毎日のように発表される受賞者の名前に、一喜一憂する声が加わり、例年の如くの盛り上がりを見せる。そんな中に、これまた相も変わらぬ批判的な声も、聞こえてくるのは興味深い。それぞれに根拠は色々とあるのだろうが、それらの声の主に見えていないことが、少なくとも一つはありそうに思える。
批判する人だけでなく、多くの人たちに認識されていないことだが、ある人がポツリと漏らした意見は、まさに核心を突くものだろう。賞というものは、所詮、与える側が選んだものであり、他の人々が批判を加える対象ではない、ということだ。だから、客観的に見て、などと付け加えたとしても、元々主観によるものと見れば、的外れな言葉にしかならない。昔、ある間違いから行われた実験の結果として、新しい性質を持つ物質を作った人が、ある賞を受けたとき、その間違った実験を行った人物にも権利がある筈と、その人の住む国の人々が言い出したことがあったが、これも大きな間違いだろう。また、政治色が表に出る賞では、何年かに一度、獄中にいる人間や刑を終えた人間に、与えられることがあるが、その度に内政干渉のような批判が繰り返される。これも上に挙げたような考え方を適用すれば、何をかいわんやということとなる。批判の中心にいる人間や国にとっては、そういう姿勢に出ることは重要だという意識があるのだろうが、賞を対象にすることは無意味ではないか。丁度注目が集まっているから、というのが本当の理由だとしたら、それは目論見こそが先行しているわけで、本質を突こうとする気持ちは後ろに回っている。そんな見方をすると、賞の話題も違った雰囲気が出てくるのではないか。
教え育む、と書くことが判っていても、現実には何をして良いものか、戸惑うことは多いのではないか。身の回りに対して、と手近な所から始めることもできるし、何処かの組織に属して、多くの人を対象に行うこともできる。こう書くと簡単に思えてくるが、現実には、問題を目の当たりにして、戸惑うばかりとなる。
そんな悩みに陥る人がいる一方で、まともな考えもせずに、手当り次第に挑みかかり、悪い結果を産み続ける人もいる。無意識であるが故に、問題意識を持つこともなく、当然の帰結として、反省に結びつくこともない。少数の人間を相手とする人ならば、被害も大して大きくなることなく、問題も拡大しない。しかし、個人的な営みではなく、組織に属する場合には、事情は大きく異なってくる。現実に、教育現場で起きていることは、どちらの側からも、一方的な情報しか出されず、事実を検証することさえ難しい。そんな中で、個人の能力に頼ることは、解決困難な問題を生じるけれど、他に選択がないという事実もある。となれば、どんな人間に出会うのかが、教えを受ける側の運命を決めかねない。そんな不安から、過度とも見える反応が起きたり、騒ぎに繋がったりするわけで、選択できないことへの不満も募る。ただ、こんな対応では何も解決せず、悪化の一途を辿る場合も多い。個人に頼らざるを得ない面はあるとしても、結局は、組織がどう考えるかが重要であり、その方向への動きも最近は目立つようになった。そんな中で、高等教育機関にこれまでにない課題を示す政策が始まり、組織内の人間の混乱を招いている。どちらが正しいか、答えはまだ見えないが、何らかの変化が必要なのだろう。
突然降って湧いたような朗報に、周囲を含めて大騒ぎとなる。そんな様相を呈している中で、様々な報道がなされれば、玉石混淆、良質な内容から、劣悪と切り捨てられるものまで、続々と産み出される。今更、その原因を考える必要はないと思うが、背景と指摘されることには、少し気になる所もある。
