パンチの独り言

(2010年8月16日〜8月22日)
(多異、処理、拒絶、注目、死因、無用、喚起)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



8月22日(日)−喚起

 何故、と思うことは沢山ある。中でも、一番に数えられそうなのは、何故、何故と思わぬのか、ということだ。疑問の抱き方は種々あるけれども、そんなことを思うことなく、ただ漫然と行為をする人たちに、大いなる疑問を抱くのだ。時に、迫る危険を感じることもなく、無謀な行為を続ける人には、特に。
 こんな書き方をすると、異常な行為に対する警鐘と思われるかも知れないが、実際には、日常的で平凡な行為に関することの方が多い。例えば、老人の交通事故死が減らないことは、機会ある毎に訴えられるが、これ程長い間続くというのは、まず確実にその声が届いていないからだろう。何故届かないのか、と考えたくなるのだが、現実には、届いているけれども自分のことと捉えられていない、という点に問題がある。齢を重ねるに従い、様々な機能の低下が目立つようになるが、中で注目したいのは、判断力という能力である。運動能力の低下を意識することはあっても、自分の行動について、それが直接反映するとは思わない。こんな矛盾は、通常の判断力からすれば、考えられないことだが、現実社会では、こんなことが多々起きている。信号や横断歩道のない交差点の横断、交通量の激しいところでの、無理な道路横断、こんなことが日常的に起きていることは、様々なところから伝えられる。だが、無謀な行動をする人々は、自らの行動をそう捉えていない。だから、彼らにどんな警告をしたとしても、無意味に終わるだけなのだ。初めの判断自体が、狂っているのだから。同じように、猛暑の中で倒れる老人の数が、毎日のように伝えられるが、多くの同年齢の人々は、何も感じることなく、聞き流しているのだろう。でなければ、こんなことは続かない。日常的に、危険を感じることなく、危機を回避する手段も持たない人が、突入するわけだ。

* * * * * * * *

8月21日(土)−無用

 社会通念の通じない連中に、法律の話をしても、仕方ないのではないか。ただ、ここで二つの正反対の対応が起き、それが如何に下らない結果を産むかが、問題となる。通じないのだから、特別扱いにせよ、という論理と、同じ理由で、社会から抹殺せよ、というものである。どちらも、悪い結末しか生じない。
 核家族という言葉が登場して、家族の単位の最小化が進んだ。ところが、その結果は一部では、家族そのものの崩壊に繋がったようだ。つまり、肉親によって構成される単位が、ある人々にとっては、まったく無意味なものであり、個人という更に小さな単位にまで、細分化されてしまったわけだ。そうなれば、人と人の繋がりは皆無となり、その集まりで形成される社会も、存在しないこととされる。こういう人間にとって、自と他の区別などはなく、世の中は全て「自」によるものとなる。興味深いのは、社会の仕組みであり、どんな類の人間でも、同じように扱う原則から、当人の理解とは全く違うところで、様々な判断が下されることだろう。社会保障制度も、その一つと考えられ、施しがなされたとしても、拒絶するようなことがないのは、自しか知らない彼らの論理構造が、如何に杜撰なものかということを示している。役に立つかどうかを唯一の判断基準とする人々も、こういう時代の変遷と共に、急激にその数を増しているようだが、その辺りから、抹殺という極端な考えが出てくるのではないか。無視することも、抹殺することも、社会という構造からすれば、自己崩壊に繋がるとして、選んではならない手段に違いないが、最近は、そんなところにまで、考えが及ばぬ人が増えたようだ。役立たずは消滅を願うのみ、という立場ならば、自らをどう位置づけるのか、改めて、問い質してみたいところではある。

