パンチの独り言

(2010年9月6日〜9月12日)
(義務、意外、器、蔓延、形、虚言、名物)



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9月12日(日)−名物

 そろそろ外に出かけたくなるだろうか。観光には、風光明媚なところに出かけるものと、歴史や物産に名をなす場所に出かけるものがあり、一括りにされることが多いが、その性質は全く異なるように思う。人間の関わりの有無に大きな違いがあり、前者は破壊にしか関われないのに、後者は人間活動そのものだからだ。
 こんな違いがあるのに、外の地域から人が集まるという現象が同じである為に、何となく同じ範疇に括られる。そんな背景があるからか、最近自然の景色を売りにするところに、かなり人間の関わりの大きなところが増え、人工物との関係が重要と見る向きがある。ある指定を受ければ、その名が高まるとばかりに運動を繰り返すが、ここにも、人間の営みとの関係が表れる。所詮、人間の移動が第一のものだけに、関わりを完全に打ち消すことは不可能だが、これ程密接な関係が結ばれるのは、これまでに無かったことだろう。一方、何か売り物となるものを前面に押し出し、それを端緒に人を集めようとする動きも激しい。歴史的建造物は、歴史そのものがなければ無意味だが、それさえも復元すればいいとなるし、物産に至っては、こじつけとも思えることが横行し、注目を集めさえすればいい、という考え方が基本となる。そういう連中の非を追及することも可能だが、要するに乗せられる人々の存在こそが、問題となるのではないか。しかし、このようなものが産業と呼ばれるようになり、雇用の拡大などと強調されると、何処か儚い夢を見るような気がしてくる。人間の気持ちに頼る、何とも不安定な商いでは、浮き沈みが激しくなるのは当然で、それに翻弄される人が出たとしても、仕方ないと片付けられる。本当に大切なものを見つめず、上辺だけを問題とするのは、客も合わせて、皆が抱える課題なのだろう。

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9月11日(土)−虚言

 事実をそのままに伝えるだけが役割だった筈が、意見を加えてより詳細に掘り下げる事こそが重要であるとの認識が広がり、その役目を負う人間が画面に加わる事となった。背景が詳らかにされるとの利点が強調されたものの、その後の展開を眺めると、余計で根拠のない推測ばかりが付け加わっている。
 事件が起こる度に、その情報が流される。何処の局も、どの紙面も同じ内容であるから、それこそが事実であると受け取るが、現実には、同じである理由は他の所にある。情報源が同じであり、その記事を書く者たちが事実を自分の目で確かめた訳ではないから、同じ内容になるだけの事なのだ。同じ光景でも、見る者の感覚の違いによって、伝えられるものは微妙に異なってくる。見方が異なる事で、正反対の事実が紹介される事も多い訳だ。しかし、同じ源から流れてきたものをそのままに信じ込んで纏められた内容は、字句の違いはあったとしても、大筋では似通ったものにならざるを得ない。この杜撰な仕組みを利用して、情報操作を行おうとする者がいたら、現代社会は全く思惑通りに動かせるのではないか。裏を取る事が最重要と教えられた時代とは違い、裏も表も区別できない力不足の人間しか、現場にいない状況では、こうなるのは致し方ない事だろう。送り手の能力に頼るより、受け手が自らの能力を磨く事が大切なのは、こんな事情があるからだ。それにしても、調べる側の杜撰さばかりを糾弾する人々が、あの時、どんな事実を流したか、思い出せる人があの画面の中にいるのだろうか。記録媒体がこれ程流通する中で、そういう検証も一つの要素だろう。嘘と知る事なく、ただ垂れ流す人々が、そこに更なる虚言を加えたなら、全てが虚構でしかない。