この国の人々は、学校に通っている間に、自分の能力の限界を知らされる。単なる向き不向きに過ぎないのだが、それがまるで人生を決定するかのように、選択を迫られる時期が来るわけだ。そんな中で、一方に決めた瞬間から、他方への興味が徐々に失われ、遂には、理解する能力も喪失することとなる。これはあまりに極端な筋書きだが、進学時期に度々引き合いに出される、文系、理系という分類は、人によってはまさにこんな展開を招くものとなる。それが就職の有利不利に働くと言われると、将来を夢見る人たちは慎重になるものだろうが、結果としては、個人の能力に左右されることの方が大きい。ただ、物事に対する考え方も、この経路によって徐々に変化をきたし、事実を尊重する分野に学んだ人々は、どちらかと言えば、慎重な物言いになるのに比べ、それぞれの考えを尊重する分野に学んだ人々は、持論を前面に出す傾向が強まり、時に、誤りを平気で口に出すこととなる。報道にも、こんな姿勢が露骨に現れることがあり、特に科学記事においては、その分野に精通した記者の記事は正確だが、時につまらぬものとなり、何も知らぬ記者の記事は興味を惹くが、間違いが多くなる傾向がある。そんなものと思いつつ読めば済むことだろうが、それが許されないのが報道の世界である。にも拘らず、一部での騒ぎを聞くと、やはり個人の能力の問題が大きいと感じさせられる。
安定成長を続けた時代と異なり、様々な不安定性が指摘されている。終身雇用が当然となっていた国でも、その可能性は下がるばかりとなり、人々の意識もそれに応じる形で、変化し続けている。確かに、右肩上がりの社会は遠い世界となり、いつ何時、激変が起きるかもしれない状況となれば、この意識は当然か。
それにしても、と思うのは、こちらが古い時代に育った人間だからかもしれないが、何やら、コロコロと主張が変わる人々の言葉に、踊らされている人が目立っているように見える。経営手法の変更も、いつの間にか始まったものが、彼らの言葉によれば、急速に広がり、一般的なものへとその存在を押し上げた。ただ、この国の人々の心理としては、この状況は不安を煽るだけのものとなり、それに振り回される形で、経営する側も、雇用される側も、考え方を変えざるを得ない事態に追いやられている。主義主張がないのがいけない、という指摘も妥当に思えるけれど、そんな背景を承知の上で、煽りに徹する人々の思惑は、一体何処にあるのだろうか。社会の不安定は、心の不安定へと繋がり、結果は今目の前で展開される、まさにこの光景へと結びつく。成功へと繋がる階段には、この程度の変化がある方が良いという考え方は、この仕組みの発信源である海の向こうのものだが、本来の形と違ってきているのは、成長の可能性が低くなった社会の状態から来るものだろう。そういった社会情勢の変化にさえ目を向けずに、こういった変化を導入したのは、どんな意図から来るのか、理解することは非常に難しい。おそらく、こういう環境下で重要となるのは、一人一人の考え方やその主義主張であり、それを重視する姿勢を維持する心の強さだろう。さて、自分も含めて、周囲はそんな状態にあるか、見てみるべきではないか。
子供向けの漫画で、自動翻訳装置なるものが紹介されていた。異なる言語を操る子供同士が、互いの意思疎通をする為に、使っていたものだが、こんな話は、子供より大人の世界にこそ、必要とされるものだろう。大切な商取引、重要な意見交換、様々な場面で、通訳の存在は欠かせない。誤解を招かぬ為にも。
そんな当たり前のことを、すっかり忘れていたかの如く、ある発表があったと報道は伝えている。外遊先が、そんな言語を扱う地域でなく、予想外の「会談」だったということらしいが、その不手際を批判する声も添えられていた。何が重要か、批判する側には考えがあったのだろうが、それとは別に、もっと重要なことがあったのではないか、と思う。一つには、担当する組織が、こういう場面で全てを掌握することを常とし、自らの書いた台本どおりに事が運ぶことしか、考えていないことだ。想定外のことが起きる可能性は、彼らの思考の中ではゼロであり、その為の準備は無用とされる。準備怠りなく、という考えは間違っていないものの、これまでに何度も踏んだ誤りを、今回も繰り返す姿勢に、批判が集まるべきではないか。多くの国の首脳が集まる中で、予想外の出来事が起きる可能性を排除するのは、単純に頭が悪いというべきであり、大いに反省すべき事柄である。もう一つは、これを自ら発表した意図に、誰も目を向けようとしないことだろう。事実こそが重要という報道姿勢は、自らの考えを入れ込む気配が感じられず、表面しか見えない無能な人々の姿だけが、明確に映し出されている。どちらも、責任部局の問題もさることながら、伝える人々の劣悪なる能力が、表面化している現状を表しており、ここでも、外圧に頼ることなく、自らの力で解決を図ることが望まれる。
