古いサイトは今日まで、ということで、退会届を出してみた。直後に覗いてみたけれど、既にアクセス不能となった。意外な程鮮やかな手際の良さ、少し驚いてしまった。こんなことを書いていると、もし、昔のサイトに久しぶりにアクセスしようとする人がいたら、と心配する人がいるかもしれない。
確かに、そんなことをしたら、アクセスできないというページが出てくるだけだ。これでおしまい、と言うのでは申し訳ないので、一応、別の策をとっておいた。これまでにも、多くの人が使っているが、ヤフーのサイト紹介の検索ページがある。そちらには、以前のサイトが登録されていたが、先日、登録変更を申し出たから、既に変更されている。だから、そちらを頼りに行き着くことができる筈。何とか間に合ったつもりだが、また、何か起きてしまうかもしれない。まだ、グーグルの検索では、古い方しか表示されない。こちらは何時までかかるのか、さっぱり判らない。元々仕組みさえよく判っていないようだが、こういう状況になると、意外に鈍い仕組みに驚いてしまう。まあ、そのうちどうにかなるだろう、と言うしかないのだが。さて、どうなることやら。ということで、引越はこれにて完了である。今後とも、末永く、よろしくお願いします。
売ってもいない喧嘩を買われて、呆然とすることがある。人それぞれに感じる所が違うのは理解できるが、だからといって、誤解に基づいて激昂されても、相手のしようがない。言葉の足らない部分は謝ることができるが、勝手な解釈を積み重ねられたのでは、手の施しようが無くなり、お手上げとなってしまう。
意思の疎通が重要ということは判っていても、それを図る手段は数少なく、更に相手があってのこととなれば、その難しさばかりが際立つこととなる。感情の起伏が激しい相手に対して、どんなに誠意を尽くしても、こちらの真意が伝わることは少ない。その上に、恨みつらみが被さるとなれば、どんな言葉も裏の意味しか伝わらない。人間関係の難しさばかりが目立つ所となり、人によっては、自分を責めることとなるのだろうが、多くの場合は、一人の力で解決できるわけもなく、当事者同士の関係が全てとなる。とはいえ、一方的な関係解消や怒りに満ちた行動には、対処の方法はないわけで、周囲から見れば、全く馬鹿げたものに過ぎないが、それが重要な関係にあるものであれば、放置するわけにもいかない。世の中では仲介者の存在が重要と言われるが、これに付いても、当事者の感覚が優先されるから、一概に、特効薬となるとは言えないだろう。大きな存在同士であれば、影響も大変大きくなるわけで、その解決は何としてでも達成しなければならないのだろうが、ごく一般の人々の間での同じような出来事は、そんな制限も存在しない。となれば、激しい遣り取りの後に来るのは、冷たい関係となるだけのことであり、互いに、かは定まらないとしても、無視することだけが唯一の方法となることもある。触らぬ神に祟りなし、では困ったものだが。
英語、英語と、相も変わらぬ礼賛の声に、何事と眺めると、視線の定まらぬ言論に、大学人の危うさを垣間見た気がした。某公立大学の長は、以前からの主張として、高等教育での英語の使用を訴えるが、その根拠は視線同様に定まらぬ。批判の矢も、的に届かぬ有様で、そんな主張を長年続けても、何も起こらぬのが当然だ。
この所、外に向かわぬ若者の心を危ぶむ声が高まっている。自らの経験を礎に、多様な出会いこそが重要との指摘や、冒険心の大切さを説く声が聞こえるが、それらの主張の中に大きな欠陥が見え、彼らの論理の脆弱さに問題の根源を見る気がする。始めの話も同様だが、自らの抱えてきた劣等感を、こういう形ですり替えることは、これからの道を探る人々には、大した影響を及ぼさない。どんな形で克服したかを論じても、その環境におかれなければ、実感など湧く筈もない。そこに至った時、本当に役立ったのは、それまでに培った知識や考え方であり、それは自分の使ってきた言葉で築かれたものである。