共に、ごく自然の成り行きとして、人の心に全体より、個を尊重する気持ちを植え付けた。特に、強烈に働いたのは、個の中でも、自と他の区別を明確にする考え方であり、その頃から、視野狭窄が話題に上ることが多くなり、広い視野の持ち主に特に注目が集まり始めたのも、この頃だろう。それ程、狭いところにしか目が届かず、重箱の隅にしか興味を抱かぬ人が増えており、その傾向は依然として続いているように思える。自分の都合を押し通す為に、社会に変革を求めたり、自分の利益を殊更に主張するのも、その傾向の表れだが、興味深いのは、社会の一員であるべき、自分の存在が薄くなり、自分だけの存在が濃くなることで、こういう観点の変換に、何らの違和感も覚えない人が増えたことだろう。その割に、流言飛語に振り回されるように見えるのは、自分の存在の裏で、自分の考えという肝心なものが欠けているからだろう。

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