* * * * * * * *

8月20日(金)−死因

 寿命が尽きる時、そこに原因を求めるものだろうか。死因とはどんなものか、人それぞれに考えがあるだろうが、直接の原因とすることで、何となく釈然としないこととなる。死期を早めた原因は、おそらく他にある筈なのに、最終的に死に至らしめたのは、これこそが原因とされると、おやと思えてしまうのだ。
 以前ならば、老衰という形で、寿命が尽きたと受け取られていたものが、それぞれに異なる死因があるとされ、最終的に心臓が鼓動を止めるのは、当然のことだからと、心不全は外されることとなった。だからといって、困り果てた末の提案でもあるまいに、多臓器不全とは、何を指し示すものなのか。これこそ、老衰という言葉のなれの果ての感覚があるが、どうだろう。その一方で、猛暑となれば、高齢者の死亡もそこに原因を求めることとなる。熱中症なる言葉が、いつの頃か発明され、この季節に頻繁に使われるようになると、重症の場合に、死に至ることが知られることとなった。すると、気温の上昇が毎日のように繰り返されると、その症状に陥る人の数が、急激に増加することとなる。その結果、回復することなく、死に至る人の数も目立つようになるが、これらの人の多くは、ある意味、寿命が尽きたと言えないだろうか。確かに、元気に歩き回り、仕事をこなしていた高齢者も、多くいたのだろうけれども、自分の家で、人知れず死んでしまった人は、まさに、そこで寿命を迎えたような気がしてくる。温度などの管理が行き届いた病院でさえ、この季節には死を迎える人の数が増える。どんなに調節していても、外部から遮断されているわけでもなく、様々な影響を受けるとも考えられるから、厳しい気候はそんなところにも影響するのではないか。入院患者には、熱中症は適用されないようだが。

* * * * * * * *

8月19日(木)−注目

 膨大な赤字を抱え、再建不能に陥ったと伝えられた地方都市は、その後、どんな状況にあるのか。あれほど興味を抱かれた筈が、とんと、その噂さえ聞こえなくなったのは何故か、不思議に思える。一方、観光客の獲得に成功し、大いに注目を集めている地方都市は、依然として大きく取り上げられているようだ。
 問題の軽重ではなく、何かしらの話題性の大小が、その注目度に影響するのは、情報社会が抱える大きな問題だろう。前例に学ぶものは大きい、と実態調査の結果に首を突っ込むのも、実際のところは、興味本位によるものであり、そこから学び、将来に備えるなどという気持ちは微塵もない。こんな社会では、批判が重要な手段となり、そこでの攻守のどちらになるかが、決定的な要因となる。勝てば官軍とはよく言ったもので、ここでも攻める側に居座ることが、最重要課題となり、隆盛を誇るものなら、そこにいるか、その原因を分析する側に立つことが重要であり、凋落を余儀なくされるものなら、常に批判的な意見を出す側にいなければならない。しかし、経済的な基盤が揺らいだ時代を通して、自分が何処にいるのかがはっきりせず、どんな状況にあるのかさえ、見極めにくくなってくると、確固たる地位を築くことも、確実な立場に居座ることも、困難を極めるようになった。地方都市の人気の波も、現実には、情報に依存する部分が大きく、乗るか乗れないかが、全てを決めるとなれば、どんな振る舞いが重要かが見えてくる。ただ、不確定な要素が山積する中では、一時の注目が得られても、それを継続する手立てが見つからず、忘れ去られることとなる。人気商売が、こんなところにまで及ぶとなれば、安定的な施策は望めず、自己満足に走るぐらいしか、思いつかないだろう。だが、自分が満足しないものに、他の興味は集まらない。

* * * * * * * *

8月18日(水)−拒絶

 安定した時代に生きてきた人にとって、最も恐ろしいことは予想できないことだろう。では、そんなことは何を発端に起きるかと言えば、その多くは新たな試みがきっかけとなる。だから、と言うのは言い過ぎとしても、あらゆる試みに対して、悉く反対を唱える人々は、そんなぬるま湯に浸かり続けたいのだろう。
 もう一つ、この手の人々の常となるのは、同じことを繰り返すだけで、別の案を思いつくことができないことだろう。面白いのは、この連中の中で真の成功を収めた人間は、その範疇に押し込まれず、次々と新提案を繰り出し、周囲を混乱に陥れることだ。実際には、混乱に始まったとしても、最終的には新たな高みに達するわけで、全体としては功を奏したとなる。それに対して、反対を唱え続ける人々は、あれこれと難癖をつけながら、結局のところ、何の提案も思いつかず、一カ所に留まることを良しとするわけだ。本来ならば、役立たずの人間は排除されるか、自ら立ち去るものだが、この辺りの世代には、そんな潔さは存在しない。常に文句を並べ立て、五月蠅いことを信条とし、そこに存在感を見出すから、役に立たないばかりか、邪魔になるだけという場合さえ起こる。最近も、新たなメディアに対して警鐘を鳴らしていると、思い込んでいるだけの論調が、何処かに載せられていたが、結果として、これらの論理が尊重されないのは、そこに確固たる理由が示されないからだろう。新しいものは何でも反対、という主張で、賛同者を得ることは難しい。何故、それに問題があるのかを明確に示し、その解決の困難さを説かない限り、導入の勢いを止めることはできない。同じ活字であっても、画面表示と印刷では何が違うのか、彼らが示すことはない。結局、心理的なものばかりが並ぶようでは、喚き散らす子供と変わらぬだけなのだ。

