止める、変更する、課金する、どんな言葉が並べられても、利用者はそれに従うしかない。場の提供という形で、社会に対して行われた奉仕が、まことしやかな理由をつけて、終了してしまうのは、利用者として憤りを感じずにはいられないが、だからといって、何かしらの対抗策があるわけでもない。
単純に、他の場を求めて彷徨うだけのことだ。ただ、ネット社会は、そういった逃げ場が依然として多くあるから、何とか避難場所を見つけることもできる。ひょっとすると、そういったものがより良い場を見出す良い機会になるのかもしれない。しかし、同じような措置が施された時に、そんなこともできずに、文字通り泣き寝入りするしかない場合もある。以前から、不思議な公告としか思えない、一方的な通告がなされてきたが、いよいよ、その実施までに一年を切った、放送方式の大変更は、補助金の導入による後押しもあり、事業者側の当初の不安は、杞憂に終わろうとしている。しかし、それでも、可能な部分のみが決断に踏み切っただけで、無い袖は振れぬと思う人々は、依然として旧式なままに放置された状態にあり、新方式の受信機の無料配付など、新たな対策が講じられつつある。がしかし、そんなことでは解決は望めぬとする向きは、更なる攻勢をかけているようで、この事業の公告で何度も繰り返された、独特の「煽り」を始めた。ぎりぎりまで待つのは危険だとか、相談さえすれば、要望に応えられるとか、恐怖を煽ったり、希望を持たせたり、そんなことの繰り返しが目立ち始め、無理難題を再認識させるような、そんな雰囲気が醸し出されている。関係者たちは、親切とか、責任とか、そんな気になっているのだろうが、如何せん、言葉の使い方や態度に、配慮が欠けている。そんな連中だからこその騒動なのだろうが。
勝手なことを書き込む場所として、ブログというものが存在する。多くのところは、情報交換ではなく、一方的な掲示に過ぎず、反応を期待していない。一部の有名人によるものだけが、注目を浴びているようだが、ちょっとしたきっかけで閉鎖に至ることもある。情報交換にこれ程の意味があるとも思えない。
ブログの多くは無料であり、書き込みをする以外には、大した手間も掛からない。コメントと称して貼りつけられた、意味不明の広告を削除するかどうかくらいが、管理と呼べる作業かも知れない。そういう気楽さもあり、一方的な発言を喜ぶ体質もあるからか、一気に広がり、無数のサイトが公開されている。それに対して、ごく普通のホームページと呼ばれるものは、あるサーバーの一部を借り、そこに自分なりの空間を設営する。ここでは、一方的な情報発信だけでなく、古くからある掲示板のように、意見交換をする場が設けられることが多い。こういう類の場所も、管理費としてある対価を要求するところと、全く要求しないところがあり、それぞれに特徴を持つ。ただ、何かしらの経費が必要となる場合を考えると、全くの無料で運営することは難しく、この独り言が貼られたところのように、上下端に広告を貼りつける場合が多い。その収入である程度の経費を、という目論見なのだろうが、このご時世には無理があるようだ。そんな背景から、この場を無料で貸し出してくれているところは、遂にその制度を廃止することとなった。ひとこと伝言板で知らせたように、10月の末には消えて無くなる。初めに立ち上げた管理者から引き継いだサイトだが、その後も工夫をした上で継続してきた。ここで消滅させるのも面白くないので、別の場を探すわけだが、何処か良いところがあったら、教えて欲しい。但し、ブログではなく。
猫かわいがりとは、ある意味批判的な言い回しだろうが、そのままに、愛玩動物を飼い、我が子以上の扱いをする人が居るという。小動物は寿命が短く、多くの場合は、飼っているうちに死を迎えるが、それを我が事のように悲しみ、心の穴を塞ぐのに苦労する。他人から見れば、不思議な行動だが、本人はごく真面目なものだ。
