パンチの独り言

(2010年10月11日〜10月17日)
(人気、改変、曲解、侵害、多数決、理解、伝達)



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10月17日(日)−伝達

 表現力の低下が問題とされたのは、何時のことだったのか。その後も、その傾向は続いているように見えるが、その一方で、若者の創作意欲は衰えていないとの指摘もある。これが問題を解消すると見る向きもあるようだが、現実には、ほんの一握りの人の話で、全体を語るという間違いを表現するだけなのでは。
 言葉による表現には、耳から入るものと、目から入るものがある。言葉に違いは無いと言うものの、実際に触れてみると、それら二つは大きく異なることが判る。音で入るものは、録音でもしない限り、その場限りのものであり、瞬間の理解が重要となる。それに対し、文字で入るものは、目で追いかける時に、行きつ戻りつの動きがあり、理解に向けて、確認を繰り返すことが重要となる。話はいい加減でも良いが、文字にする時には慎重になれ、と教わることが多いのは、こんな事情があるからだろう。話が好きで、魅力的と言われる若者でも、文字を介した途端に、訳が分からなくなると言われることが多いのは、場当たり的な内容と深遠な内容との違いによるのかもしれない。どんどん時間が流れる中で、人間は暮らしているわけだから、話ができるかどうかは、とても重要なことなのだが、人間がこれ程の発達を遂げたのは、それを文字という媒体で残すことができたから、ではないだろうか。その意味で、文字を介した情報交換の手立てを、持ち合わせていない人間は、大いに不利な立場に追い込まれることとなる。話すときの整理と書くときの整理と、気持ちや考えを組み立てることに違いは無いように見えるが、実際には、残すものの違いから、大きく異なるのではないだろうか。

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10月16日(土)−理解

 適材適所と言われても、その対象となる人々には、予期せぬ配置換えが起きる。人事関係者にとっては、より良い状況を目指す為の、一つのきっかけに過ぎないことでも、当人にとっては、まるで地獄に落とされるような感覚のこともある。命令する側の都合が、それを受ける側に理解できないことが一番の問題となる。
 効率化、という言葉が好んで使われたこともあったが、犠牲者を出してまで、といった印象が出てくるようになると、その問題が表面化し始めた。効率の為に、様々な犠牲を生じるようでは、本末転倒ともなりかねない、ということだろう。人事異動においては、適材適所が最優先されると言われるものの、適材とは、適所とはと、それぞれを考えてみると、その配置換えが必ずしも正解とも思えないこともあり、納得できないこととなる。そこから悲劇が生まれるとなれば、回避する手段が必要と指摘される。だが、それが始めの所まで戻ることに繋がっては、元も子もないわけで、全てを無に帰してしまう。そちらの方に向かうのではなく、別の解決法を模索すべきなのだが、当事者の悩みを取り除くのは難しいと言われる。問題が表面化してからでは、遅すぎることとなるが、現実には、如何なる説明がなされるかが、分岐点になるのではないだろうか。対象となる人物の、適材たる部分、新たな役割の、適所たる理由、様々なことを説明した上で、納得に導くことが重要となる。ただ、最近の傾向を見ると、こういった説明に対する理解が、様々な理由で及ばないことの方が、より大きな問題となっている。昇進を望まぬ人間、楽な仕事を希望する人間、そんな人ばかりが目の前にいたら、人事は容易ならざる状況に陥る。他人への理解の重要性が、再認識されるべきか。