そのことを忘れ、上辺だけのことをまことしやかに論じるのは、本質を見抜けなかった人のやることであり、そんな人の言葉はどれほどしつこく発せられても、相手に伝わることはあり得ない。意思疎通に言語は必要不可欠とはいえ、それに乗せるべく考えられるものが、希薄で空虚なものでは、元も子もなくなる。近年の高等教育の評価が下がり続けているのは、こういった類いの人々が、自らの経験に基づく、何とも下らない思いつきを、次々と実践していったからであり、そんな声を今更取り上げる姿勢に、呆れるばかりとなる。留学の経験と言いつつ、留学の意味そのものを取り違えるのも、同じ根っこから来るのだろうが、若者を無理矢理ある方に向けるのは止めるべきだ。
病気になった時に、薬を飲むことは当然と思われている。だが、何の為に飲むのか、と考えると、その効果について明確に知らないことに気づく。本来、病気を治す為には、その原因を取り除くことが肝心と思える。実際には、その考え方からすると、多くの薬が資格を失うこととなるから、不思議なものだ。
風邪をひいたと飲む薬の効能は、熱を下げる、咳を抑える、鼻水を鎮める、そんなことしか書かれていない。風邪の原因がウイルスならば、それを死滅させることが第一と思われるが、そんな効果を持つ薬は売られていない。胃薬の多くも、胃酸の放出を抑えるとか、そんなことばかりが目立ち、根本原因を取り除くことにはならない。まあ、この場合は、多くが精神的なものから来るわけだから、別の形での治療が必要となるのかもしれない。こんな考え方が最も当てはまるのは、まさにその治療に使われるものではないか。心の病として、様々な形で紹介されるものの多くは、最新の治療薬の登場により、完治する可能性が高まったと言われるが、本来、これらの薬は症状を抑えるのが主体であり、原因そのものを無くすものではない。患者にとっては、負担のかかる症状を抑えてくれれば十分という思いがあるのだろうが、治すという行為からするとおかしな感じがする。原因は自分自身にあるのだから、それを除いたら、存在が危うくなるということか。いずれにしても、これらの薬の効能はどうであれ、症状を抑えている間に、患者自身の回復機能が働き始め、それによって治癒するというのが本当のところだろう。こんなやり方と大きく違うのは、抗生物質と呼ばれる薬であり、これは病気の原因となる細菌などを直接死滅させる効果を持つ。その意味で画期的なのだが、生き物の不思議は、こんな効果を上回る能力の獲得という、変化が生じることだろう。強すぎる効果は、副作用を産むということか。
意思疎通はあらゆる場面で重要となる。当然のことと思えるが、改めてその必要性が取沙汰されるのは何故だろう。特に、能力の一つとして注目を浴びるのを眺めると、頷きたくなる部分があるものの、違和感を覚える。人間としての最低限の能力を、持ち合わせていない人々の存在には、首を傾げるしかない。
これだけでも驚きなのに、それを更に際立たせているのは、その獲得の為の手法が紹介されていることだ。人が集団の中で生きる為に不可欠なものを、どういった形で身に付けるのか、興味深い部分もあるが、その中身を見るとがっかりする。段階的に訓練することで、誰でも身につけることができる、とあるようだが、元々不可欠なものだけに、獲得できない方がおかしい。これはつまり、秘訣を紹介しているようで、現実には、ごく当たり前のことしかしていないことを意味する。いい大人が、そんなことに真面目に取り組む姿は、悲惨な印象しか与えない。では、何故に当然の力を持てないのか。もし、それが誰でも持てるのなら、何が足らないのが原因なのか。簡単に思いつくのは、こういった基礎能力の大部分が、幼年期に獲得されるという事実だろう。歩くことは、生まれながらにしてできるものでなく、その後の訓練で身に付く。それと同様に、言葉による意思疎通も、幼稚園から小学校に至る道筋で、発達するものだろう。こう書くと、だから学校が大切で、という意見が出るかもしれないが、それ以上に重要な存在は、家庭なのだ。子供と長く過ごす存在は、母親であると思うが、この組み合わせでの話の機会こそが、根源であると言える。外の世界から戻った子供が、母親にその報告をする。これが基本となり、話す喜びと、伝える難しさが、複雑に入り組みながら、発達を促す。放置する親や、無視する親では、何も起きないのは当然で、それが後々の苦行に繋がる。
