パンチの独り言

(2010年9月13日〜9月19日)
(異教、欲望、擁護、悲楽、範囲、非常識、引越)



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9月19日(日)−引越

 以前お知らせしたように、来月末にはこのホームページが設置してあるサーバーが、有料化することになっている。設置の目的は人それぞれだろうが、敢えて料金を支払ってまで、という思いから、居座ることは止めにした。知らせの後から、無料の場所を探してみて、やっと見つけたので近日中に移動となる。
 ここは、無料の条件として、広告の掲示を義務づけている。それを財源とするのだろうとは、容易に想像できることだが、そうであれば止めるのは何故か、疑問が残る。一番簡単なのは、巷で言われる程、ネット上の広告は効果が無く、依頼が減っているから、という理由だろう。真偽のほどは確かめられないが、こんな形で従来の手法が立ち消えになるのは、現代社会では当然のことかも知れない。趣味のサイトの設置などは、大した意味や意義も無いのだろうから、こんな程度の対応で十分だが、公的なものはそうもいかない。だから、かなりの額を投じて、維持管理を外部委託する場合も多いのだろう。しかし、それでは守秘義務の適用も不完全となり、様々な問題が生じることとなる。所詮、ネット社会とは、現実社会にある規則の適用が困難であり、自由という名の下に、勝手な振る舞いが許される場所、との解釈もあるが、情報管理がこれ程煩く言われる時代には、簡単には解決しない問題だろう。急速な変化について行けない人間が居る状態では、時間遅れの対応もやむなしといったところだろうか。引っ越し先のサービスでは、現在のような管理システムがないので、一つ一つのファイルを変更した後、ファイル転送ソフトでサーバーに送るしか手段はない。慣れてしまえばどうということもない、のだろうが、さてどんなものか。やはりブログが流行るのには、そんな事情があるのでは無かろうか。

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9月18日(土)−非常識

 虐めという言葉が流行った方が、ハラスメントという言葉が持ち込まれるより、ずっと前のような気がする。二つの言葉は、同じように使われる場合も多いが、実際にはかなりきちんとした区別がなされているように感じられる。それは言葉の生まれた文化的背景の違いから来るものなのだろうか。
 ハラスメントは、外来語であることもあるが、定義を煩くする文化基盤もあり、その適用範囲はかなり厳しく定められている。驚かされるのは、それ程厳密である一方で、その適用に当たって、かなり緩い解釈がなされることだろう。範囲を限定する一方で、当事者間の解釈に関して、一方的な働きかけが可能なのは、何とも不思議な感覚に違いない。弱者保護の立場を貫くと言えば、全くに聞こえの良いものとなるが、たとえ、初めがそうであったとしても、その後は予想外の展開が起きている。この定義が入ってきてから、既に存在していた虐めに対する解釈も、どことなくおかしな変化が起き、弱者中心のものが当然と扱われるようになった。これ自体が間違ったものと断定することはできないが、これに端を発した曲解が続出するのを見ると、間違いを誘発するものであったように思える。そんな環境下で最近は、弱者になれぬ人々に対して、注意を喚起する媒体が数多く出されている。事例集も、単なる印刷物だけでなく、動画を使ってより理解しやすくしたものまでが登場している。性的なものが始まりだったが、その後に地位を利用した圧迫が、より広範に渡るものとして、紹介されることとなり、職場は恰好の標的とされる。また、それぞれに違う事情を抱えるだけに、商売の対象として適したものなのだろう。先日、眺める機会を得たのだが、玉石混淆、余りの質の違いに驚かされた。常識で押し切れない行動を、正しいとするのには無理がある。