それにしても、動物を可愛がる人々が急増する一方で、肝心の人間さえ、まともな扱いをできない人が増えている。動物を我が子以上に、という人の一部には、言うことを聞かない子供より、従順に見える犬猫の方が、ずっと気楽でいられる、というのをその理由としているようだが、果たしてどうだろう。思い通りにならないという点では、動物も幼児も同じように見えるが、許せるかどうかに大きな違いがあると聞く。そんな心理は、本人以外には理解しがたいものだろうし、理解したとしても、許容範囲を超えてしまえば、無意味となる。愛玩動物に墓を作り、埋葬する人が居る一方で、我が子を放置し、死なせる人が居る。また、親でさえ、厳しい扱いに呆れ果て、家を出る人が居るらしく、そのまま死を迎えても、埋葬さえされないという話もある。一体全体、世の中はどうなっているのか、と思うことは屡々あるが、実際には、似た事例は昔から幾つもあったのではないか。それが、集落の中、村の中での話題に留まり、外に出ることもなく、忘れ去られていたとか、あるいは、隣近所に関心を持たず、没交渉を貫くような時代と異なり、それらの目を気にせざるを得ず、結果的に、自らの暴走に歯止めをかけざるを得なかった、ということもあっただろう。自分の中だけで暮らすことが、一番楽であるという主張を聞いた時、社会性の欠如に呆れ果てたものだが、今やそれが当然となりつつある。その中で、毎日伝えられる事件は、当然の帰結に過ぎないのだろう。
多くの人は、遅くとも今世紀に入った頃には、郵便や電報とは違う仕組みの、文書の伝達方法を使うようになっただろう。維持費以外には費用を必要としないことや、電話と同程度の時間で連絡が付くことなどから、利用者の数は急増し、特にこの国では、携帯電話との関わりがその速度に大きく影響した。
これ程多くの人々が、何処かで繋がっていることが確かになると、それに便乗した商売を始める連中が、押し寄せてくる。見ず知らずの相手から、通信を受け取ることは、名簿販売が問題視された頃から、随分多くなったものの、それでも経費を伴う形では、自ずと限界があったものだ。ところが、電話料金の制度の改定から、不審な電話が急増したのと同様に、こちらの仕組みを介した勧誘は、経費の問題だけでなく、手間が軽減したことから、一気に爆発的に増えることとなった。その後、様々な防止策が講じられ、随分その数は減ったものの、組織的に篩がかけられるものと違い、個人で管理するところでは、メールソフトによる篩しか頼れるものが無く、依然として、ゴミが山のように降ってくるところがあるようだ。一方、こういうろくでもないことを生業とする人々の中にも、旧態依然としたことを続けるだけでなく、新たな工夫を重ねる輩もおり、篩の目を擦り抜ける為の仕掛けを考え出そうと躍起になっているようだ。最近も、無料メールに次々に届いたものの中に、ある人物たちの死亡を伝えるかの如くの件名を施したものが多数見られ、おそらく、最新の情報を伝えるふりをして、擦り抜けようとしたように思える。多くの人が、同じ仕組みを使えば、犯罪者たちも同じものを欺く工夫ができるわけで、こういう時代特有の問題とも言える。人間の弱さは、恐怖と野次馬根性に表れ、それに便乗する詐欺師が暗躍すると言えそうだ。
この国には、様々な独特の制度がある。中でも、家族構成を明記した書類は、個人よりも家族を重視するもので、諸外国ではあまり見かけないものとして、注目されてきた。今の制度は、維新の後に導入されたものだが、その原型は、各地の寺院で管理された帳簿にあると言われている。
宗教との絡み、という意味では、他の国にも、同じような記録が残されているが、家族を単位としたわけでなく、ある儀式を受けた個人の記録、という点が大きな違いとなる。どちらがより優れているか、という議論は無意味だろうし、ある人間が生存していた証拠として、使われるという意味では、優劣をつける必要もない。ただ、人と人との繋がりを見極める為には、家族単位での記録は有用となるのだろう。そんな価値を重んじ、近代に入っても、使われ続けてきた帳簿が、このところ、惨憺たる状況にあることが明らかとなってきた。寺の檀家という形で、ある程度密な結びつきがある場合には、その記録の信頼性は保たれるのだろうが、役所という、何の関係も結べないところが、管理をすることとなり、質が低下したとしても不思議はない。