パンチの独り言

(2010年9月27日〜10月3日)
(仮病、拝読、探索、交渉、寛容、良心、弁士)



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10月3日(日)−弁士

 弁が立つから、という理由で登用される例が、随分目立つようになった。一見当然のように見える話だが、反面、口先だけの人間が目につくようになった事から、どうにも中身、特に本質の理解が及ばない人を、優先しているように感じられる。同程度の理解であれば、話が分かり易い程、有用である事は確かだが。
 この傾向は、特にある業界において際立つように感じられる。それは、口先の商売と、昔から言われてきた事もあるが、以前にも増して、その任にある人々の理解力の低下が、如実になってきたからではないか。今でも時々見かけるが、「弁士」なる表現で呼ばれる人々が登場する会合は、まさにそんな人々が、大衆に向かって意見を述べるものである。相も変わらぬ調子で、気を惹く話を披露するが、選ばれた後には、そんな記憶は雲散霧消する。おそらく、何処か隅の方に押し込まれた形で残っているのだろうが、そんな気配は微塵も見せず、その後も次々と甘言を繰り返す。当然、早晩、嘘がばれる事となるが、そこでも、口先がものをいう訳だ。こんな連中は、少々の攻撃でも揺らぐ事は少なく、その身を守り続けられるから、実は、組織にとっても有用な人材と見なされる。だが、これは大いなる誤りであり、実質のない話を繰り返し、その地位に留まるだけの人間を、世間にさらす事によって、組織自体の中身のなさを、自ら暴露しているに過ぎない。何とも情けない状況だが、現実はまさにこんな状態にあると言えないだろうか。もし、これが事実であるならば、そんな状況であるにも拘らず、依然としてその路線を踏襲する組織に、何の期待も持てない事となる。何が正しいのか、そんな判断をこの時点で迫ってみても、仕方がない。それよりも、目の前で演じる人の、下手な芝居を見極める事の方が重要だろう。

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10月2日(土)−良心

 最近起きている事件について、不思議な報道が続いているように思う。「法の名の下に」と引き合いに出される世界の話なのだろうが、表面的なことばかりで、本質に迫る話は殆どない。質の低下が際立つと評判の悪い業界だが、その通りの行動が依然として続いているようだ。何処も彼処も、と言いたくなる。
 人を裁く場に存在する職業人は、三つに分けられるのではないか。最終的に、裁きを決定する人、その罪を暴く人、人の権利を擁護する人、そんなところだろうか。今回の事件は、その内の一つにおける腐敗を伝えるものだが、まだ実態は明らかになっていない。特殊な世界だけに、全てが明白になることは、無いと思われる。いずれにしても、行為の罪深さだけでなく、組織全体の抱える問題の大きさに、注目が集まっているように思える。だが、肝心の糾弾する側は、つい数日前の話の内容を忘れ、展開の論理性は微塵もなく、ただ、手当たり次第に、口に出る言葉を継いでいる。自らの手で実態を明らかにすれば、心配することもないだろうが、前にも書いたように、その期待は皆無に等しい。そうなれば、たとえ不十分な解析にしろ、他の人々が真実を明らかにする必要がある。だが、この期待も殆どできない。この世界全体を見渡せば、三つのそれぞれにおいて、腐敗は広がりつつあり、ついに、権力に一番近いところまで、その病巣が広がった。そこに大きな問題があり、ここでも、組織の保全に腐心する人々の姿が、露わになりつつある。問題は、この業界の人々は、現実には「個人の良心」に従って、行動を起こすべきであることで、組織の状況とは無縁であることが、約束の一つとなっている。にも拘わらず、個人より組織を優先する、現代社会が抱える大病が、こんな所にまで及んでいることが、最大の問題と言うべきでないか。

