恨みが消えることはない、との主張が、この季節には屡々聞かれる。当然、被害者であった人々の声だが、加害者と見なされる人々には、その感覚は理解できないものだろう。人を恨むことに関して、色々な考え方があるものの、そういう心の動きを妨げることは難しい。一度根付いてしまうと、取り除くことは困難だ。
大事なことを忘れない為に、こういった心情が重要となる、という意見もよく聞くけれど、果たしてどうなのか、すぐには判断できない。ただ、そういう段階を通して、物事を整理した上で考えることが、分析には必要不可欠だから、という意見には、賛成するしかないだろう。ただ、それがいつまでもしこりとして残り、何をするにも障害となってしまうようだと、それが必要かどうか、簡単に結論づけることは難しいだろう。被害者の心情が、たとえ理解できたとしても、それがどんな手立てに対しても消えることが無く、そのままの状態で残ってしまうことには、当人以外には理解できない部分がある。それぞれに、同じ出来事に違う立場から接して、それによって、心の中に何かが芽生えることは、容易に理解できるものの、それが消え去ることなく、固着してしまうことに対しては、理解を進められない。許すという一言に対しても、過敏な程の反応を示し、それ自体を忌み嫌うことになるのは、本人たちにとっては、ごく当然の成り行きに違いない。だが、その一方で、忘れること、あるいは、許すことの大切さを、考えてみる必要はないのだろうか。風化を恐れるあまり、その中に自分の姿を重ね合わせ、そこから抜け出せなくなった人たちは、必ずしも不幸とは限らない。だが、彼らと関わる人々の一部は、何かしら見えない力に振り回されるという意味で、不幸な部分があると言うべきなのではないか。
議論の場に、利害に無関係な人を入れることが、強く求められるようになった。内部の人間だけで固めるのは論外として、外部から人を招いても、そこに利害関係がある場合には、無意味と受け取られるようだ。何を考えるにしても、利益と損害を考慮に入れれば、簡単に結論を導くことができると言われている。
その一方で、利害は一部の面しか考慮に入れられず、それを追求することによって、却って大局を見失うとも言われている。ごく単純なことを除けば、利害は表裏一体のことであり、一方から見れば利益に思えても、反対から眺めると全く逆の損害を生じることが、よくあるからだろう。だから、議論の場でその見方に固執し、展開を見誤ることは、屡々起こる。そんな経験に基づき、そういう関係にない人間の、中立的な判断を歓迎する風潮が高まったのだろう。しかし、ここで大きな問題が生じる。直接的な関係はないにしても、何処かで繋がる関係が、何処の誰にでも存在するから、そこに利害が全く生じないとは言いにくいのだ。その場では、全く無関係に見えたとしても、将来にわたって、そのままの状態が続くとは限らない。要するに、利害に無関係な人間は居ないと言うべきなのではないか。そう考えてしまうと、今の流行にも大きな弱点が存在することになる。確かに、後々、そういった問題が露呈し、一部の思惑が反映されたことに気付いた時、この手法の欠点が表面化する。思惑に導かれる人間を登用する限り、この問題を解決することは不可能に違いなく、結局のところ、利害関係の有無より、別の感覚を選択の要因とすべきことが見えてくる。そんな人間は存在しないと言う人もいるけれど、果たしてそうか。知らぬままに、勝手な思い込みで動く人間が余りに多いのではないだろうか。
著作物に対価はあるのか。原稿料という形で、一時で片付ける手もあるが、出版物であれば、その売り上げに従ってという考え方もあり、こちらは印税なるものとなる。金銭で全てを計るのは、と思うところもあるが、世の中全てがそれを指標にするのだからと、抵抗する術はない。その意味で、著作権とは何か。
