パンチの独り言

(2010年8月2日〜8月8日)
(下種、苦悶、朧気、誇示、説得、我慢、傾聴)



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8月8日(日)−傾聴

 参観日に、後で騒ぐ親たち、範を示すとは行かぬものらしい。会議の最中に、野次を飛ばし合う選ばれし者たち、こちらも反面教師と呼ぶべきか。あれほど、人の話を聞くようにと、厳しく教えられた筈が、この為体を見る限り、何の効果もなかったことが理解できる。だからといって、話を聞く必要がないのではない。
 子供たちが、勝手に騒ぎ回り、大人の言うことを聞かない時、体罰を含めて、無理矢理に押し付けることに対し、批判が強まったのは、もう随分昔のことだ。教え諭すことの重要性が、異常な程に高まった時代だが、その後の経過を見る限り、これまた効果を上げられなかった、と総括するしかない。こうなると、矢面に立たされるのは、話す側へと変じるらしい。興味を持たせる工夫やら、注目を浴びる為の工夫が、強く論じられるようになり、その重要性は尊重するものの、本末転倒の感は否めない。大元を辿れば、範を示すべき大人たちが、先頭を切って、身勝手な行動に走り、話を聞くより、話をする側に回りたがる。その場を見渡せば、誰がその任にあるかは歴然とするが、そんなことへの理解は皆無である。最大の問題は、ここにあるのだが、では、何故、こんなことが許されるようになったのか。立場の違いを理解せず、身勝手な判断を繰り返す人間が、増えたことが一番の原因だろうが、社会全体として、そんな方に走ってしまったことにも、大きな責任があるように思う。ある式典で、次々に繰り出される挨拶を、ただ漫然と中継するのではなく、それぞれに論評を加えねばと、割り込んでくる人々には、何処か別の所での責任が、心を占有している雰囲気が漂う。その場に居る人々は、じっと耳を傾けているのに、何故、放送を聴く人々は、それを妨げられねばならないのか。ただ流し続けることが、何故許されないのだろう。

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8月7日(土)−我慢

 世の中が横柄な客ばかりになったのだろうか。無理難題を押し付け、自らの欲求を満たす為に時間を費やす、そんな人々が大きな顔をし続けられる社会、といった雰囲気が漂う。驚くべきは、客をもてなす側の人間が、逆の立場に立った途端に、忌み嫌っていた行動を、何の躊躇もなくとることで、その心理は理解しがたい。
 要望と書くと、比較的柔らかな印象を持つだろうが、それを提出する人々の心には、強硬な考えしか存在しない。自ら望むものが、実現可能かどうかは別として、兎も角も、要求してみるわけだ。その結果、突きつけられた側は、一心不乱に解決策を練り、無理筋を通そうとする。多くの場合、成立するはずもないし、成立するとも思われていないものだから、何処かで限界に達し、頓挫するだけのことだ。言い出した人間も、通れば儲け、ぐらいの気持ちだったのではないだろうか。無理をするのはどちらの側か、といった見方は、今の世の中には通用しない。初めから決まっていることを、何を今更、と受け取られるだけのことである。だが、この図式がちょっと前に、大きく変わったことに気付く人は、どれ位いるのだろう。互いの状況を理解し、その可能性の中で、様々なことを論じ合う関係だった頃は、大した問題も生じなかった。この関係は一方的なのが当然という風潮が蔓延し、主従関係が明確になると、身勝手な人間共は、無軌道極まりない要求を突きつけてくる。自らがそれによって得る利益の度合を、見極めることもしないままに、要求するわけだから、価値の感覚など入る筈もない。更には、お互い様という感覚が消失した為に、状況把握も不足し、結果的に物事の軽重が計れなくなる。この手の感覚を欠いた人ばかりが、世の中を闊歩するようになっては、まともな関係を結ぶことは難しい。