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10月1日(金)−寛容

 厳しく当たると壊れてしまうのが、今どきの若者の特徴と言われる。それが全てとは思えないが、風潮としてはそんなところに落ち着かされているようだ。こんな背景があるせいか、人に辛く当たることは好まれず、兎に角、優しく対応することが重要だと思われている。だが、そこには誤解も数多あるようだ。
 優しい対応の第一は、全てを許すことにあるらしい。何か失敗をしでかしても、その責任を問うことはなく、慰めるのもその一つだろうし、やるべき課題をたとえこなせなくても、それを与えた上司の責任が問われる。そんな調子で、繭にくるまれるように、大切に育てられた人々は、結局、ほんの小さなきっかけで、壊れていくものらしい。自分の周囲だけを、優しさに包まれるように心掛けても、外部との接触を避けることはできず、そこで壁に当たったり、攻撃されたりするのだろう。こういう結果も、折角の配慮が無駄になり、落胆させられることとなるが、その一方で、優しさが仇になることもある。徐々に緩くなる環境に、何処までもつけあがる人々は、常軌を逸した行動さえとることとなる。育てようとの意図は、無惨に踏みにじられ、裏切りの印象は暫くは拭い去れない。そんな時、こういう人々の行動が一変することがあり、優しさという極端から、一気に、厳しさの極端に走るわけだ。心理的な作用の大きさから生まれる結果だが、本人だけでなく、周囲への影響も大きく、全体としての対応は苦しくなる。こんな時、裏切られた本人に落ち度はなく、裏切りこそが元凶と解釈する向きもあるようだが、その考え方は間違っていないだろうか。つまり、過度な優しさを目指す余り、人間関係の構築を疎かにし、そういう結果を導いたとも考えられる。如何にも優等生的な行動は、こんな具合に、馬鹿げた結果を産むこともある。

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9月30日(木)−交渉

 隣の国は火のないところに煙を立てるのがお得意のようだ。それも、国を治める人間が変わり、国そのものの名前が変わっても、同じ十八番を持ち続けるから、何かその土地に憑いた見えない力に、導かれるのかも知れない。それにしても、相手をさせられる人々は、たまったものでなく、愚痴の一つも言いたくなる。
 そんなものがかつての大帝国の外務官が書き残したものにあったらしいが、これとて非論理的な遣り取りに、辟易とした結果なのだろう。度々起こされる不安情勢は、現実には、その要素があるからこそのことだが、今回のものも多くの人々の不安を掻き立てたようだ。以前、ある識者がこの国の発展について言及し、現在の発展は沿海部に限られたもので、今後内陸部へ波及する可能性があるから、十分に長い期間、その発展が継続すると解説していた。相も変わらぬ、まことしやかな話しぶりだが、現状を目の当たりにして、どんな言い訳を考えるのだろう。確かに、土地の広さから言えば、これまでの発展途上国とは異なり、大きな発展性を孕んでいるが、国を治める組織から言えば、画一的な管理しか期待できず、最近の他国への移転の報道は、あの隣国で、一定の利益を上げ続けることの難しさを、如実に表しているだろう。内陸部からで稼ぎのような形で、沿海部に出てきた人々が、不平不満の捌け口を求め、過激な行動に走ったことからも、地域の違いを期待する声は、一気に萎んだと思える。過激な行動を抑える役割は、収める側にある筈だが、これまでの展開を見る限り、大したことは行われていない。元々、土地の権利の問題など、種々の課題を抱えていたところに、こんな難問が生じれば、決断の時が迫るのも致し方ない。この流れに、更なる加速要素が加わるか、はたまた、何らかの堰が築かれるか、そんな時が来ているのではないか。

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9月29日(水)−探索

 以前にも何度か書いたことだが、組織の意思決定において、重要な役割を果たすのは誰だろうか。決定という意味では、当然全体の責任を負う人々あるいは一個人が、その役を担う筈だろう。しかし、最近の傾向を見ると、そのような重責を全うしようとする人は、殆ど存在しないかのように見える。
 一つには、合議制なるものの導入があり、一部の独裁的な人物以外には、そういう力を保持できる人がいない、という状況がある。確かに、独善的な意思決定では、様々な問題を生じることがあるが、今までに大きく成長した企業の多くが、オーナー社長の頑張りによって、その地位を築いたことを考えれば、必ずしも悪いとは言い切れない。強大な力を備えるだけでなく、他を圧する程の能力を持つ人であれば、下手な細工をするよりも、その人の後をついていった方が、遙かに大きな成果を上げるだろう。ところが、組織を率いる人々の能力が、明らかに低下した場合には、そこでの独裁制は悪影響しか及ぼさず、破滅への突進が繰り返されることとなる。こんな場面で、合議制なるものの効力が発揮されるわけだ。しかし、それだけで十分な効果があると言えるのだろうか。意思決定における合議は、重要な区切りとなるものだが、何を議論すべきかという点に関して、この仕組みは何の役割も果たさない。提案あっての合議であり、それがないところには、何も生まれてこないからだ。そう考えると、誰がどのような提案をするかが、こういう仕組みにおいて重要となる。にも拘わらず、現状ではそこを考える空気は、全くないと言っていいだろう。何故、このようなことが起きたのか。おそらく、議論すべき案件は、常に何処かに転がっているものであり、それを探す必要がなかったのだろう。だが、混迷の時代には、それを探す能力こそが最重要となる。