権利と付くのだから、単純に権利を手に入れるかどうか、というだけと思う人もいるだろう。だから、その文章を作り上げた人には、それに見合う権利があるとなる。しかし、権利とは何か、と問われると答えるのは難しい。形がありそうに見えて、実際にはないのだから仕方ないわけだ。そこで、逆の考え方を採り入れてみる。つまり、この権利が侵害されるとは、どういうことなのか。複写物が出回れば、その著作が購入される可能性はなくなる。特に、その価値の比較からすれば、ある時期を境に、複写の価格の低下により、問題が一気に膨らんだ。それが、そのものを手に入れる為の経費が、殆どかからないという時代に突入し、深刻の度合いは増すばかりとなる。創作の意義は失われ、対価という感覚をも失われる。経済の感覚からすれば、別の仕組みの導入と問題の本質がすり替えられるわけだが、答えが出ていないものに、誰も手を出すことはできない。こんな状況が、今始まったかの如く、問題と取り上げる向きもあるのだが、首を傾げたくなる部分もある。それは公的機関が、本来は別の理由から供給を始めた筈の、本を貸し出す仕組みの問題だ。貧困層にも機会を、という考えと、もう一つは、著作物という公的財産の維持、という考えが、合わさったものではないかと思うが、今では、複数の人気本を揃えることが役割となり、廉価な本にまで、手が及ぶようになる。はて、これは、侵害には当たらぬものか。
世の中が豊かになるに連れ、人それぞれの選択の幅も、豊かになってきたようだ。ずっと昔ならば、親の家業を継ぐことが当然であり、それ以外の道は閉ざされていた。それが、少し後になると、親への反発も手伝い、別の道を歩むのが当然とされた。更に近くなると、どちらも可能性の中に入るようになった。
贅沢と一言で片付けるのはどうかと思うが、こういう状況では選択肢が増え、選ぶのに四苦八苦する人も増えてくる。大した能力も身に付いていない時期に、自分の将来を決める選択を迫られるのは、辛いものとの同情もあるようだが、果たしてどうだろうか。その一方で、ここでの決断はほんの一時的なものに過ぎず、いつでも出直しがきくとの意見が出ることもある。こちらの無責任さはかなりのものと思うが、その割に、こういう忠告をする人々は、大真面目でこれを当然と見なしているようだ。選ぶことの難しさは、どれが最良かとする悩みから来るものだろう。確かに、この場の決断が決定的なものでなく、やり直しがきくとすれば、気が楽になるには違いないが、物事を真剣に捉える立場から見れば、とんでもない暴挙としか言えないだろう。ただ、欲望に駆られた人間にとって、迷うことは当然の成り行きであり、あれもこれもと、二兎も三兎も追うこととなる。それを全てこなせる程の人間ならいざ知らず、多くの人々はそれ程の能力を持ち合わせず、結果的には大したことにならない。ここで大事なことと思えるのは、選ぶことより諦めることであり、多数あるものの中から、如何に一つを残す為に、他を諦めるか、ということではないか。芸術家の多くが、好きな道を選び、それを歩み続けたことに、羨望の眼差しを送る人々が居るが、現実には、逆に他を諦めることで、その道だけが残る場合も多い。結果は同じでも、経過が違うわけだ。
世の中には色々な権利が存在する。何もしなくとも、必ず擁護される権利もあれば、何かをしたからこそ、保障される権利もある。ただ、こんなことが常に強調されるのは、様々な権利の侵害が日常的に起きており、深刻の度合いが増すばかりだからだろう。特に、経済活動に繋がるものにとって、重要なようだ。
全ての人々に保障される権利については、その主張より、擁護が優先される。しかし、何かしら特別なことを行うことで手に入った権利については、それを主張し続けることが重要であり、その為の仕組みが確立されている。だが、これで万全とは言えず、依然として、次々と問題が起きており、社会構造の変化により、制度自体の変更も余儀なくされる。特許はその代表格だが、国ごとに微妙な違いを持ち、扱いが異なる場合があった。その問題を解決する為に、三極制度が導入され、徐々に差を小さくする工夫がなされている。元々、生産や販売と直接繋がる制度だけに、適用範囲を限定することが容易であり、たとえ違いが生じても、その範囲内での対応によって、ある程度の調整が可能であり、問題それ自体はさほど深刻には捉えられなかった。それに対して、著作権という代物は、事情が大きく異なる経過を辿り始めている。製品という意味に限定すれば、その販売地域を特定することができるから、問題の拡大を止めることは難しくないが、内容物という、形を持たない実体に対し、その使用の制限を加えるという形の、権利保障については、制度自体の確立は難しくないものの、それを徹底することの困難が、大きく立ちはだかっている。それを情報として扱えば、形は無限に変化しうるし、組合せなどによる編集も可能である。世界中に広がる問題に対し、様々な指摘がなされているが、解決の糸口さえ見つかっていないようだ。