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10月15日(金)−多数決

 あることをきっかけに、突然導入された民主主義は、果たしてこの国に定着したのだろうか。それ以前の考え方が、それを境に切り捨てられたから、他の選択肢が無くなったことは事実だが、制度そのものが理解されているか、正しく行われているか、といった質問を繰り返しても、まともな返答は無い。
 どの段階で、この考え方を適用するかは、国ごとに解釈が異なる。世界を見渡してみても、入り口の部分に厳密に適用される所と、殆ど全ての決定に適用される所があり、同じ制度が存在していても、全く違った様相を呈することとなる。この国の場合、導入当初から、どちらかと言えば、前者の方法が専ら使われてきたようだが、この所、様子が一気に変化したように感じられる。民衆の考えを反映させる為に、代表者を選んだ上で、決定の場を設けるのが、手続きを簡素化する為にも、効果的なものと受け取られてきたが、最近は、たとえ面倒な手続きが必要としても、直接的な全体の反映を目指すことの方が重要との考えが、台頭してきたようだ。その結果、直接投票のような仕組みが考えだされ、それを本来ならば、一部の人々の努力で決められてきたものに、適用するようになってきた。「コンテスト」などと名付けられた手法は、いかにも、と思わされる所があるものの、どうにも違和感が拭えない。開示を求める声に応えたとする解釈もあるが、その効果は否定できないものの、その後の意思表明に関しては、的確な意見の吸い上げには繋がりそうも無いように見える。一部で流されているように、単なる人気投票の一種とも見られ、数の勝負に挑む仕組みであり、この国に蔓延する民主主義に対する誤解に基づくものとも思える。驚くべき暴挙と、後世に伝えられるかも、と。

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10月14日(木)−侵害

 弱者の保護が第一と、対策を講じたり、処分を下す。人権擁護の基本と考えれば、ごく当然の動きに違いないのだが、その実態は、呆れるばかりのものが多い。強者と見なされた人への対応が、人権を無視したとしか思えないものだったり、過剰な反応が弱者に勝利をもたらすことがあり、当事者の感覚を疑う。
 こういった力関係は、問題となったものも含め、事後処理の中にも、問題となる可能性があることを、意識しておく必要がある。しかし、人間とは不思議なものらしく、自らが裁く側に回った途端に、保障されるべき権利に対する配慮を失うことが多い。こんな成り行きから、一方的な処分が導かれ、ある人の権利保障が、別の人の権利剥奪へと変換される。この仕組みの中で欠けているものは、当事者以外の関わりであり、特に個人の権利を護る場面で、情報の統制が行われることが多く、一部の人間の判断が全てとなる点が、大きな問題を生じる。偏りは、全ての人間が抱える問題であり、それを全く持たない人間は殆どいない。こんな問題を回避する手立てとして、より大きな範囲での検証が用いられるが、情報管理の観点から、不十分なものに基づく判断が強いられる為、うまく機能しない場合が多い。結果的に、被害者保護ばかりが優先され、加害者の権利を安易に奪う決定がなされる。決定を下した人々は、まるで正義の味方のように振る舞う場合もあり、何様と思いたくなることさえ起こる。単純に、意識の持ち方次第と見る向きもあるが、所詮、裁く能力を持ち合わせないだけかもしれず、それを採り入れた形で、仕組み自体を慎重に検証する必要がありそうだ。組織としての責任を考えれば、当たり前のことが蔑ろにされていることが最大の問題だけに。

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10月13日(水)−曲解

 出世を望まぬ人が増えていると言う。非現実的な夢を抱くより、現実を見つめるべきといった考えは、実際には無いようで、ただ単に、面倒は御免というだけらしい。社会全体に、責任の問題が大きく取り上げられるが、ここにもその負の面が影を落としている。全ての責任から逃れようとする、そんな心があるのか。
 そんな風潮が高まる一方で、それを更に加速させると思える動きがある。ハラスメントと呼ばれる、一連の作用のことだが、何故責任に対する認識と関係してくるのか。立場を利用した圧力の問題は、その被害者にとっては、非常に大きく、避けきれないものと扱われる。そこから、救済の仕組みを導入することが、あらゆる組織において必須条件となっているが、その動きが、全く別方向の作用を及ぼし始めていることは、まだきちんとした形で認識されていないようだ。整備に走っている最中、こんな意見を出したとしても、組織内では無視されるのが精々だろうが、現実には、行き過ぎとしか思えない対策が、別の被害者を産み出しているわけで、このまま放置することは、制度そのものの意義を無くしかねないのだ。力を持つ人間が、持たない人間を圧することは、あってはならないこととされる。これはごく当たり前のことに思えるが、その救済がある権利を発生させ、それにより、被害者の権利の保障が、加害者とされた人間の権利の喪失に繋がるとしたら、果たしてそれは正当な措置と言えるのだろうか。力を持たぬ人間こそが、最も強大な力を持つ、あり得ない図式が、今や現実のものとなり始めている。これが責任の問題と結びつき、複雑な様相を呈する。そんな状況で、出世は何を意味するのか、小賢しい人間には判っているらしい。

