パンチの独り言

(2010年7月26日〜8月1日)
(豹変、無心、迷走、悪口、法螺、形式、自責)



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8月1日(日)−自責

 確かに、自分の責任にできる程、深刻に考えたことはないのだろう。目の前に積まれた課題を片付けることに躍起になり、場当たり的な対応を余儀なくされた時、人間は袋小路に追い込まれる。罠にかけられたように感じ、自らの責任は何処にもないと思うのだろうが、そこに至るまで、どんなことを繰り返してきたのか。
 指示通りに動いただけとか、誰も教えてくれなかったとか、積み上げられる言い訳は数知れず、最後の一言は決まっていて、時代や社会が悪いこととなる。運と言ってしまえばそれまでだが、何も考えてこなかったことに、一切の責任を感じない態度には、何かを任せられる雰囲気は漂わぬ。あくまでも頼り無く、あくまでも無責任な人間に、どんな仕事をさせるべきか、迷うというより、端から関わらぬ方が良い。確かに、そんな決断を下す人々の心の中にも、同じような迷いが存在し、いつまでも決められない弱さが見え隠れする。それを社会の責任とするのは、全く同じ筋道であり、彼らの中から、新たな動きが出てくることはない。閉塞感とは、外に存在するものといった感覚がある一方で、こういう連中を眺めていると、内側から滲み出すものに思えてくる。何が足らないのかを考える代わりに、誰が悪いのかを考えるのは、現代社会の常道とも思えるが、その大いなる間違いを指摘する声は聞こえない。目の前に苦しむ人がいて、そこから目を逸らそうとすれば、実物に責任を負わせるより、実体が見えてこない社会や時代といった代物に、悪者になってもらう方が、ずっと気楽なわけだ。この繰り返しは、このところ随分長い期間行われてきた。その結果、それが当然のこととなり、全てを他者の責任とするのが、ごく当たり前の順序となる。自らを省みることもなく、振り返ることもない人間が、町に溢れかえっていることに、恐怖を感じる。

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7月31日(土)−形式

 何か新しいことに挑む時、大きく分けて二つの型がある。兎に角、始めてみるという人と、まず、どんなものかを調べ、納得が得られた上でしか始めないという人である。やってみることの大切さを知る人は、前者となるだろうが、それによって失敗を繰り返した人は、後者に落ち着く場合が多いのだろう。
 誰しも、初めてのこととなれば、全体を把握することは難しい。十分な調査に基づく行動を選択する人でも、予想外のことは起きるわけで、結局は、やってみることの大切さに気付かされる。ただ、丸腰で戦うのは、といった感覚が強く、準備無しで挑みかかるような無茶は控えるのだろう。だが、世の中が停滞期に入り、本当の意味での新しいことが見つけられなくなると、何処かの誰かは、それについて熟知しているという状態が生まれる。ここには大きな誤解があるのだが、それに気付かず、ここから先の話のように振る舞う人が多いのも、時代の趨勢なのだろう。確かに、誰も知らないというものは、殆ど無くなったに違いない。しかし、一人の人間が知らないことは、依然として数えられない程有り、一個人としては、昔と同様に挑みかかる対象が存在する。ところが、世の中では周知のことなので、それへの対処法は様々な形で編み出されている。そんな中で、新たにそれを始めようとする人には、格好の模倣対象が目に入ってくるわけだ。こんな情勢から、始めに書いた話の前者は激減し、後者ばかりが目立つようになった。如何にも堅実な歩みをしているように思えるが、現実には経験に勝るものはなく、未経験な人間が頭でっかちになったとしても、大したことができないのは変わらない。型にはめれば安心できる、という人間には、形式しか目に入らず、結局は大事なことを見失うことととなる。社会の歪みの多くは、こんな所から生じている。