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8月6日(金)−説得

 所詮、致し方のないことだ、と思わざるを得ない。これまでの蓄積から、筋道を通した考えが排除され、感情や欲望に繋がる考えが、歓迎を持って迎えられる。そんなことが度々起こると、やはり、今の時代の組織とは、その程度のものに成り下がったのだと、納得するしかない。問題は、どう変えるかにあるのだと。
 思わぬ抵抗に遭うと、何故と首を傾げたり、限界を感じたり、どちらかと言えば、こちら側に非があるような気がしてくる。しかし、冷静になって考えてみれば、そこに積み上げられた論理は、矛盾無く成立しているのに対し、非難する人々の意見には、論理の欠片もなく、その多くが感情に訴えるものであることが見える。好き嫌いは、確かに重要な心理であるが、決定事項を論じる時に、個人の嗜好を入れ込むのは、間違いを生じることが多い。判断の誤りの大部分は、冷静さを失った時に起こり、その原因の多くは、関係者の好き嫌いを基にした考え方にある。感情を露わにすることが、嫌われる原因は、それによって道を誤るからであり、感情の起伏と決定に何の関係もない人は、そんな心配をする必要はない。しかし、世の中には、そういう人々は数少なく、感情を優先させた時、視野が狭くなる人の方が、遙かに沢山存在する。自明とも思えることだが、その自覚がない人々が、迷走を繰り返した時代が長く続き、疲弊しきった社会では、正常な状態に戻す為の作業が、長く続いている。そんな中で、原点に立ち帰り、誤魔化し抜きの論理によって、議論を進めようとする気運は高まってはいるものの、現場では依然として気の迷いから生じる誤認が多発し、議論が紆余曲折を繰り返すのみとなる。今考えられる唯一の解決策は、おそらく、地道に説得を繰り返す方法であり、一人一人の感情を穏やかにすることだろう。

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8月5日(木)−誇示

 老若男女を問わず、無知を晒す人が増えてきた。老人たちは、自らの無知を、そう認識していない所に、昔との違いが現れているが、若者たちは、全く違った方を向いているようだ。何かを知らないことに、何の抵抗も覚えず、感覚が麻痺したかのように振る舞う。無知と無恥、密接な関係にあるのだろうか。
 昔、ある人物のことを知らないと言ったら、何たる恥知らず、という言葉を返してきた人がいた。一体、この人はどれ程のことを知っているのかと、逆に呆れたものだが、そんな感覚は、今どきの若者には通用しない。一部のことに矢鱈に詳しく、興味がなければ何も知らない、といった型にはまった人々には、知ると知らないの区別が、興味という尺度でつけられている。知ろうと思えば、幾らでも可能だが、そう思わないのだから、必要ないとなるわけだが、この論理、簡単そうで、実際にはそうでも無さそうだ。要不要の峻別は、誰がどのような形でやるかで、その結果が大きく異なる。一般化しようとしても、そこには原則なるものを見出せず、頓挫するのが関の山だろう。人に対して無知を断言した人物も、自らの尺度を他の連中にまで広げたのだろうが、それが正しいかどうかなぞ、判る筈もない。興味が広がる人と、狭いままの人に、どちらがより優れているのかを聞くことは、愚問としか思えないが、人に恥知らずなどと宣う人物には、全く違った感覚があるのだろう。そんな人々の問題も大きいが、彼らに教えられ育った人々が、今のような状態になったのは、何処に原因があるのだろう。要不要の区別が第一となり、それだけで世渡りが可能となったといった誤認が、世に溢れかえってからは、これが当たり前のことなのだろう。では、今の状態がまともと思う人は少なく、納得していないのは、何故なのか。

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8月4日(水)−朧気

 近くの山でさえ、霞んで見えない。春先の砂の話とは違い、何やら別の原因なのだろうが、何だろうか。一つ考えられるのは、異常に高い湿度のことで、気温が高い上に、このジメジメした感覚には、ほとほと困ってしまう。だが、本当に空気中の水分が、小さな霧のようになり、視界を妨げているのだろうか。
 世の中、兎に角理解できないことは全てが異常となる。理解力の低下を問題にする一方で、こういう話を聞くと、矛盾を感じずにはいられない。しかし、説明をする人々は、異口同音に「異常」の言葉を連ねる。更なる反論は、人間の記憶の不確かさ、という点から発せられる。目撃情報が集まり始めた時、そこに一貫性がないことに呆然とするらしいが、同じものを「見た」筈の人々が、全く違った光景を再現するのを眺めると、そこに確かさを期待すること自体に限界を感じる。始めに書いた光景も、今は印象に残っているから、どんなものかを説明することも、難しくはない。だが、数年後には、全く忘れているかも知れないのだ。人間の記憶についての研究は、中々進んでいないようだが、元々自分自身のことを研究すること自体、様々な障害があるのではないか。詳細な記憶が全てにおいて残る人々は、別の形の悩みを持つと言われるが、それが記憶力のせいなのか、また別の原因によるものなのかは、不明である。都合の良い記憶が残り、悪い記憶は抹消されると言われても、多くの人には納得がいかないだろう。常に覚えている、という状態でなくとも、何処かでふと思い出すことがあり、その度に何故と思うのは、悪い思い出に悩まされることより、通説との違いに戸惑うからだろう。一概に整理することが、本来の姿を失わせるという話は、何となく理解できる。そう思えば、暴れる記憶にも、十分に対処できるのだが。