* * * * * * * *

8月17日(火)−処理

 法律は厳格に遵守されるべき、という話に賛成しない人は少ないだろう。しかし、その現場の状況を見ると、守ることとは別に、何か不思議な行動が起きていることも多い。一人の身勝手な行動が、多くの人々に悪影響を及ぼすことを、何らかの形で抑制する為に決められた筈の定めが、別の形の影響を広げる。
 これだけ車の数が増えてしまうと、その運転も日常的となり、自分なりの規則が頭の中だけで、動くこととなる。それが法規と同じであれば、何の問題も生じないけれども、多くの人の中では、身勝手な論理が展開され、そこから生じた規則は、時に他人を巻き込んだ混乱を起こす。交通事故は、その多くが何らかの違反行為から生じたものであり、それを明らかにすることは原因究明に必要不可欠であろう。だが、その為の手法に、些か問題があると思える場面に、時に出くわすことがある。最近は高速道路の渋滞の原因として、速度変動の問題が取り上げられるが、何の障害もなしに生じる渋滞は、その殆どがこれを原因とするようだ。その一方で、渋滞の多くは、事故を発端としたものであり、多重衝突などはその処理も含めて、かなり大規模な渋滞へと繋がる。多数の車の処理に手間取ることが、その問題となるとことだが、その準備段階での障害も、大きな要因となっているようだ。現場に駆けつけた警察関係者は、事故の原因を明らかにする為に、事情聴取やその他の作業を行う。これ自体が間違っているとは思わぬが、その間に後続にできる長蛇の列を、放置する姿勢には首を傾げざるを得ない。昔はやったテレビドラマに、海の向こうの高速道路警備隊の話があったが、そこでの事故処理は、現場保存とは別に、後続の車の整理が取り上げられていた。こちら側ではそんな処理が行われることはないが、車線規制でも交互通行を指示するだけで、結果が違ってくるように思える。

* * * * * * * *

8月16日(月)−多異

 この星の上に、色々な生き物が棲んでいる事が、重要であるとの主張は、様々な所で聞かれるようになった。しかし、それが何故必要なのか、という問いに、的確な答えを与えてくれる事は、まずないだろう。お題目のように唱える事が多いだけで、何故、という問いには答えられない。どういう訳なのだろう。
 多様性という言葉には、色々な意味が込められ、そこには沢山の種類の生き物というだけでなく、自分たちの中にも、様々なものがいると話も含まれる。これらの多様性を排除する事は、自らの存在を否定する事につながる訳だから、誰もそんな方向への議論を好みはしない。しかし、その一方で、様々な制限を加え、一様とも思える仕組みの中に、全体を放り込もうとする動きはある。ある制度の中に閉じ込め、治安を維持しようとする仕組みも、ごく当然のものと受け取られるが、その一方で、様々な違いを無視するものとなる事がある。ここに矛盾を感じるかどうかは、個人によって大きく異なるだろうが、特異な存在と自らを認める人間には、受け容れ難いものがあるのではないだろうか。個と集団のせめぎ合いにおいて、どちらを優先させるかは常に大きな問題となる。だが、元々の多様性の議論からすれば、優先すべきは明白であり、今更話題にするまでもない。となると、何処をどうしたら良いのか、あちらを立てれば、こちらが立たず、はてさて、という事になる。そんな状況で、他のものに対しては、大いに議論の高まりがあり、注目が集まっているのだろうが、自らに対して、どうすべきなのか。その答えを出す事は容易ではないだろう。いずれにしても、これとあれとは違う話、とするのが、安易に過ぎないが、最も適切な論理となるのだろうか。

(since 2002/4/3)