技術の向上が、社会の仕組みを大きく変え、機会が広がったことを喜ぶ人も多い。以前なら、仲間内でしか話題を共有できず、他人に聞いて欲しいという望みは、叶えられることはなかったが、今では、不特定とは言え、誰かが何処かで見てくれるかも、という可能性は常に存在する。実態はどうあれ、望みはある。
この状況の変化にいち早く対応して、誰でも気軽に書き込める場を提供する商売が、一気に盛り上がった。一時程ではないにしろ、依然として、毎日書き込まれる量は膨大であり、提供という意味では成功した事業と言えよう。しかし、各人が望んだ筈の、他人の目に触れる機会は、本当にできたのだろうか。この仕組みと繋がる形で、内容に含まれる語句を検索する仕組みも整備され、環境は整ったように見えるが、現実には、本人以外の誰の目にも触れず、いつの間にか開店休業となる場も少なくない。と言うより、おそらくは、殆ど全ての場所が、ほんの一握りの目にしか触れず、当初の目論見は叶えられていないと言うべきだろう。こんな状態で、あらゆる人に発言の機会が得られたと、的外れな分析を施す人の知性には、疑いを挟みたくなるが、もう一つ重要なことは、こんな機会を提供したとしても、各人の文章による表現力は、殆ど高まることが無く、ただ思い込みに満ちた駄文を並べるだけに、終わっていることではないか。機会さえ与えれば、人間というものはそれなりの努力を繰り返し、精進するという信じ込みは、この時点では完全に裏切られたとしか思えない。感情を露わにする行動は、より極端に走るようになり、人に読ませる為に必要不可欠となる、抑えた形での表現は、影も形もない。選ばれし者たちだけの世界に、選外の人々が入り込んでも、大きな波は起きなかったというだけなのだ。
昔、海外の音楽を紹介する番組で、英語を巧みに操る司会者に、賞賛の声が上がっていた。当時、数少ない熟達者の多くは、通訳として活躍するだけで、こんな職場に珍しかったからだ。しかし、賞賛の一方、中身のない会話を揶揄する声も大きく、上辺だけの繕いを批判する声も根強いようだった。
歌手と呼ばれるより、芸術家と呼ばれる方をとる人種にとって、話の内容は重要となる。そこから、中身の有無が問題視されたのだが、当時はその話術の巧みさだけに、耳を奪われる人が多かった。徐々にその数を増した人々は、同じ業界にも姿を現し、首都圏で人気を博したFM番組の司会者は、毎朝海外の人に電話で話を聞く企画を放送し、その機転の利いた内容が高く評価された。いよいよ、そんな時代の到来かと思わせたが、結局は一部の業界に限られ、国全体には広がらなかった。先日この話題が夕刊に掲載され、書き手は英語での情報交換の重要性を主張していたが、その的外れぶりに、呆れるばかりとなった。曰く、国際的な活躍に英語は不可欠であり、その習得を第一とすべきとある。そこで批判の的とされたのは、教育の現場でのこの国の母語の重視であり、それが如何に時代錯誤か、という形で現場の人間の非常識を憂えていた。問題の一つは、彼が発音が正確で、などという上辺に着目した点にあり、技術的なことに目を奪われる人間の欠陥が露出している。もう一つは、批判の的外れぶりであり、所詮道具に過ぎない言語の習得に、心が奪われた為に、他人も同様の考えで主張すると、勝手な誤解をしたことにある。現場で母語を重視する動きには、一つだけでも確実な言語を、という考えもあるが、本質的には、思考をどの言語で行うか、という大問題があるのだ。その本質を見極めず、表面だけで批判する人間が、まだ大きな顔をしていることに、呆れたのだ。