パンチの独り言

(2010年7月19日〜7月25日)
(旧交、法治、指標、勧誘、埒外、例外、転居)



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7月25日(日)−転居

 文化住宅と聞くと、あの天災を思い出す人が多いだろうが、それとは少し時代が変わって、新興住宅地に二階建ての公営住宅ができた頃があった。今なら、タウンハウスと呼ばれるものにあたるだろうが、当時の部屋の面積はずっと小さく、こぢんまりとしたものだった。それから半世紀が経過している。
 都会では既に取り壊されるか、はたまた土地活用の観点から、もっと高層の住宅が建設された為、殆ど見かけられなくなっているだろうが、地方都市ではポツンと取り残されたかのように、そんな建物が今でも見つかる。ただ、当時の建材の問題もあるだろうが、それらも老朽化が進み、そろそろ取り壊さざるを得ない状況にある。公営のものでは、代替の住宅を用意し、住民の引っ越しが終わってから、解体を始めるしかないが、このご時世ではその為の資金も捻出しがたい。かなり揉めた挙げ句の建設だったのだろうか、やっと高層の住宅が造られ、そこへの移動が済んだのだろう。仮の壁が築かれ、解体が始まったようだ。入り口は一階にあり、二階へは住宅内の階段で上がる形式は、当時最新のものと持て囃されたのではないだろうか。今眺めると、ぎゅう詰めの状態に見えるのは、一つ一つの部屋が小さなことからだろう。それでも、子供たちに個室を、という思いを抱いた若夫婦にとって、これ程恵まれた物件は希少である。当時の事情は詳しくは分からないが、多分、かなりの競争の末の入居だったのではないだろうか。それが半世紀を経過して、夫婦は既に高齢に達し、子供たちと同居することもなく、彼らも新しい家庭を何処かで築いているのだろう。このままでは、朽ち果てるのみと思われた住宅に、光りが当たったのはおそらく、新たな住宅建設の話が持ち上がったからだ。高層住宅が住みやすいとは限らぬものの、隙間風が吹き続ける住宅よりは、ということだろうか。

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7月24日(土)−例外

 どんなことをしても、たかが知れている、という考えかどうかは知らないが、無難な道を選ぶ人が増えていると聞く。その為か、現状を分析し、それによって将来の進路を決めることを、当然のことのように受け取る向きがある。不思議に思えるのは、体の成長が人それぞれに異なるのに、こんなことをすることだ。
 小学校から中学校にかけて、同級生との体格の比較は大きく変化することもある。成長の速度が皆一定であれば、こんなことが起きるはずもなく、一度決まれば、それが一生続く筈だが、そうなっていない。これは何も、体格だけの問題ではなく、精神や知能についても、同じことが言える。神童と呼ばれた人が、大人になるとごく平凡な人になるのは、よく聞く話だが、逆のこともあって当然だろう。そんな所に現れる個体差に関して、どうも人間は常に鈍感に振る舞おうとしているらしい。先が見えていた方が安心、という考えもあろうが、現実に、人それぞれに違いがあり、早熟型と晩熟型と呼ばれたりもする。そんな実例を目の当たりにしながら、一方で、現状分析から生涯の道筋をつけてしまおうとするのは、大いなる矛盾となるのではないだろうか。当事者がどう考えるかは、ここでもまた、人それぞれの反応があるだけに、一概に言えるものではないだろう。しかし、世の中の趨勢が、分析に基づく、傾向と対策に邁進する状況では、中々流れに逆らうことが難しい。周囲からの圧力に打ち勝つ心の強さを持つか、聞く耳を持たぬほどの鈍感さを備えるか、そんな人にしか、人と違う道を歩むことが難しいのではないか。ただ、皆一緒という現状を見る限り、そこから外れた少数の人々に、将来の期待を預けるしかないのは事実だろう。ほんの偶にしか見かけぬ人に、温かい目を向けても良さそうだ。