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9月28日(火)−拝読

 毎日、思いつきを勝手気儘に書いておいて、こんなことを書くのも変なのかも知れないが、他人の文章を読むのは疲れる。本になったものでは、それなりの手当てがなされているが、その前の原稿となると、人それぞれの独特の言い回しが頻出し、更に、難解な表現を多用するとなれば、四苦八苦となる。
 専門の書物で、難しい事柄を表現する場合に、さらりと読んだだけで理解できるのは、夢のまた夢である。文字を追うことができても、その意味するところを理解するのは困難であり、難渋してしまう。だが、これは文章そのものの難しさより、内容の難しさが表に出ているわけで、こうなるのが当然とも言える。それに対して、軽い内容を難しく表現することに、何やら才能を発揮しているのではないかと、思える人々が世の中にはいる。高尚な文章に憧れ、そこを目指す若い人々は、どんな時代にも現れていたが、既に、若くもなく、社会に対する貢献も、平均的という中に、そんな憧れを捨てきれない人がいるようだ。難読漢字を多用し、複雑な構文を駆使した文章は、まるで百年前の旧仮名遣いを用いた小説を、読まされているかの如くの感覚を抱かせる。ただ、内容がないだけに、その努力は殆ど無意味であり、厄介な感覚だけが残る。こういう人に限って、他人の文章を読む能力は、さほどでもなく、理解力も今一つ、という状態だから、説得することも難しい。要するに、そんな人間だからこそ、こんな風になってしまった、といった雰囲気なのだ。だが、通常の出版物のように、内容の価値を計り、売り物としての価値を見定めた上で、依頼が舞い込むものと違い、誰彼区別なく、寄せ書きのように文章が集まるものでは、巧拙、難易、様々に入り混じったものが現れる。最終的な読み手に何を強いるか、結果はそれで決まる。

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9月27日(月)−仮病

 弱肉強食と言われた時代を経て、社会が成熟したのだろうか、最近は、特に弱者保護の考え方が重視される。とても良い事という反応がある一方、どうも怪しげな雰囲気が漂い始めたという声もある。保護を受けられない筈の人々が、様々な飾り付けをして、その恩恵に浴そうとする動きが目立つからだろう。
 強者と弱者がいることは、多様性の観点から言えば、ごく当然のことに違いない。自然の中では、敢えて保護されることはなく、弱者は滅びていくのが、理の当然なのだが、人間社会では考え方に変化が起きた。明らかな違いを持つ人々を、保護の対象とすることに、反対する人は多くないだろうが、通常の範囲内での差異を、何処まで拡大解釈するかとなれば、賛否両論が出ることは必至である。にも拘わらず、最近の趨勢は、保護が最優先となり、差異をより目立ちやすくする工夫さえ、頻繁に行われている。経済などの停滞も手伝い、行く末の不安を増大させた結果、施しを望む人の数は急増してきた。ただ、当人たちには施しといった感覚はなく、自らの他人との違いを認識し、それを受け容れただけとなっているようだ。大した違いのない、平均の中に含まれる筈のものを、取り立てて大きく取り上げるのは、それに関わる人々の思惑に違いないが、対象となる人たちに罪がないわけでもなかろう。そんな対象に上がる為には、不具合を感じ、不調を訴えることが先であり、それをすることで関係者の注目が浴びられる。結果として、望んでいた決定が下されれば、そこから先の展開は、希望に沿ったものとなる。そんな人の会話が漏れ聞こえてきたが、診断書が出され、休職の機会が訪れた時、賞与の支給後に、といった計画を話す人間から、どんな異状を感じればいいのかと思う。弱者保護が、装う人を増やしただけなら、反動は大きくなる。

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