パンチの独り言

(2010年10月18日〜10月24日)
(様々、上手、期待、従前、降板、実力、推薦)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



10月24日(日)−推薦

 日曜日の新聞の楽しみの一つに、書評がある。読んだ本の中に紹介してあるものにも、そんな所から知ったものがあるが、書評の内容に左右されるわけではない。確かに、読んだ人の感想は重要と思うが、その人の感想に過ぎず、こちらの感覚に当てはまるとは限らない。評判は評判と思っておいた方がいい。
 そんな調子だから、取っている新聞の書評を除けば、その内容を眺めることはない。その代わり、ある書店のサイトにある新聞書評の記事を頼りに、書名を探すだけなのである。書店に出かけても、立ち読みをしたことは少なく、少しだけ中身を眺めて、買うかどうかを決める。書名だけで判断することに、心配がないわけではないが、元々、そんな感覚で選択しているのだから、まあ、それで良いということだ。だから、魅力的な書名と著名な作者という組み合わせのものでも、少し読み進んだ途端に、落胆することは少なくない。折角金を使ったのだから、という思いもあるから、最後まで読んでしまおうと試みるが、あまりに酷いものだと断念せざるを得ない。話題になったものと言っても、話題だけということも多く、結局は質の悪いものとの印象だけが残る。選者たちがどんな意図を持って紹介したのかは知る由もないが、それらの中に質の良悪が混在しているということは、何を意味しているのだろうか。よく知られているのは、出版社による紹介という、商売が深く関わるもので、癒着と見えないこともない。これは書評を作成する側の無責任が現れたものだろうが、書評する人間の無責任も問題とされている。読み切ることなく、中身を紹介する。実は難しいことではなく、目次を頼りに構成し、これと思う所を拾い読みするだけのことだ。残りの部分に目が届くことがないから、全てを読むと、がっかりとなることもある。紹介とは所詮そんなものと思えば、書名を頼りもおかしくはない。

* * * * * * * *

10月23日(土)−実力

 成長期には、職に就くことが究極の目標となり、それに向けて努力を積み重ねるのが当然とされた。しかし、停滞期に入ると様相は一変し、努力の結果得た職といえども、その後の安定が約束されないことが問題となった。この状況は雇用側と被雇用側、双方の認識の変化によるもので、単純に片付けることはできない。
 安定した雇用を望む人が多かった時代には、雇う側も大したことを考えなくても、何となく関係の維持ができたのだが、力に応じた関係を望む人が増えるに従い、関係の維持は様々な困難に出合うようになった。終身雇用という制度は必ずしも正しいものとは言えないが、その一方で、互いを踏み台と考えるような制度は、安定性という観点からは、どうにも難しい状況を設定するものとなった。確かに、実力主義とか、正当な評価とか、そんな言葉が並ぶようになると、不満を露にする人々が増え、互いに、そんな考え方を受け容れざるを得ない雰囲気が生まれた。それを歓迎する声も、一時は多くなったものの、その後の経済の停滞も加わり、最近では、双手を挙げてといった風潮は消えつつあるように見える。そんな環境下で、今この時、職に就く努力をしている人々には、全く別の考えが芽生え始めているように見える。安定とか、終身とか、そんなことを望むべくもなく、まずは努力の結果を出さねばならない。全体の傾向がそちらに向かい始めた時、一部の人々は、その為の手法の提供を申し出た。それから暫くの間、そちらの方に向かう力が強まったが、あっという間に、底の浅さが問題視されることとなり、別の力への期待が高まる結果となった。職についてから、業を為すのに必要な力こそ、この時代において重要であるとの考えが表面化し、それを支援する制度の導入が検討され始めた。付け焼き刃と見える部分もあるが、言葉遣いの問題であり、結局、従来から必要とされたものを、改めて認めただけのことのようで、そんなことは当然との声も上がり始めた。いずれにしても、これが正しい方向であれば、真の力の蓄積に繋がる筈であり、期待できるかもしれない。