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7月23日(金)−埒外

 収入も大して無いくせに、見栄を張るように派手な生活を送る。そんな人間は何処にもいるが、最近は国自体が、批判の対象となっているように見える。特に、ある地域で国自体の財政が破綻を来たし、世界全体にその影響が広がった時、実際には数字自体は、この国の方が深刻だとの意見が出てきた。
 細かな分析を施すと、実態はかなり異なっていたようだが、所詮、実際の収入が派手な国民生活を支える為に使われている額の半分にも満たないとの指摘もある。その割に、人気取りに奔走する仕組みでは、更なる収入増を見込む政策が、毎度のことのように拒絶され、大いなる矛盾を解きほぐす手立ては講じられぬままに、時間が過ぎていくばかりとなる。今度も、論点はその辺りにあったようだが、これ程明白な問題も、自らの懐を心配する庶民には、目に入らぬ対象のようだ。そこで、少し国の収入に関して調べてみた。国税庁のHPには、様々なデータが収められている。中に税目別の構成比が示されており、少し古いものの、平成8年度と18年度の比較を見ることができる。総税収額は、8年度が52兆円強、18年度が49兆円強と、予想通り減少が顕著だが、その割合は興味深い。8年度は、所得税36%、法人税28%、消費税12%であるのに対し、18年度には、それぞれ29%、30%、21%となる。これに何を感ずるかは人それぞれだが、額としても、所得税は大きく減り、消費税は大きく増えたこととなる。こんな背景もあり、消費税率を上げる政策が取り沙汰されるのだろうが、それは正解なのだろうか。経済の停滞は、消費の停滞に繋がると、よく分析されるけれども、その前に、現状を眺めると、各人の収入の減少がある。だからと、所得税でなく、消費税で、という論理は、どうにも理解し難いものに見える。

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7月22日(木)−勧誘

 経済の停滞の原因が、そんな所にあるとは思わないが、しかし、ふと考えさせられることがある。成果の評定が容易なものほど、厳しい査定が下され、安定した成長を目論む為に、多種多様な方策が要求される。当然のことと考える向きもあろうが、現実には、全体的に疲弊の度を高めるだけとなり、力が失われつつある。
 停滞の傾向が高まる度に、様々な批判が繰り返され、更なる改善を求める声が高まる。しかし、何をどう改善するかが見えぬまま、迷走を続ける社会では、単に体力を奪われるだけとなり、結果的に、回復期が訪れたとしても、すぐに対応できない仕組みができあがってしまう。そんな姿を曝す時代には、あらゆる経済活動が縮小され、負の連鎖は強まるばかりだが、そんな中にあって、その存在を誇示するものがある。成果の難しさで、様々な困難を抱える業界だが、その実、混迷期にはその意義が高まるかの如く見える。電車内の吊り広告は、どんなに不況でも消え去ることはないが、それでもそこに現れる業界には、盛衰の印のようなものが感じられる。雑誌の広告は相変わらずのままだが、それ以外のものでは、新製品を紹介するものが減り、全く異なる業界の広告が激増している。その時期であることもあろうが、教育業界の広告が目立ち、特に、大学のものが増えているように感じられる。就職状況の悪化から、更に教育の重要性が高まり、といった筋書きを思い浮かべる人は、今の時代には殆どいないだろうが、そんな時代に、この傾向は如何なる理由からだろうか。進学者数の漸減が深刻な問題となりつつあるからこそ、限られた牌の奪い合い、との図式とする考えもあろうが、それだけで、広告の急増は説明できないだろう。成果を問われることには変わりが無くとも、それが難しい状況が、何かしらの形で反映するという見方は、やはり無理筋だろうか。

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7月21日(水)−指標

 成果を問われることが多くなった。投資対効果なる考え方が一般化されるに従い、様々な分野で話題となってきたが、誤解を産むことが多いようだ。投資額は、どのような例でもかなり正確に算出できるから、そちらに関する誤解は生じ得ない。しかし、効果なるものはどうか。何をその指標とするかによるのである。
 効果についても、例えばそれによる収入額とか、生産額などのように、金額で計れるものとすれば、何の問題もなく比較ができるのだが、そのような形での評価が難しいものだと、いっぺんに状況は困難となる。企業であれば、収支という形で全てを整えるから、問題になることは殆ど無い。その代わり、かなり厳しい評価がなされることが多く、最近は、その為に苦しむ経営者が増えているようだ。一方、自治体や国などの公的なものについては、収支で括れない事例が殆どであり、指標を定める時点で、混乱が起きる場合が多い。それでも、投資対効果を評価せねばならない状況には変わりが無く、何とか無理矢理にでも指標を示す必要が生じる。そこで、特に理解し易いものが選ばれるのだろうが、ここに落とし穴があるようだ。つまり、理解し易く、明確な指標の多くは、実際には実態にそぐわぬことが多く、結果を歪曲することに繋がるからだ。この手順によって、如何にも正当なる評価がなされたように見えても、そこに使われた指標が現実には明らかに誤解を招くものであり、実態を示せないとなれば、全てが信頼を失うこととなる。ところが、表面的には如何にも正しい手順を踏まえた手続きであり、何の問題も見えてこないとなれば、評価自体が独り歩きし始めることとなる。そこからは悲劇が始まるわけだが、その原因が出発点にあることに気付く人は少なく、結果的に少なすぎる成果に批判が集まることとなるのだ。