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10月12日(火)−改変

 新しい場所になってから、古い所を訪問してくれていた人が、次々訪れてくれた。ただ、ヤフーのサイト紹介が依然として変更されていないので、わざわざ入力し直すことを、面倒と思う人は来ていないようだ。もう一つ、検索用に徘徊するタイプの仕組みは、古い方に顔を出し続けているようだ。
 こういう仕組みはそれぞれに面白いものだと思うが、人間が介在しない限り、修正を施すことは難しい。こちらも、自動転送を仕組んでおけばいいわけだが、それ自体を嫌う人も多く、自らの手で入力してもらうこととした。その結果、悪戯や様々な思惑で覗きにくる人の数は激減し、静かな場所になった。と言っても、一面にあるカウンタの数には変化がない。というのも、それぞれ、自動的に掲示板に書き込むソフトを使っており、そちらに直接入り込むからである。そういう馬鹿者どもは、こういう転居によって、始末できるということだろうか。ただ、こんなことも一時的なものに過ぎず、何処かで知られることとなれば、また再びの可能性はある。そんな理由から、従来の掲示板は閲覧専用とし、書き込み用のものは違う仕組みのものを導入した。こんなことも、所詮は鼬ごっこに過ぎないのだろうが、それでも一時の安穏は手に入れられる。折角だから、訪問した人たちには書き込んで欲しいものだが、如何だろうか。独り言は、相変わらずの調子で書いているが、以前との違いは、転送ソフト上での編集を使っていることだろうか。使い勝手は変わらないように思えるが、少し加筆の仕方を変えた。何処に変化があったか、気づいた人はいるのだろうか。

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10月11日(月)−人気

 何をするにしても、まずは数が問題、と言う人々がいる。多数決でなくても、多勢に無勢といったところだろうか。必要性を論じる為にも、数や割合が多い方が都合が良いと言われるし、意見の強さも、そんな所に左右される。その一方で、量より質という声もあり、どちらを優先させるべきか、迷う所だ。
 質を重視する声に対する反撃は、質を求める為にも数が必要となるというものが多いが、これは妥当な意見だろうか。平均的な集団の場合、その分布は一定の割合を示すから、全体の数が増せば、上位の数も増してくる。それにより、平均の質は変わらずとも、上質の数は増えるわけで、そこに選抜を繰り返せば、質の向上に繋がるという論理が成立する。だが、この論理には大きな欠陥がある。平均という仮定が崩れると、逆の現象が起きかねない、というものだ。増えた数の大部分が、上質のものでなく、下位のものばかりだった時、上位の数に変化はない。それだけなら、何も変化がないだけだが、その後の選抜に偏りが出た時、本来なら残る筈が、落とされる人が増える可能性が出てくる。それによって、却って、悪い結果を導くこともあるわけだ。人気を得ることを最優先にする人々は、こういった図式に思いを至らすことは少ない。まずは数を優先とし、質はそれに付いてくるものとするからだ。こんな状況が生まれる典型は、大学への進路の選択に現れる。何かをきっかけに人気が出ると、その分野の人々は歓迎するが、現実にはそれによって、より良い人材が集まるとの保証はない。それどころか、人気に左右される人々により、真の興味を抱く人々が押し退けられ、道を塞がれることもある。前者が次々に目標を変えるのに対し、後者はそれを唯一の目標とする。どちらに将来が託せるのだろうか。

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