パンチの独り言

(2010年8月30日〜9月5日)
(誘導、盲進、虐待、理文、迷走、発信、優良)



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9月5日(日)−優良

 他人の行動に腹を立てたり、自らの伎倆を自慢してはいけないという。傲りや怒りが、冷静な判断力を失わせ、事故を招くからという理由らしい。だが、と思うことも度々ある。免許制度により、ある程度の判断力と適性がありさえすれば、全ての人々が実行できるわけだが、巷には首を傾げたくなる人が居る。
 確かに、全てが自分中心で回っていると思い込む人は、秩序を保つことが必要な場合に、障害となることが多い。しかし、その意識より、秩序を乱すはずがないという思い込みの方が、遙かに大きな問題を生じているように思う。譲り合いという言葉は、既に忘れ去られかけているようだが、運転という行動には、大きな影響を与えるものの一つだろう。誰も通らない、無限に広がる道を行くのならいざ知らず、交通量の多い、さほど広くない道路で、脅威となるのは、そんな人間が動かす車だ。交通法規を遵守するという、彼らの主張は主に速度に関するものだけであり、全体の流れを無視した運転は、肝心の速度だけでなく、車線変更、右左折にも、その特徴を表す。だが、彼らの頭の中では、何の問題もない、優良運転者がそこにいるわけで、他人への影響は微塵も感じられていない。自己中心的な行動は、判断力の低下と共に、その傾向を強くすると言われるが、現実には、それ以前の問題として、本人の資質が大きく影を落とすこととなる。加齢現象は、全く影響がないとは言えないものの、それ以上に大きな影響は、持って生まれたものから来るわけだ。違反とはならない行動も、全体の流れを乱すこととなれば、事故の原因となりうる。ただ、そんな指摘は、何処からも飛んでこないだろうから、本人にとっては、何の意味もないのである。どうしたものか。

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9月4日(土)−発信

 このサイトの訪問者と独り言の読者に対して、サイトの存続に関する情報を流してから、一週間が経過した。予想できたことだが、誰からも何の反応もなく、結局こちらで適当な場所を探そうと考えている。掲示板の悪意に満ちた書き込みや、ひとこと伝言板への薬物中毒者の戯言など、呆れているから止めるのも、とも思う。
 このサイトは元々、証券会社に勤めていた人間が、様々な事情から転職することとなり、当時の社会の風当たりの強さから、元居た業種の人間の応援を、という意図から始められたとのことだが、サイトの管理の問題が生じ、現在の状況に落ち着いた。当然、当初の意識は薄れ、その後の社会の変遷と共に、こういった場の意義は急速に薄れたようだ。訪問者の数も、一時に比べれば、一桁以上減少し、たまに訪れる一見さんには、無意味な場所と映るようだ。こんな状況で、維持を目指してのみ、こんなことを続けるのは無意味と言われれば、その通りと答えるつもりだが、まだ、捨ててしまう気持ちには至っていない。理由は様々あるのだろうが、何か特別なものと問われれば、やはりこの場を継続する気が、まだ残っているのが一番大きいのだろう。そろそろ限界、と思っている面もあるのだが、ブログとは少し違った形で、サイト自体の運営を続け、そこに発信の場を維持することは、たとえ片手の指の数に満たない読者と雖も、重要なことと考えている。勝手な思い込みと糾弾されれば、これまたその通りと答えるだけだが、他人の為でなく、自分の為だけに、と考えれば、特に改めて考えることも無さそうだ。世の中は、総じて受け身の方に流れているようだが、そこに力は湧いてこない。自ら働きかけることを忘れた時、生き物は滅びるしかないことに、気付くべきだろう。