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7月20日(火)−法治

 法律というものに対して、どんな解釈がなされているのだろう。交通法規の場合、何か事が起きない限り、ある許容範囲があり、その中に収めていれば、といった感覚があるのではないか。事が起きるかどうか、この点が法律の解釈において、最も重要となることであり、難無く暮らせるのであれば、法律の適用は頭を掠めもしない。
 平穏無事に生活する人間にとって、こんな考え方からすれば、法律は不要なものと映るに違いない。しかし、その根源が、安全無事な生活を過ごす為のものであり、当然という共通理念の下に定められたものであることに気付けば、不要という選択肢は出てくる筈はない。何故、要らないという声が大きくなるかは、人それぞれの考え方の違いがあるから、一概に解釈できないとは思うが、邪魔なものという扱いを、平然と行う人々には、その意味を理解する機会は得られそうにもない。その上、最近の傾向として重大に見えるのは、適用範囲においても、その時々の例外化が稀でなくなり、抜け道作りに精を出す人が増えていることだろう。事が起きたとしても、まだ取り締まりの対象とならずに済ます方策がある筈と、そんな単純化が各所で起きていることは、自らの身勝手が恰も権利から生じるものという解釈の存在が、大きな要因となっている。明文化されているにも拘わらず、このようなことが横行する背景には、心理的な要素が強く影を落とす。可哀相とか、回復の余地とか、機会を与えるとか、言葉で表現すると、必ずしも心理のみから来るものとは思われないが、その気になるのは心の問題でしかない。万人が納得するものとして、様々な可能性を示しつつ制定されたことから、法律には細かな意味での矛盾があったとしても、全体として社会の秩序を保つ為のものである。例外は、その段階で検討されたのではないか。

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7月19日(月)−旧交

 旧交を温める。久しぶりに友と会う機会を得るのは、どんな時か。同窓会という機会がある間柄なら、ほんのたまと言っても、定期的なものとなり得る。しかし、勉学を共にした関係でなければ、中々会うこともできない。思いがけぬこととは言え、冠婚葬祭、特に後者に頼ることとなるのではないか。
 そうは言っても、葬儀に参列しようとすると、その場所と時間が課題となる。どうしても時間が割けない、遠方の地で出かけられない、といった理由で、弔電などで済ませてしまい、その場に行かねば機会も得られない。人伝に聞くところで、誰が現れたかを知り、懐かしく思う一方、折角の機会を失ったことを悔やむことも多い。特に、職を得て活躍している時代には、そんなことが度々あったとしても、次の機を窺うことができるが、年齢などの理由で、職を辞してしまうと、次は無いように思えたりする。しまったと思ったとしても、後の祭り、次の機会を待ち望む訳にもいかない。そんな時、救いの声のように感じられるのは、葬儀とは別の形で営まれる、故人を偲ぶ会なるものだろう。亡くなった人の関係者が集まり、個人の思い出を語るとともに、旧交を温める良い機会となる。徐々に出会いが少なくなっていると、こんなことでも大変有り難く感じられるのだそうだ。互いに時間を惜しみながら、仕事に精を出していた時代には、大して重要とも思っていなかった関係でも、そんな時期が来ると、考え方が一変する。友を懐かしく思い、往時の思い出に耽る。人間の不思議は、総じて身勝手なものであり、こんな時でも、昔の冷たい付き合いなどを思い出すことはない。しかし、人が集まれば、懐かしい話に花が咲く。そんな機会もたまには必要と、動いてくれる人が居ると有り難い。

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