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7月30日(金)−法螺

 流行を追うことが重要と言われたら、どんな人と想像するだろうか。ブランド品を買い漁る人々、と想像する人が多いだろう。では、トレンドを追いかけると言われたら、どうだろうか。この言葉を好んで使う人々は、この独り言が収められたHPを覗きに来ることが多い。経済の世界で、屡々見かけるものだ。
 昔、ある掲示板に出入りしていた時、そこに入り浸っていた人から、厳しい言葉を投げられたことがある。情報を手に入れる方法を持たなければ、この世界で生き延びることはできない、という主旨だった。ただ、その人物が紹介していた情報は、その業界に通じた人間から見れば、何の役にも立たないものであり、単に、煽り効果を狙ったものに過ぎなかったから、こういう業界の人々が好む情報というものが、全く違った目的から生じたということが判っただけだった。泡銭を手に入れる為には、トレンドを追うことが重要であり、その虚実は問われないという考え方は、この業界の状況を如実に表したものだろう。流行り廃りに上手く乗り、そこで人の先を行くことが大切、ということは、本質を捉える能力も、事実を見極める能力も必要としない。その後の経過を顧みると、まさにこれが社会全体に蔓延する流行病となり、それに冒された人の数ばかりが増え、自分なりの判断ができる人が冷遇されることとなった。経済に関係する業界は、依然として中身のないトレンドを追い求め、下らない言論に終始する。彼らには、一瞬でも古い情報は価値が無く、昨日発した言葉には責任がないのだろう。そんな遣り取りを眺めていても、生産性のない人間、一般的には、何の役にも立たない人間が、大きな顔ができる機会を得たということだけしか見えない。本質を見極め、長い目で物事を捉えることの大切さこそ、伝えるべきものとなる筈では。

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7月29日(木)−悪口

 このところ、電車での移動が減ったせいか、週刊誌を読む機会が無くなった。時間潰しに最適だったのだが、よく考えてみると、それ以外には殆ど何の役にも立っていないようだ。そう思いながら、偶に乗る電車の中吊り広告を眺めたり、新聞に掲載された広告を見ると、その内容の劣悪さが、以前にも増しているようだ。
 所詮、ガセネタ満載の記事、との解釈もあろうが、中身の信頼性より、最近とみに気になるのは、業界内の罵詈雑言であろう。自らの地位を保つ為に、他を貶めることに専念するのは、何処の業界にも見られることだが、言論を扱う業界だけに、その下劣さが際立つ。世の中では、雑誌の売り上げの低下が急激であり、回復の兆しが見られないことが、話題となることもあるが、こんな状況を見る限り、話題にする必要さえ感じられなくなる。攻撃は最大の防禦とは、あらゆる事に通じる教えだろうが、その意味を取り違えているとしか思えぬ行状に、開いた口がふさがらないとは、このことだと思う。何故に、これ程下らないことに精を出すようになってしまったのか、当事者に問い質したとしても、何も見えてこないだろう。彼らは、それが当然の業務として、毎週毎週飽きもせずに、同じ筋書きのものを濫造するだけで、そこに確かな目的も見出せない。だが、部外者から見れば、そこには明らかな目的があると思える。それは、保身とでも言うべきだろうか、自分の欠陥を露呈しない為の、一種の目眩まし的な効果を狙ったものということだ。これは、何もこの業界に限ったことではない。最近は社会全体に、こういった低俗な感覚が蔓延し、自らの水準を隠す為の工作ばかりが、横行することとなっている。本来、言論を操る人々は、そういった傾向を問題視し、苦言を呈するものだが、今や彼らがその中心に君臨しているのだ。

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7月28日(水)−迷走

 得票数で運命が決まる人々にとって、人気取りは重要な要素なのだろう。そればかりに奔走する姿には、同情の余地もないものだが、他の選択肢を持たない連中にとって、考える暇はない。票を持つ人々の前に、なるべく頻繁に現れて、印象を強くさせるという手法を、伝授した参謀は今はその立場にない。
 政権を有していた当時、彼らの顔は頻繁に画面に現れた。ところが、その立場を失った途端に、注目を浴びる機会をも失い、画面にも誌面にも現れぬ日々が続いていた。それが突然、次々と現れる場面が報道され、何が起こったのかと思う。おそらく、例の如くの捻れ現象により、自らの好機が訪れたとばかり、景気のいい話をしようと集まったのだろう。しかし、この状況がどうして良いものだと解釈できるのだろう。確かに、それを達成させたのは、票を持つ人々には違いない。しかし、その原因を作っている連中が、どのような思考回路で、この状況を好機と見なすのか、全く見えてこない。兎に角、馬鹿げた遣り取りに端を発して、このような混迷の事態が訪れた時、それを回復の機会と捉えるのは、大きな間違いと思える。こんな時にやるべきことは何か、そんな考えは微塵もなく、どうつけ込むかに腐心するようでは、可能性はない。最近、注目されなくなったものに、原点とか本質があるのは、こんな社会状況に問題があるからだろう。場当たり的で、付け焼き刃的な施策が尊ばれ、緊急の対策ばかりに注目が集まる。問題の本質が見抜ける人々なら、そんなことを繰り返していても、道を見失うことはないが、元々、船を操る能力を持たぬ人々である。このまま突き進めば、氷山にぶち当たるか、座礁するのが関の山。そんな連中の人気投票に一喜一憂していては、世も末ということになる。