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9月3日(金)−迷走

 一時期、熱病のように流行した仕組みに対して、暫く後には、徹底的な糾弾が始まり、それも含めて、既に全てが忘却の彼方に去ったかのように思える。正当な評価を求め、自らの価値を主張する動きは、肝心の中身の質の低下に反比例するように、高まるばかりだったのだが、正当に評価されるに従い、沈静化していった。
 自己評価は、どんな使途があろうが、自らが下す判断であり、そのまま自分自身に跳ね返ってくる。ごく当たり前のことに、今となれば思えるけれども、流行病の如く、その運動が広まった頃には、全く違った思惑が蠢いていた。正当な評価を求めるのは、ごく当然のことに違いないが、実際には、過小評価のみに注目が集まり、過大な評価は無視されることとなった。その結果、全体の均衡が崩れ、一部の特殊な人間の利益追求のみが、優先されることとなった。その過程では、普遍的なものとの扱いが重視されたようだが、根源に歪曲された理解があった為に、乖離は広がるばかりとなり、組織全体に腐敗が起きてしまった。明確な目標が示され、それに邁進する気運が高まったのだろうが、現実には、的を射るに至らない球筋ばかりとなり、あとには無駄が山積する結果となった。当初から、そういった類の指摘はあったものの、舶来品の過大評価と同様な心理は、餌とそうでないものを区別することなく、鵜呑みを続ける経過を辿る。結果を改めて書くまでもないことだが、現時点での混迷が、そこを端緒としているという解釈は、あながち間違いでも無かろう。いずれにしても、評価なるものへの憧れと、それに見合わぬ実態との、どうにも埋められない溝は、手の施しようのないほど深いものである。未だに同じ制度を継続するところもあるが、おそらく、全く違ったやり方をしているのではないか。使いようとは、よく言ったものだから。

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9月2日(木)−理文

 ある調査で、理系の大学を卒業した人の方が、文系を卒業した人よりも、生涯給与が高くなるという結果が出たと報じられた。意外と思った人と、当然と思った人、割合はどんなものだろう。また、この調査を行ったのが、理系の人々だとしたら、この結果はどれ程信用できるものと言えるのだろうか。
 適性とは、時代によりかなり異なった解釈がなされるが、最近は、適したものよりも、適さないものを除いた残り、といった感がある。これは不得意だから、という理由で、自らの進路を決める人が多く、それが特に、文系で顕著に表れているとも聞く。真偽のほどは確かではないが、就職後も、技術的な事への理解が不十分な営業に、腹を立てる人々がいるという噂は、こんなところが発端になっているのかも知れない。その見方からだけなら、文系より、理系の方が広い理解力を持ち合わせ、企業にとっても有用な人材となるように思える。しかし、彼らに対する批判の多くは、一部の興味への集中度であり、たとえ、理解力を持っていても、それを使いこなせない人材は、無用の長物となると見なされる。現実には、系の違いより、個人差の方が遙かに大きく、こんな調査自体に意味を見出さない人も多い。にも拘わらず、調査が行われ、それが報道される背景には、皆の思い込みの激しさがあり、勝手な解釈が横行し、誤解に基づく行動が、問題視されているところがある。また、知識の幅広さの反面、理を重んじる余り、人間関係を軽んじる傾向が目立っており、そこを指摘する声も大きい。だが、特に最近の経過を顧みるにつけ、屁理屈ばかりが濫用され、本質的な論理を無視した結果、適正な判断を無くした行動が、矢鱈目につくようになり、失敗の連鎖が頻発した事は重要な問題である。所詮、人間のやることに違いないが、理を無視して良いことはない。

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9月1日(水)−虐待

 間違ったことをさせない為には、それが如何に酷い行為かを示せばいい、とでも思っているのだろうか。目の前に映写される映像には、不快感を催させるものが含まれており、ある意味、精神的な虐待を思わせるものがある。ここで何度も取り上げた、不安や危機感を煽る手法と、どこか似たところがあるようだ。
 説いて諭す、という行為は、既に忘れ去られたのだろうか、と思える程の現状だが、聞く耳を持たぬ人々には、唯一残った効果的な手法とされているようだ。しかし、良識のある人々も、そこには含まれているはずで、本来大切にしなければならない、ごく普通の人たちに、痛みを感じさせるのはどうかと思う。言葉はごく丁寧に発せられ、内容も吟味を重ねたものだろうが、人の痛みを感じる感性を遺した人々には、ただ辛いだけの時間が流れることとなる。ドラマであれば、所詮作り物との理解の上に、眺めるだけだろうから、感動があっても、現実感は少しは薄くなる。だが、そこに映されたものは、本当の被害者であり、彼らの心からの叫びである。そうなれば、同情といった感情も、ごく普通に湧き出してくるものであり、それが時に、痛みに変わることも珍しくはない。何かしらの違反を犯した人だから、という事実を理由とするのは、現代社会においては、全く間違った解釈であり、人権を無視するものの典型とされる。どんな意図で製作されたものかは、全く理解できないものの、見る人に与える影響は様々であることを、すっかり忘れてしまったものであることだけは、確かだろう。効果を狙う為には、精神的な影響が不可欠と考えるのは、無理のないことだろうが、だからといってこんなものが許されるのか。免許更新の講習会での一場面だが、最近流行りの批判も、脛に傷持つ人々からは、出てこないのかも知れない。