* * * * * * * *

10月22日(金)−降板

 改革は本来様々な思惑を基に実行されるものであるが、最近の傾向は、単なる思いつきの集まりばかりとなり、筋の通った話の流れになっていないものが多い。朝令暮改と揶揄されたのは典型だろうが、次々に繰り出される新たな策は、たとえそれぞれに光るものがあったとしても、互いの繋がりは希薄となる。
 何故こんなことが起きるのか、不思議に思う人もいるだろう。特に、論理構築があらゆる行為において重要と学んできた人々にとって、根幹を成すものを失うことは、重大な欠陥に感じられるだろう。しかし、ここが面白い所なのだが、この所、こんな愚策の連続を批判される世代は、現実には、ある時代に様々な形で論理を築くことの重要性が指摘され、その状況下で、批判に対峙することが避けられないこととなっていた。三つ子の魂からすれば、その時期に築かれた論理展開の道筋が、それから数十年経過したとしても、思考に影を落とすと思いがちだが、今目の前で展開されているものは、その対極にあるものに思える。全ての思考を拒否し、全体の道筋を考えることなく、場当たり的な変革を並べる。「総括」の対象になると思われるものに、これ程安易に飛びつくのは、どういう意識改革だったのか。そんなことに思いを巡らすと、一つの答えが見え始める。それはつまり、彼らの以前の状況は、単に風潮に合わせて装っていただけであり、その本質を理解した上での行動でも、自らの思考に基づく判断でもなかったのだ。時に強く批判される、若者の流行を追う考え方と、何ら変わらないものを、国を挙げての大騒ぎの最中に、まことしやかな形で行ってきたことのつけは、今、この瞬間にこんな形で現れている。罪の意識は微塵もなく、正しいと信じたことをその場しのぎに行う人に、最も有効な手段は、舞台から降りて貰うことに他ならない。

* * * * * * * *

10月21日(木)−従前

 従来通りとか、以前と同じとか、当事者からは戸惑いの声が上がる。ある特定の事例に対してだけでなく、多くの事柄に対して、同じような実態が伝えられるのは、社会全体に実体の見えない何かが広がっているからだろう。それによって、以前ならば何の問題もなかったことが、大きな問題へと変化したようだ。
 状況の変化にどう適応するかが、様々な場面で指摘されるのだが、始めに書いたことが問題となるのは、肝心の適応が欠落しているからのようだ。多くの場合、ある一方にだけその責任が問われており、そちらの改善が図られるようだが、現実には、もう片方の問題こそが、根源となっているように思える。昔ならば問題なかった、という受け答えに対して、多くの批判が寄せられることがある。その殆どは、時代の変化に適応していない、というものだが、時代の変化とは無関係に、一本筋が通った考え方をも、その範疇に入れてしまうのはどうだろうか。あれもこれもと、要求を掲げることが当然という時代には、こんなことも当たり前と見られるようだが、そういった風潮が広がるにつれて、歪みが高まることとなった。基本的なことさえ蔑ろにされる状況に、疑問を抱く人々も沢山いる筈だが、今の情勢は、そういう声が抑え込まれる状態にある。これでは、順序だてられ、積み重ねを想定した手法が適用できないこととなり、一時しのぎや、場当たり的なものばかりが、注目されることとなる。既にそんな状態がかなり長い期間続いたこともあり、ごく当たり前と見る向きもあるが、本質を見失った姿が垣間見えることもある。何処に向かうのか、判っている人はいるのか。

* * * * * * * *

10月20日(水)−期待

 皆の喜ぶことを、という思いを実現させつつ、時代は流れてきたようだ。その結果、様々な歪みが生まれ、複雑に入り組んだ混迷が拡大しつつある。喜びとは、個人の利益の現れに違いないのだが、集団、社会として、どんな利益が追求されるべきか、殆ど議論されることもなかった。結果として、個人優先だけが残った。
 個人が優先されることが明らかになると、人々は自らがその対象となるように、画策を様々巡らせる。それが個人の能力の向上に繋がれば、社会の発展が望めるので、これ自体が間違いとも言えない。だが、これまでの経過を顧みると、一時の利益を追い求める人々が、巷に溢れてしまい、向上などという言葉は、何処かに忘れ去られてしまったようだ。この状況が長年続いた結果、施しを願う人ばかりが押し寄せ、じっくりと努力を積み重ねることは、無駄と切り捨てられる風潮が高まった。ここまで来ると、そう簡単に螺子を巻き戻すことはできない。繰り返された応急措置が、積み重ねられて腐りきった社会に、自分で浄化する力は残っていないように見える。これについては、様々な意見があると思うし、悲観的になる必要はないとする向きもあると思うが、現状を眺める限り、かなりの歪みが蓄積していることだけは間違いないようだ。では、誰がどのようにこれを解消させるのか。他力本願を続けてきた人に、自力を強調したとしても、簡単には動き出しそうにもない。だが、他からの力には、何の効力もなく、ましてや、人気取りに走る輩には、期待より、落胆が似合うものだろう。これ程明らかなことにも拘らず、依然として頼ろうとする人間には、何を言っても無駄だろうが、少しは違和感を抱いている人々なら、何か思いつくかもしれない。となれば、誰を相手にすべきか。