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9月10日(金)−形

 形式に拘ることが、かなり厳しく批判されていた。形ばかりに囚われて、本質を見失う事への警告だが、その後の経過を眺めると、更に悲惨な状況が生まれていることに気付かされる。本質を見極めることの大切さは見捨てられ、形式のことばかりに頭を使う。その結果、形式をも無視した蛮行が急増したわけだ。
 本当に大切なことを達成する為には、それなりの困難を伴う。問題の本質を見抜く為には、多くの背景を見渡し、その中から重要な要素のみを抽出し、最終的に何処に問題があるのかを決定しなければならない。形式に拘ることを批判された人々が、そんな能力を備えているかといえば、多くの場合、否定的な見解しか生じないが、そのことを承知の上で、下らない批判を繰り返した人々は、そこに思惑通りに事を進める為の、重要な道筋をつけることに、最も力を注いだようだ。その結果、跡に残ったのは、形式さえも無視し、何でもありの状態を設定することであり、無法地帯の確立のような様相を呈した。一時的には、冗談とも思える言動や決定が続出し、まさに無法の名に相応しい状態となったが、流石に長続きはしなかった。欲望の塊と化した人々が、満たされぬ器を埋めることに躍起になり、被害を増大させ続けていた頃、その矛盾点に気付いた人々は、今一度原点に立ち戻り、形式を尊重した上で、改革を断行する手立てを考えようとした。しかし、一度腐ってしまったものが、元に返るはずもなく、問題をきちんと捉えようとしない人々の、退場を望むしか方法が無く、かなりの無駄な時間を過ごすこととなった。とは言え、一時に比べれば、ずっとましな状態になりつつあり、少しずつだが改善の兆しは見える。ただ、依然として、形式をも守れぬ無能者が蠢いているのには、呆れるばかりだ。

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9月9日(木)−蔓延

 流行の時期は過ぎてしまい、猛暑の話題ばかりで、いつものような注目を集めなかったものの、いつの時代も恐れられていたのは、食中毒だろう。細菌の感染によって起きる病気では、重篤な症状に陥った場合、命を失う場合も多い。特に、年少者は抵抗力だけでなく、下痢による脱水症状が重大な問題となる。
 細菌にも色々とあり、それぞれに人間に及ぼす影響も異なる。戦前に恐れられた結核も、それを生じる細菌によるものであり、自然治癒しか頼れない時代があった。戦後の社会の変化で最も大きかったと捉えられているものの一つに、この病気の治療が上げられており、抗生物質と呼ばれる、細菌だけを殺す薬剤の導入が、病気の蔓延状況に一大変化をもたらした。同じように、細菌感染症と括られる病気の数々にも、感染者の抵抗力に頼るのではなく、薬の力によって回復させる方法が適用され、劇的な変化が起きた。今から見れば、想像できない状況だが、それ程劇的な効果を及ぼす薬は、後にも先にも、この類のものしかないのではないか。ただ、生き物はただやられているだけではなく、彼らなりの抵抗を試みるようだ。耐性菌の出現は、医療関係者にとっての脅威であり、特に近年は、その頻度が急激に増していることから、注意が促されている。そんな中で、ある大学病院での院内感染の話題は、かなりの注目を集めている。起きたこと自体にも問題があり、管理態勢の不備が指摘されているようだが、それより重大と見られているのは、報告義務を怠ったことであり、この情勢ではこちらの方が大きく扱われる。対策を優先させたという、いつもながらの言い訳は、個人病院ならいざ知らず、多数の職員を抱える大病院にあるまじきものであり、感覚のずれを感じる。ただ、報告の必要事項が何かを知らぬ者の感覚であり、そちらも流して欲しいと思う。

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9月8日(水)−器

 余り知られていないのかも知れないが、地位が人を作るという話がある。力不足を理由に、人の登用を遅らせる人が多いが、現時点での役割での力量から、次の役割での実力を測ることは難しく、本当に力のある人間ならば、その地位に就いたところで、徐々に力を発揮することになるというものだ。
 力と一言でいっているように見えて、現実には、実績しか物差しを持たない人は多い。売り上げや開発の能力など、それまでに築いてきたものが土台となるわけで、全く畑違いの現場や人の上に立つことなど、激変の後の状況を、予想するには不十分と言わざるを得ない。そこで重要となるものは、その時点で表面には出ておらず、深くに埋もれている力を見極めることであり、数値で表せないものが殆どとなる。その意味では、数字で全てを計ることに終始し、それに基づいて全ての決断を行う手法では、将来性という茫洋とした評価対象は、扱い難いものの一つに過ぎない。だが、本当の実力を備えていれば、経験したことのない場面でも、それに応じた対処が可能となり、次々に起こる変化にも、対応可能となる。これが一段落した後に、人は地位と人との関係を認識し、仮想的に試行することの難しさを、痛感することになる。ただ、文字として表現することは簡単だが、現実に、責任ある立場として、適材適所を考えることは、言う程簡単なことではない。すんなりと離陸してくれればいいが、多くの場合、着任当初に様々な障害を抱える。そこで頓挫してしまえば、次の段階を迎えることなく、変更を余儀なくされるわけで、この壁を乗り越えられるかが、重要な鍵を握る。それぞれに、克服する手立ては違うものの、結果的には同じような展開が起きるのは、地位に見合う力が備わっているからなのだ。

