即席と聞くと、何となく悪い印象を受ける人が多いのではないか。じっくりと時間をかけて作るのではなく、あっという間に簡単に作るという意味が込められているようで、手間をかけずにというのが、何となく手抜きに繋がるような雰囲気を醸し出す。だが、その一方で、飛びつく標的にも即席が決め手となっている。
即席がすぐに判る形で社会に出てきたのは、あの麺類の登場からだろうか。もう半世紀前のことになるようだが、当時も極端な反応があったのに対し、その後も、即席という言葉にはどうにも悪い固定観念が付いて回るようだ。手抜きとか、心がこもっていないとか、悪い印象を与える言葉との繋がりはさておき、実体はそれと似ているのに、違った印象を与えているものが世の中には溢れている。すぐに身に付くとか、こんなに楽にとか、そんな売り文句を付けた商品が、毎日のように目の前に現れてくる。多くは、人の能力を伸ばす為のものらしいが、即効性を謳い文句とするものに、魅力を感じない人はいないのではないか。もし、それが事実ならば、すぐにでも手に入れたいと思うが、その一方で、本当にその価値があるのか、という思いも過る。そんな葛藤があれば、購入を思いとどまるのも簡単だが、決断の早い人たちは、どうなのだろう。手っ取り早く身に付くならば、ということだけが心に残り、実際に試してみた時に、全く違う状況に陥ると、どんな感覚が出てくるのだろう。人それぞれに、適した方法があるだろうということは理解していても、王道とか、絶対手法とか、何やら怪しげな言葉が踊り、それに乗せられてしまう。確かに、きっかけはあるのかもしれないが、その後の積み重ねなどの努力がなければ、何も起きない。これ程明白なことに気づかぬほど、焦る心には、何があるのか。
プライバシーという言葉を最近見かけなくなった。法律の制定に従い、個人情報という表現が専ら使われるようになったからだが、その意味は少し違っているように思う。更に、この制度により、情報そのものに対する見方自体が大きく変わり、その管理に対する責任は急激に重くなったように感じられる。
元々、ここだけの話を、他で話す人は信用できるはずもなく、尾鰭まで付けられては、たまったものでない。考え方の基本はここにあると思うが、制度自体は少し違った観点から築かれたもののようだ。誰もが、自分自身も含め、何人もの情報を保持していると思われるが、そんな人々がこの話題に巻き込まれることは少ない。遥かに多数の情報を持つ立場にある人だけが、対象となっている為に、一般人にとっては、被害者になることはあっても、加害者になる筈はない、と思えるもののようだ。だが、基本となるのは特殊な考え方ではなく、ごく普通の、普段から持ち合わせなければならないものであり、そこを出発点とすることこそが、重要となるのではないだろうか。犯罪に使われる危険性、事件に巻き込まれる危険性、そんなものが見え隠れする中、ほぼ毎日のように、漏洩の話が伝えられるようでは、制度だけの問題と片付けることもできない。情報の扱いが杜撰で、管理さえしていない状況では、どうにもならない。以前のような名簿売りより、更に大規模な流出を知ると、各人の心掛けだけが頼りになると判る。確かに、必要とする人がいるからこそ、その情報が漏れた時に問題が大きくなるのだが、そこが問題かのように論じるのは的外れだろう。行政でも情報管理が問題となっているが、根っこは人にある。正義を掲げても、正当化はできない。
一部の人に仕事が集中するのは、今に始まったことではない。もし、昔と違う所があるとすれば、それは、そこに評価が絡んでくることだろう。こう書くと、良い評価を得る為に必死で働く人を頭に浮かべるかもしれないが、全く正反対の話で、大した仕事もしないで高い評価を得ようと動き回る人のことだ。