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8月3日(火)−苦悶

 失業率を国別に比べると、この国の数字は低い方との結果が出る。その割には、国全体に漂う雰囲気は、悲惨なものであり、様々な方面から悲観的な見通しが伝えられる。確かに、国ごとの比較で低くても、このところの時間の流れに対する経緯では、確実に大きくなるばかりであり、筋書きを悲劇のものにしたくなる。
 ただ、数字はおしなべての話であり、個別の事例にそのまま当てはまるわけではない。また、失業とはどんなものか、という定義が曖昧であり、職を得ているものの、収入が低すぎて、自活できない状況にある人も多いと聞く。何処に目を向けて、何を問題とするのか、という立ち位置次第で、何とでもなるのが数値資料なのだろう。それはそれとして、卒業を間近に迎えた人々が、行くあてもなく彷徨う姿が、画面に映っている。社会情勢がこうなのだから仕方ない、という諦めの弁も、心底からそう思っているとは思えぬ程、他人事のように振る舞う姿に、相変わらずと思うのは、こちらの勝手だろうか。数字が低くなるとはいえ、依然として、かなりの割合の人々が職を得ている。その展開には、何の変化もない筈だが、世の中では悲惨なものに注目が集まるからか、そんな話題ばかりが取り上げられる。だが、画面で話をする人々の様子には、悲劇の主人公といった雰囲気はなく、ただ、何かに巻き込まれてしまい、もがき苦しむ姿だけが、見えてくる。この違いは何か、と考えるのも良いのだが、結局は、一部の人を除き、そうなることがある時点から判っていたような気がしてくる。そこでの行動も、それを裏付けるものが多く、頷くだけのことだが、本人と取材者は全く違った感覚を抱いているようだ。この乖離こそが、そこでの問題なのだ、と言ってやりたい気もあるが、それを酌み取れる力は、無いように思える。

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8月2日(月)−下種

 人間の格を問題にする人がいるが、その殆どは品格が疑われる人物だ。自らの品位を横に置き、人のことを徹底的に糾弾する。攻撃が防御であることを、納得させる行動なのだが、その杜撰さに呆然とする。多くは、天に唾するかの如く、殆ど瞬時に自らに降りかかってくる。先の読めない連中に、国を任せるのか。
 頭の足りない連中が、大きな顔を曝しながら、闊歩するのは、国全体を見渡しても、ここしかないのかも知れない。本来、国の将来を任された人々が集う筈の場は、今や甘い汁を吸おうと集まった蟻の如くに、目の前の利益にしか目が向かない。当然、それを奪われることが最大の恐怖であり、自分だけは被害を逃れようと、他人の批判を繰り返している。彼らにとって、責任とは、他人がとるものであり、自らはその範疇にはない。しかし、これは全て不利な結果に対するものであり、有利なものは諸手を挙げて歓迎するし、その責任には自らの手を挙げる。これ程下らない人間が、世の中に溢れるばかりか、ある特定の地域にまで蔓延り始めたのは、何がきっかけだったのだろう。確かに、社会全体の質の低下が、その最大の原因には違いないが、では、質の低下は何が招いたのか。その部分を説明してくれる話は、一つもないのが現実である。そんな下らないものを知ったとしても、何の役にも立たない、という解釈は当然なり立つものの、一方で、理由くらいは知っておきたいとしても、何の無駄もないのではないか。何をしても大した効果をもたない、というのは、今の安定した世の中の、特徴なのではないかと思うが、これがこういう混乱を招いたと説いたら、どんな反論が返ってくるだろう。一人くらい悪いことをしても、大勢には影響ないとか、皆でやれば怖くないとか、それだけのことなのだが。

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