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9月7日(火)−意外

 新しい制度が始まり、それを利用して資格を獲得したのに、十分な収入が得られずに困っている、という人の紹介が度々映像に流れた。不足していると言われたにも拘わらず、こんな状況が生まれるのは、とても不思議なことのように思えるが、医師不足の時も同じような展開をしたのではないだろうか。
 全く同じ状況とは思えないが、どちらも過不足の生まれる背景に、様々な要素が絡んでいるように思える。例えば、医師では絶対的に重要な要素として、過疎地域での不足が議論の対象となり、特に重篤な病気の場合、移動距離が生死に関わると言われるだけに、単純に対象人口だけを問題にするわけにも行かない。特に、過疎地域は交通の便の悪さも加わり、距離だけで処理するのは論外となるから、この問題を解決するだけでも、複雑な事情を汲んでいかねばならない。一方で、密集地域でさえ、診療科目によっては状況が悪化しているところもあり、分析の難しさを更に高めているようだ。大学入学時の困難に比べれば、国家試験の難しさは幾らか下がるとはいえ、数を増やすことの難しさは、単に基礎数の増加だけでは済まぬ程、複雑な要素が入り組んでいる。一方、大学へは難無く合格できたとしても、国家試験の難しさで知られる業種に関しては、数を増やすことの難しさは、更に極まってくる。その中で、奇抜とも思える仕組みを導入し、一気に増加を図ったわけだが、一方で、目標値の達成に及ばず、参加者の資質不足が深刻な問題とされ、仕組み自体の変更も検討され、更に問題を複雑化したのは、折角資格を得た人々が、十分な収入が得られない状況に陥るという、何とも不可思議に思える事態が起きたことにある。不足は確かなのだろうが、単純に数の問題と片付けられないものがあり、更なる要素分析が必要と見える。それで片付くのなら良いのだが。

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9月6日(月)−義務

 自転車が絡んだ交通事故が増えているという。歩道を飛んでもない速度で走り、急な操作を繰り返す。咄嗟の回避が難しい年齢になると、自動車より危険な乗り物に見えるのではないか。免許制度のないものだけに、常識以外に頼れる部分はなく、若者だけでなく、身勝手な高齢者の運転はかなり危険に見える。
 公共交通機関の整備がなされていない地方都市では、自分で動く以外に解決法はなく、その中の一つとして自転車の存在がある。しかし、車のように安定しているわけでなく、平衡感覚さえも失われつつある高齢者には、価値と危険のどちらを優先するかの選択が迫られる。運転に集中しなければならない状況は、周囲への注意が疎かになるから、自らの安全が他への危険に変貌することも多い。歩行者に対する事故の可能性は高まるが、もう一方で、自分が被害者になる可能性をも高めている。左右確認を怠りつつ、広い道路を横断する姿は、自殺行為にしか見えないが、当人は向こう岸に着くことだけに集中する。それが彼岸になるかも知れないとは、微塵も思っていないのだろう。自転車による事故は、加害被害どちらにせよ、難しい問題が絡む。免許制度がないことは、扱いを難しくするのだろうが、それ以上に、特に若年層では、判断力の不足が問題となる。相手が自動車となれば、法律で扱う事故となり、運転者は報告義務を持つ。ところが、物損だけで、人身事故とならなければ、報告しなくても良いと思う人は多い。運転者が自ら怠慢をする場合は、彼ら自身の過失となるだけだが、自転車にぶつけられた場合には、別の要素が入り込む。示談と称して、法外な請求を繰り返す悪質者もあり、安易に話に乗ることは危険だろう。被害者たる自転車が、怠慢を促した場合、相手が嫌がっていたとしても、車の運転者は義務を果たすべきだろう。ちょっとした違いに見えるが、人間関係を保つ為に、何を優先するかの判断が必要である。

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