個人評価が重視されるようになり、仕事の量や質による正当な判断を期待した人は多い。しかし、現実に実施されてみると、結果は期待外れのものとなり、自己評価との乖離に悩む人もいる。元々、自己評価が自分自身を見極め、見直すきっかけに過ぎないだけに、それ自体が客観的な評価と結びつくと考えるが間違いとの指摘もできるが、評価という意味では同じ筈であり、それらにずれが生じることが問題と見るべきなのだろう。これでは評価の導入そのものが誤りであり、以前と同様の年功序列と周囲の評判による評価の方が、遥かに効率的であり、正確なものだとする意見が聞こえてきそうだ。だが、ここで問題にしているのは、評価全体の問題ではなく、まともに仕事や作業をしない人々の、過大評価にあることに気づいて欲しい。あの手この手を使いながら、基準に見合う部分のみに精を出し、全体の利益に繋がることには目を向けない人々が、こういう制度の陰で、私利に走っている。こういう輩をのさばらせておく為の制度では、本来の意図は消し飛んでしまう。基準の重要性は理解できるものの、どんなものも欠陥を孕んでいる。その意味で、それを実行する体制にこそ問題があると言うべきだろう。仕事に精を出す人々を正当に評価するだけでなく、怠惰な連中を排除する評価こそが、今の時代に必要なものであり、その為には基準だけでは足らないということだ
自由化と名付けられた制度の導入によって、実際には、不自由を強いられている人が多いのかもしれない。様々な制限を排除することにより、全てが対等な競争になるとする考え方は、一見正しいように思える。ところが、制度導入後の動向を眺めると、自由とは名ばかりで、既存の差を埋めることはより難しくなる。
そんな状況を見せつけられていると、別の自由化が話題に上っても、今度は騙されないぞ、といった雰囲気が流れる。世界を単一のものと見なす動きが高まるに従い、多くの国が互いの貿易の格差をつける制度の撤廃を開始し始めた。市場原理によれば、価格の決定は市場が決めるわけだから、そこに新たな負担を強いる制度は、余計なものと断定されるのだろう。それを排除する動きは、その見方からすれば歓迎すべきものなのだろうが、当事者たちには受け入れ難い部分もある。仮定の話としても、今回国内の利害が試算されたことは、これまでにはないものと評価されるべきだろう。だが、実際に出てきた数字には、担当者ごとの観点の違いが大きく反映され、お互いの理解は殆ど感じられない。縦割り行政と呼ばれる状況ではごく当然のことで、これを打ち破ることは従来から不可能と言われたが、それは本当なのだろうか。公には、互いのやり方に口出しすることは、控えるべきと言われているが、非公式に意見交換をする機会は作れるだろう。それさえ禁じられてきたとする声もあるが、例えば、科学都市を計画する段階で、関係省庁から出向した人々が話し合う場が設けられたと聞く。彼らが、そこから出向元に全体の意向を伝え、意見交換と共に調整が行われたようだ。要するに、必要を認めさえすれば、実施は難しくもない筈で、やれば済むこと、なのではないか。
四十年程前に科学都市として建設された場所は、様々な面で革新的な都市設計が実行された。ある面での便利さを追求すれば、別の面での不便が目立ち始める。全てを手に入れることの難しさを考えれば、当然のこととはいえ、最先端を謳った街には、多くの魅力と欠陥が入り交じった混沌が満ち溢れていた。
そんな中で、特に声が大きかったのは、文化の不在という指摘だろう。科学を追求する余り、文化的な香りが消し飛んでしまった、という意見なのだが、素直に受け容れられるものには思えなかった。確かに、美術館や図書館などといった、所謂文科系の施設が殆ど存在していなかったのは事実で、その方面への配慮に欠けていたと言われても、反論の余地はなかっただろう。だが、だからといって、文化全般の不毛地域と断言する態度には、強い偏見が感じられるのではないか。一般には、科学そのものを文化の一部と捉える動きは鈍い。しかし、科学博物館とか、科学館とか、そういう名称の施設は全国各地にあり、科学を愉しむ心を育てるのに、大いに役立っている。それを文化と呼ぶとすると、文系の人々から反対意見が聞こえてくるかもしれないが、そんな偏りを基にしてものを論じる態度には、文化の香りはしてこない。科学技術の発達で、生活が改善されてきたことを否定する人はいないだろうが、科学そのものが文化であるとする主張には、受け入れを拒む声が聞こえてきそうだ。最先端とは文化になっていないもの、という論法もしばしば使われるが、時代遅れを自ら暴露するだけではないだろうか。人間の生活に密接に関係するものは全て文化なのではなかろうか。