* * * * * * * *

10月19日(火)−上手

 自分の考えを披露する方法について、様々な所で紹介されているから、今の人々はすぐに身に付きそうに思える。そんなことを考えながら、周囲を眺めてみると、確かに、自己主張の強い人間の存在が目立つように思える。だが、彼らの主張の多くは、全体を理解した上であるものが少なく、所謂独り善がりに見える。
 そんなことを気にしながら、表現力の問題を話している席で、ある意見が印象に残った。それは、最近の傾向では、自分の意見ばかり言っていて、他人の話を聞く能力の低い人が多い、というものだった。言われてみれば、思い当たる節もある。自分の意見を上手く整理し、他人にも分かり易い形で紹介できる人の多くは、他人の意見に対しても受け止める姿勢ができているように見えるのだ。特に、面白いと思えるのは、こういう人の多くが、年配の人々の話を聞くことに、何の苦痛も感じていないことだろう。当人からは、参考になる話が多いからとか、話自体が面白いとか、そんな感想が出てくるが、これに対して、苦手を感じる人々からは、繰り返しが多いとか、自慢話ばかりだとか、そんな否定的な感想ばかりとなる。これは、特に年齢によるものとは言えず、誰を相手にしても、前者は寛容に構えているのに対し、後者は常に否定的な態度を表す。そんな傾向が強くなってきたのではないだろうか。自らの意見を表明する力と思われているものが、現実には他人の話を理解する力と同じこと、となるのはとても興味深いが、果たして、その程度のことを意識できているのか、問題を抱えている彼らに聞いてみる必要がありそうだ。そういえば、話をすることが苦手な人の多くは、他の人の話を要領よく纏めることも苦手であり、要点を押さえる要約も、抜粋にしかならない。そんな所にも、能力の違いが出ているのだろう。

* * * * * * * *

10月18日(月)−様々

 色々いるのが良い、という趣旨かと思えたが、どうもそうではないらしい。色々いるのをどう利用するか、という点が主題となっているようで、一般の人々には理解し難い論争が続いている。二つの論点は、全く正反対に向かっているように見えるから、同じ場で議論されることには馴染みそうにもない。
 こんなことは、普通の考え方からは、すぐに判りそうに思えることだが、何故だか、世界中の人々が集まって、あれこれと言い合いをしているようだ。もう一つの環境問題にしても、いつの間にやら、金銭取引との絡みばかりに注目が集まり、経済問題の一つと見なされるようになる。それによって、更なる注目が集まるから、一部の人々や企業には利益追求の的となる。経済活動が、何にもまして最優先される時代には、当然のことに思えるらしいが、問題の本質は見失われ、全く間違った方に向かうこととなる。こんな事例は、以前ならばさほど注目されることもなかったのだが、最近、特に目立つ存在となってきた。それだけ、経済の話題が中心と見られるからだろう。だが、環境問題の主題は、そんな所にある筈もない。流れに上手く乗って儲ければ、それが一番良い結果となる、とする向きもあるだろうが、それによって、根本からの解決が阻まれては、元も子もないのではないか。その上、この手の方策を編み出す人々は、本質とか根本といった考えに、思いを至らすこともない。兎に角、まずは金の動きを導きだし、それによって利益を上げることが、最大の目標とされる。多様性の問題も、いつの間にか、それぞれの生き物の金銭的価値に話がすり替えられ、国の経済水準をも巻き込み、混迷を極めている。本来の問題は、何だったのか。

(since 2002/4/3)