引っ越しの顛末をもう少し書いておきたい。前の場所を去らねばならなくなったのは、有料化するとの予告があったからだ。無理難題とは言い過ぎとしても、供給する側が何かの理由で制度を変更するのは、何処でも聞く話である。元々、ただというのがおかしい、との声もあるくらいだから、当然か。
いずれにしても、少し余裕が持てたのは、予告が二ヶ月程前になされたことで、それについての配慮は感じられる。その中で、まずは引越先を探すことから始まる訳で、例の如く、検索で幾つかの候補を挙げ、それぞれに内容を検討してみた。新しい場所は、多分個人の管理による所と思われるが、加入者を徐々に増やしているだけでなく、一つあたりの容量を増やす措置が行われたばかりであり、管理が無難に行われているように見える。加入についても、審査のある方を選んだ訳だが、それもある程度の意図があってのことだ。設置については、特に問題が起きる訳でもなく、転送ソフトを使ってやれば、円滑に終わった。ただし、いざ開設となると、以前のままでは動かぬソフトもあり、少しだけ書き換えが必要だった。こういうことをやっている人にすれば、ごく当然なことでも、普段、そんなことをしていない人間にとっては、何処をどう変更すれば良いのか、一々悩むこととなる。まあ、なんだかんだといっても、こういう難儀を避けようとすれば、所謂ブログを使えばいいわけで、わざわざ面倒を買い込んでいる訳だから、文句を言っても始まらない。実は、まだ未整備な部分があり、この独り言の過去ログについては、メニューの中に機能しないものがある。よく考えれば、そこで必要となる訳でもないので、削除しようと思っているが、既に450にもなる数を相手にすると、面倒という言葉だけが浮かぶ。少し時間をかけて、一つ一つ処理するしかないのだが。
追い立てられるようにして、だったが、何とか新しいサーバーに引っ越した。ついでと言っては何だが、少し内容も変えてみた。大した違いはない、と見る向きもあるだろうが、一番大きな違いは掲示板である。これまでのものは、悪質な書き込みが多かったので、それを防ぐ意味も含まれている。
最近は、多くの掲示板で使われている入力方法だが、そこに表示される記号を打ち込み、その一致によって書き込みを認めるという方式だ。このところの書き込みの多くは、自動的に行われるものであり、これについては防ぐことができると思う。ただ、以前から何度も指摘しているが、大阪のアクセスポイントから侵入する輩に関しては、何度もしつこく繰り返してくることから、自動かどうかが明確ではない。まあ、こういう社会では頭の足りない連中が蔓延ることは、どうにもならないことと受け取られているから、こういう場所もこまめに対応するしかないのだろう。驚くのは、アクセスポイントとなっている場所で、何度も同じように許可を与える姿勢には、呆れるばかりである。余計な力を使わずに、小さな稼ぎを積み重ねる、という手法では、これまた仕方のない所なのだろうが。いずれにしても、それが一番大きな変化であり、以前の掲示板は閲覧専用として、残すことにした。だから、もし、必要を感じた時には、そちらを利用して欲しい。検索機能がついているので、心配ないと思う。一つだけ、注意を促しておきたいのは、新しいサーバーは安定性が今一つなのか、時々エラー表示が出ることがある。これは一時の不具合らしく、もう一度同じ操作を繰り返すと、異常なく表示される。理由ははっきりしないが、そんな特徴があるので、注意して欲しい。