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8月31日(火)−盲進

 大変な時代なのだそうだ。大学を卒業しても、職にありつけるのは全体の6割程度、と伝えられており、この現象は国内に留まらず、海の向こうでも、深刻化しているという。家族構造が、成人になる時点で大きく変化するのが当然だったが、今や、出戻りの子供たちが居着くのが当たり前になりつつあるらしい。
 親の世代が退かず、留まっていることが原因と、母親が話していたが、的を射ているかどうか、怪しいところがある。それにしても、産業の成長は望めず、停滞期に入ってからも、かなりの時間が経過しているから、今後の展望は明るくないだろう。ただ、見方として疑わしいと思えるのは、数値の出し方であり、進学率がほぼ天井に達したところで、実力の伴わない人々が、その中に含まれるようになったことは否めない。報道は事実を伝えているのであり、画面に映る学生たちが窮地に陥っているのは分かるが、彼らの実力は如何なるものか、そういった情報は一切加えられない。困った、大変だ、などと繰り返すのは、簡単なことなのだろうが、その一方で、そこまでの経過が、順当なものであったかどうかは、全く別の話ではないか。確かに、数字は事実を伝えているのだろうが、その背景にある事情については、それらが語るものは殆ど無い。程度の差こそあれ、どんなことが起きるのかは、多くの人の記憶の中にある筈で、その結末も大体想像の範囲内にある。にも拘わらず、これ程騒ぎ立てるのには、どんな意味があるというのか。不安を煽り立てるのが、洗脳や煽動といった、誘導に有効となる手段を行使する為の、最も重要な準備と考えられる。彼らが何を目的とするかは理解しがたいものの、自らの地位を守る為に必要な手段を講じていることだけは確かだろう。その先に何があるか、見えている人は居ないのだろうが。

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8月30日(月)−誘導

 節目を迎える度に、こんなに騒ぐことはないのに、と思う。一大事には違いないのだろうが、渦中の人々の心中は、全く違った方に向いているのではないか。この国の向かうべき道でなく、今この時の選択を左右する、そんな材料を見出すことに躍起になる。真の安定から心の不安定に時代が移った頃から、この調子だ。
 先が見えない中で、何を模索するのか、そんなところが最重要課題なのだろうが、騒ぎの中心で踊る人々には、そんなところに目は向かない。将来の変貌でなく、今この瞬間の勝ち負けこそが、重大に違いないのだ。だが、それを優先する余り、計画も展望も示せないのでは、この国の将来は真っ暗闇へと向かうことになる。これ程明白なことにも拘わらず、このところの交代劇の連続には、そんな心配を微塵も感じない、何とも不思議な人々が関わり続けているようだ。中でも、世論を味方にするかどうかが、最も肝心と言い続ける人々は、不可思議としか思えない行動を続ける。調査と称して、繰り返される数値解析には、何処かしら、目論見が見え隠れし続け、その後の成り行きから、それらの数値が大きな役割を果たしたと結論づけられる。正当な調査だからこそ、正しい結果を導いたとする向きもあろうが、そんな戯れ言を信じるべきだろうか。このところの騒ぎも、関心を失った人々には、何の意味も持たない筈なのに、調査が例の如く実施され、予定通りの数字が表面化する。全く異なる組織によって実施されたものが、殆ど同じ結果になったことは、通常ならば、世論を反映した正しい数字であることを示し、信頼性を高めるものとなる筈だが、数字でない部分に、大きな違いが現れている。そこには、おそらく、質問による誘導、調査ならぬ、世論操作なるものが潜んでいるのではないだろうか。

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