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7月27日(火)−無心

 独自の提案をすることで、一目置かれていた人も、こんな世相になってしまうと、その影が薄くなる。閉塞感が高まるばかりで、こんな時ほど打開策が必要と思われるかも知れないが、こういう人々が必要とするのは、あくまでも金であり、名誉なのである。目立たぬ役割では、自らの価値を際立たせることもできない。
 一時名を馳せた人々の多くは、確かに、新しい試みを編み出す能力に長けていた。しかし、当時のことを思い出すと、金余りが顕著となり、投資先を血眼になって探しており、そんな中での試みには、常に資金が必要となっていた。それが当然と考える人々は、金の切れ目が縁の切れ目とばかり、より良い資金源を漁り回り、理念や心情などには無関心だった。次々に繰り出される提案は、その多くが意味を持つものだったのだろうが、主目的が別の所にあるだけに、結果が伴われることは少なかった。そんなこんなを繰り返し、無駄遣いに飽きてきた頃に、資金が底をついてしまったのだろう。悪く言えば、金をせびるだけの人に、熱意を感じる人も減り、ついには、相手をすることも無くなる。提案の宝庫と呼ばれたとしても、そこに別の目的があるのでは、世相の変化に対応することは難しい。パトロンを失ってしまえば、その力を発揮する場も見失い、結果的には舞台の袖に引っ込むしかないわけだ。別の活躍の舞台を求めて、奔走する毎日を送った人もいるだろうが、世の中全体が変わってしまったのだから、新たな道筋が容易に見つかる筈もない。ついには、皆の記憶からも消え去り、何をした人なのかも忘れ去られる。口ばかりの人で、未だに消えない人もいるけれど、あの時代から一線に留まってきた人の多くは、やはり、提案そのものの質が評価され、そこに魅力が感じられたのだろう。その逆は、取り上げる必要もないか。

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7月26日(月)−豹変

 急激な成長が続いていた時代、日出ずる国と、誤解を産んだ言葉を、誤解の方の意味で用いる人が増えた。自信の表れというより、何か別の心理が働いていたと、当時を振り返って分析する人がいるが、詳しいことは何も分からない。その後の凋落を目の当たりにして、兎に角悲観的な見方を、とする向きが増えた。
 確かに、イケイケドンドンとばかりに、邁進していた心理には、冷静な分析を蔑ろにするものがある。だから、楽観でなく悲観に、というのは、あまりにも短絡的であり、暴走する心理としては、何の変化もないから馬鹿馬鹿しい。その後、何度も危機が訪れたと聞くが、その度に、悲観派が主流となり、自らの考えに基づいた台本を、物々しく読み上げる。だが、楽観的な夢物語と、何処が違うのか分からないほど、杜撰な内容であることだけは確かで、どのみち、詳細な分析より、自らの主張が優先されたものでしかない。こんなものが世の中に流布され、それに一喜一憂する人々がいるのも不思議だが、それに従って、将来構想を練る人が出る始末には、呆れるばかりとなる。有識者とか、学者とか、そんな形で呼ばれる人々は、何かの権利を得たかの如く、居丈高な言動を繰り返す。しかし、彼らの浅学ぶりは、その論理に反映されており、朝令暮改の如くに、付け焼き刃的な変更が繰り返される。一体全体、何故このような状況が生じたのだろう。国民性として、傲慢さが表面化しやすい、という指摘があるものの、それは一部の愚者に限られており、多くの人々は、自らの立場を十分に理解している。そんな中で、混迷の時代に突入した時、現実には、愚かなる人々は糾弾する側へと豹変し、自らの責任を意識することもなかった。それまで冷静な分析を批判されていた人々が、再び別の形で批判されるのは、勝手な振る舞いの結果に過ぎない。

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