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9月17日(金)−範囲

 様々な可能性を検討しろ、といった指示を受けながら、経験を積んできた人間にとって、考えることの重要性は、身に沁みるものとなっている。だが、自分と異なる考え方に、思いを至らすことの難しさは、重要性を如何に認識したとしても、容易に克服できる障害ではない。言うは易く行うは難し、ということだ。
 あらゆる可能性を検討した後、目的を絞った提案を行うことが、その計画の成否を決めるとも言われた。この考え方が流行した時代に育ってきた人々は、まさにそんな考えに凝り固まっている。その結果、応用性や拡張性に大きな欠陥を持つ計画が、続々と立案され、乱立状態に陥った。この状況の最大の問題点は、絞り込んだものだけに、すぐそばにあるべきものが、全く別の範疇に入れられ、力を集中することが困難になることにある。乱立させたあとで、統合を図る手続きも、数多くなされてきたが、結局は無駄な時間と力を使うこととなった。一見、合目的性を実現することで、いたって合理的な手法と思われたが、実際には、視野が狭く、応用が利かない、役立たずを乱発することになっただけなのだ。その時代の中心となった人々は、依然としてこの手法の問題点に気付かず、目的を絞り込むことだけに力を注いでいるが、彼らは他の方法を知らないだけでなく、そういった粗製濫造の結果、激化した競争に生き残る為に、似て非なるものの排除に、最大の力を注入してきた。適用範囲を広げることより、如何に狭く一つしかないものを、対象とするかが、最大の得点を稼ぐ手段だから、後々、どうにも動かしようのないものが生き残る。結果、無駄が山積し、整理に必要なものを、無駄を承知で実行する羽目に陥る。そんな統合再編に力を注ぐより、新たに広い適用範囲をもつものを、立案した方が余程効率的となる。

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9月16日(木)−悲楽

 熊とか牛とか、相場の心理を喩える為に使われる動物だが、小動物でなく、巨体を誇るものを使うのは、何となくその業界の傲りを表すものに思える。自らの力を誇示しつつ、その場その場の心理の動きを如実に表したものなのかも知れない。こんなところにも、彼らの傲慢さが現れているようだ。
 相場の操作を、自分たちがやる限りは、何の問題も生じないが、公的権力が介入すると、一気に不満を爆発させる。このところ、牽制する姿勢が露わになりつつあったこともあり、介入の無力さを強調する意見が、度々紹介されていた。曰く、全体の動きの額に比べて、介入は微々たるものだから、何の効果もない、といった類のものだ。しかし、現実には心理的な弱さが露呈し、慌てふためく人々の、予期せぬ動きが大袈裟な反応を呼んだ。ただでは立ち上がらない人々は、相変わらず、その脆弱性に触れることなく、次の段階での無力化を論じ始めているが、冷静に見れば、小さな動きでも、急所を突けば効果を産むことを、示したのではないか。今後の展開は、更なる心理戦が繰り返されるだけで、一方的な動きに固執する人々には、対応が難しいように思える。ただ、今回の急場しのぎの分析でも、偏った意見が目立っており、彼らの分析力の底の浅さに、落胆の色は隠せない。この関わりで、この程度の効果、といった形で紹介されたものだが、現実には、彼らが屡々用いる目標値が、先にあることであり、自分の行動と他人の行動を区別する考え方は、心理に左右される事をはっきりと示している。熊だろうが、牛だろうが、どちらでも構わないことだが、自分たちが全ての中心にあるという考え方は、破綻した企業のものとそっくりであり、何の反省もないことは明らかだ。こんな連中が、日々数値と遊びつつ、私腹を肥やしているわけだ。

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9月15日(水)−擁護

 人間とは、何と自分中心にしかものを考えない動物だろうか。繰り返し、こんなことを書いてばかりいるから、またかと思われることは承知の上で、再びそのことに触れたい。社会を形成する動物では、一つ一つの個体において、どんな考えや行動があるのかは明確でなくとも、集団全体としての利益が優先される。
 人間も社会性生物の一つに数えられるが、果たして、この規則は厳密に当てはめられ得るだろうか。自信を持って、そうと答えることは大変難しい。一方で、全く違った見方をすれば、一個体が自らの利益を最優先させたとしても、それが集団としての利益に繋がるのであれば、それで良しとするという考え方もある。そんな面がないとは言わないが、人間の行動において、全てがそれに基づいていると断言することはできない。様々な恐怖が取り沙汰された時、ある要職にある人物が、自らの利益と称して攻撃を開始したら、世界の破滅が起こると予想された。これがヒトという種の繁栄に繋がる利益と言えるか、即座に決めることはできないが、少なくとも一時的な打撃の大きさは計り知れない。それ程大袈裟な話にしたいわけではないが、どうも人間の狭量さが、このところ時間の流れに従って、急速に目立ち始めているように思える。身近なところでは、運転者に歩行者の保護を訴える話があるが、自らが歩行者になった時の行動が、常軌を逸している人も多い。高齢者を突き飛ばす歩行者は、自動車よりずっと危険だろう。高齢者も、保護される対象として取り上げられるが、彼ら同士の考え方には、高齢者を大切にするという観点はない。年寄りとは、自分より年上の人間であり、世間の中で見るものとは違うと、思っているのではあるまいか。こんな小さな利己が、大きな身勝手に簡単に変わることは、今の世間を見るだけで分かる。