興味を持たれれば、多くの人が押し寄せて、水準が上がる。科学分野の最高の賞の受賞者が出る度に、こんな話題で持ちきりになる。進学者の傾向が大きく変わり、その分野の将来の繁栄が約束されるかの如くの話まで出てくる。成る程とも思える論理だが、実際には、逆効果の方が遥かに大きいのではないか。
本当に興味を抱く人間なら、少しのことで心がぐらついたりはしない。彼らにとって、受賞は身近で嬉しいことには違いないが、それによって、進路が変わることもない。一方、注目を浴びたいとか、人気に左右されるとか、そんな性質を持つ人々の多くは、こんな話題に乗ることを第一とする。彼らにとって重要なのは、その分野自体のことではなく、人の注目度であり、それが変われば、自分の道も変わるというわけだ。もし、増加の大部分がこんな原因から来るものであれば、さて、歓迎すべきものか、怪しくなってきはしないか。じっくり気長に構えて、将来に向けての準備をする人たちは、急激な変化に対応しにくい。となれば、押し退けられて、別の道を余儀なくされることもある。こういったことが、全体の分厚さを失わせ、薄っぺらで脆弱な体制が築かれるとなれば、将来はかえって危ういこととなる。これと似た傾向にあるのが、自己主張の重視であり、最近はどの段階でも、将来に向けての考えの確かさが尊重される。以前のように、のほほんと暮らす人間には、将来の道は開けず、場当たり的でも、それらしい言動を行う人間が重用される。その結果、柔軟で、かつ強固な組織が形成される筈が、現実には、全く逆に向かっているように見える。場当たりは変わらず、次々繰り出される秘策は、空振りばかりとなる。口先だけの論理が通用しない社会では、こんなことは当たり前だが、そんな人間を選ぼうとするのだから、不思議なものだ。
本を読まない人の数が増えているという報道に、驚いた人はいるのだろうか。出版業界の不況が続き、出版物の質の低下が取沙汰されている中で、興味を失う人がいても不思議ではない。ただ、この状況の真の理由は、どうも別の所にあるとの指摘もある。活字は、携帯とネットで十分ということなのだろうか。
代替物に触れる機会があるから問題ない、という指摘も聞かれるが、これが正しいかどうかは、どうも人によるものと思える。昔から、本を読む人が偉く、そうでない人は教養がないとの意見があるが、そうとも限らないだろう。本も情報源の一つだが、他の情報源は巷に溢れている。どれか一つに触れておけば、新たな情報を手に入れることができる、というわけだ。その見方からすれば、今の時代は、多彩な情報源に囲まれており、その気になれば、何でもできそうに思える。だが、現実は、そうなっていないように見える。つまり、玉石混淆の状態から、取捨選択の重要性が高まり、興味本位の情報ばかりに目がいく傾向に、警告が鳴らされているのだ。となれば、時間をかけ、点検を繰り返した上で出版される本は、信用に値するものとなる。ところが、そういう思いを抱きながら、最近の出版物を眺めると、実際には、がっかりすることの方が多い。何故なら、中身の多くは著者の思い込みや偏った見方の紹介に過ぎず、正確な情報提供とはほど遠い状態にあるからだ。これが質の低下を意味するのだが、著者の能力低下より、編集者の問題の方が大きいのではないか。乱発される新書でこの傾向は特に強く、読むに堪えないものさえ出回っている。以前なら、誰が読んでも参考になる知識を提供するものとして、時に、爆発的な人気を得ていたものも、最近は、そんなものが出てくる気配もない。どうしたものか。