それでも、各人の責任感と社会の秩序といった考えから、それなりの水準は保たれてきたはずが、既に、何十年も前から、杜撰な状況が続いていたことが、明らかになりつつある。この国とて例外ではなかった、と思う人もいるだろうが、まさにそんな感覚であり、文書による記録にも、様々な誤りが起きることが判明した。これらの多くは、遺族の報告義務の不履行、というところから始まっているのだろうが、もう一つの大きな原因は、管理担当者の怠慢から来ている。機械的な処理さえ怠り、転記の誤り、不十分な点検など、様々な要因が重なったとしか考えられないが、そんな昔のこととなれば、調べようのない話である。勤勉、真面目、几帳面、こんな言葉も、死語となりつつあるのだろうか。
評価の重要性が取り沙汰され始めたのは、いつ頃だったろうか。基準を設け、それに従って結果を出すと、次の段階を迎える。そんな図式だったはずが、何処かが抜け落ち、何処かに目論見が持ち込まれ、いつの間にか、名ばかりのものと成り下がった。今でも、必要性を強く訴える人がいるが、相手にされないようだ。
この辺りの成り行きを眺めていて、面白いと思えるのは、さて、評価がなされていないと言われた時代には、どんなことが行われていたのか、ということだ。評価を下すまでもなく、更なる成長を目指した時代には、上積みだけが考えられていたから、不安定な状況では、早晩崩れてしまうこととなる。そんな中では、一々、目標が達成されたかとか、計画は万全か、などと検討する必要はなく、すぐにその辺の綻びが目立ち初め、修繕が必要となった。こんな時代に評価などと、後ろ向きな話をすれば、無駄の一言で片付けられるのが精々であり、時間の使い方を批判されるだけだった。ところが、成長が止まり始めた頃から、急に評価の考え方に注目が集まり、不慣れなことを始める結果となった。その後の経過は、少し振り返ってみれば分かるが、まさに無駄の積み重ねとなり、それによる成果は得られず、混乱の嵐が吹き荒れただけとなった。依然として、その重要性を訴える人々がいるが、そこに確固たる目的は見出せず、単に、繰り言を並べるのみという状態では、顧みる人も出てこない。本来、十分な準備のもと、基準の設定を万全に施してこそ、これらの作業の意味が出てくる。ところが、始まりの時点から、付け焼き刃的なものばかりが頻出し、無意味な作業が並んだ結果、出てきた数字にはなんの重さもないこととなった。未だに、同じことを繰り返そうとする人々の頭の中は、おそらく空っぽなのだろう。
補助金が巷に溢れているようだ。様々な思惑が入り乱れ、混乱を来すものまで現れているが、元々の目的は明確に示されている。ただ、それが妥当なものか、更には、財源を設けてまで実施する意味があるのか、その辺りの議論は十分とは言えないらしい。即効性ばかりが話題となり、長い目での判断は殆ど無い。
それでも、貰えるものなら有り難い、という考えが第一となり、関係者たちは歓迎の意向を示す。自らの行動が、将来にどのような影響を及ぼすかは、考慮に入れられることはなく、即効性が第一とは、こんなところにまで現れているように見える。だが、経済効果を狙ったものは、その期間が終了した途端に、正反対の効果が現れ、それ以外の効果を目指したものについても、特定期間のみの効果に終わり、それ以降にまで続くものは殆ど無い。そんなものでも、注目を集める為の効果は絶大で、更なる補助を強請る声ばかりが大きくなる。そんな事態に陥ると、何も考えない民衆に対し、苦言を呈する人々が出てくるが、果たして、こんな愚策を思いつく人たちに、賛辞を送る必要があるのだろうか。特効薬などと呼ばれる手法は、推進力を高める為のものであれば、歓迎すべきものとなるが、上に書いたような、逆効果を残すものであれば、考え直した方が良さそうだ。例えば、売買における補助金の場合は、全体として収支の均衡が取られやすいが、止めることに対する補助金では、それを取り戻す手立てはない。農作物で、特にこの国では、ある特定のものに、そんな制度が長年設けられているが、手を替え品を替えの状態では、収支に着目したものは出ることもなく、ただ、漫然とばらまきが続けられる。様々な考えが出されたとしても、実現することがないという状況は、何が原因となっているのだろうか。