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9月14日(火)−欲望

 欲に、良いも悪いも無いだろうが、生き延びることや自らを大きくする為に、無くてはならないものとなる。他人の為と称して、施しを含めた様々なことをする人間が居て、無欲と理解する向きもあるようだが、これとて、自己満足という欲から湧き出したものと見ることもできる。その対極に、強欲があるのだが。
 欲に駆られた人々が、様々な形で人前に出てくることがある。破綻を来した金融機関に駆けつけた人の顔には、何とも表現しがたい表情が表れており、彼らなりの理由が披露される。だが、どんな言葉を並べても、そこに欲という文字が大きく表示されているように思う。騙されたとか、そんな声さえ発する人が居たが、今度の場合には、何をどう受け取ればそうなるのか、不思議でしょうがない。強欲さが如実に表れていたのは、こんなことなら株でも買えばよかった、と宣った人が紹介された時で、自分自身の発言の意味も、自己責任の意味も、理解されることは永遠にないだろう。金は、そんな欲望が一番明確に現れる対象であり、そこでの行動は本能に近いものかも知れない。しかし、一方で、それを抑えつつ行動する人々もいるわけで、単純に全てが欲から来るものと見るのも間違いだろう。慈善事業についても、色々な意見があると思うが、これも、欲と無関係とは言い難い。名誉というものを追いかける人もいれば、人からどう見られたいか、といった感覚の欲もあるだろう。そんな見方をすると、何とも汚らわしいものに見えてしまうかも知れないが、それを汚れたものと見る方が、おかしいのではないだろうか。私利私欲と言うけれど、自分だけの利益になることを最優先させる事に、批判があるだけであり、最終的に他の利益にもなれば、それで良いのではないだろうか。

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9月13日(月)−異教

 寛容という言葉を聞いて、宗教を思い出す人もいるだろう。赦しを乞う行為が大きく取り上げられるものもあるが、その一方で、改めてそんなことをするまでもない、といった立場を貫くものもある。それぞれに特徴があり、信じるところに従って、それらの立ち方が決まってくるものと思われている。
 信心深い人々に、こんな言葉をぶつけると、呆れられたり、猛反発を食らうのだろうが、宗教で言うところの寛容とは、それを信じる者に対してだけ向けられるものであり、それ以外の人間には適用されない。要するに、囲いの中にある者に対して、保護とか加護とかがあるのであり、その外に居る人間には、関係のないことなのだ。ただ、布教活動を考え始めると、その囲いを如何に広げるかが重要となり、その為の誘いの言葉も必要となる。救いを求める人々にとって、その呼びかけはまさに天の声となり、拠り所を掴んだ後は、安寧な日々が送れることとなる。外から来た人にまで、こんな施しを授ける程、寛容さが満ち溢れるものはない、という解釈が成り立つと思う人もいるようだが、反対側から眺めると、内側にいる者達だけに適用されることだから、如何にも利己的な自己中心的な考えに基づく、行動にしか見えてこない。同じ根っ子を持つ宗教の間で、長年に渡って繰り広げられる争いも、そんな観点から眺めると、成る程と思えてくる部分もある。大元では、そんなことは論じられていなくても、前線に立つ人々からすれば、改宗を迫る為の論理には、こんな感覚が重要となるのだろう。そういった拠り所を持たない者には、何も見えてこないのだが、見ようとしない意識を持ち続ける人々とは、違った感覚がありそうに思える。

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