これ程の落ち込みを予想した人がいるだろうか。それも、一つ二つのことだけでなく、幾つものことが同時に起きていることには、偶然にしては出来過ぎといった感覚がある。だが、偶然かどうかは、簡単に判断できることではないだろう。原因が色々とあったにしても、その背景には共通の要素がありそうなのだ。
経済の停滞に対して、様々な見解が発表されるが、表層的なものばかりで、核心を突くようなものは少ない。所詮、後付けのものであり、多数の要因のうち、好みのものを取り上げたに過ぎない。その見方からすれば、そんな分析に耳を傾けるのは、馬鹿げたことに違いないが、と言って、他の見方の方が優勢かと言えば、そうでもなさそうだ。どれもこれも、思いつきを並べただけのこと、と言ってしまうのは簡単だが、代替案を示せなければ、水準の低い戦いに巻き込まれるだけのことだろう。このところの流れを見る限り、実態を反映しない数値の提示と、それを基にした分析が目立ち、思惑が先に立っている感がある。そんな中で、意図的な情報操作が頻繁に行われ、それらによる多数派工作が、一方的な論理へと導いていると思える。何故、こんな状況に陥ったのかと言えば、おそらく、成長期に真の意味での自信を持たずに暴走を続けた人々が、基盤となるべきものを失って、不安にかられた行動に走った結果と言えよう。自らが頼るべきものを見失い、次々に襲いかかる不安材料に、抵抗する術を失った結果、ここまでの落ち込みが続き、それを止める手立ては見出せないままとなった。その一つの要素は負の連鎖であり、正負が入り交じって展開する、これまでの動向とは大きく異なり、混乱に陥ってしまったと言える。自信とは何を意味するか、自ら見出さねばならぬということだろう。
様々な場所で、人気を優先する話が聞こえてくる。確かに、注目を浴びたいという欲望は、多くの人々にあるし、何か事を成そうとすれば、支援者の力が大きく働く。だが、最近の人気には、そういった力になるといった考えとは、少し違う事情が見えているのではないか。支援の本来の姿とは違う形の。
情報がゆっくりとしか伝わらなかった時代には、状況の変化もゆったりとしていた。ところが、新聞からテレビへと変化した頃から、少しずつその速度が増してきて、遂に、ネット社会が確立されるに至り、増加のテンポも急激となった。速度が増すということは、変化の度合いもそれに伴って増すことに繋がる。情報伝達が急速となれば、それに応じる側の変化も短時間に起きることとなり、起伏が激しくなるのも当然だろう。そんな中で、洗練されていない情報の多くは、嘘や操作を目的としたものであり、それに左右される人々は、真の意味での理解を経た判断を下していないこととなる。人気の上下が激しくなるにつれ、それにつられて右往左往する人が増えると、中身のない議論が増え、落ち着いた思考が難しくなる。最近の動向を見ると、そんな傾向は増すばかりとなり、自らの判断がブレていることに気づかぬ人も増え続ける。こんな社会では、まともな計画が実行できる筈もなく、ただ、一時の魅力を表に出し、長期的な計画を視野に入れていないものばかりが、提出されることとなる。時流に乗ることを絶対と考える人々は、中身の有無を考えることもなく、ただ、人気取りに走るばかりとなり、安定性に欠ける組織を作る。こんな状況は社会全体に広がり、一つの国だけでなく、多くの国にも同じ病が広がる。欲にかられた人々を相手にするのでは、こんな状態に陥るのは当然だが、それが破滅に繋がる可能性があるとしたら、よくよく考えて行動すべきではないか。