パンチの独り言

(2010年11月8日〜11月14日)
(地味、疑問、衆愚、短縮、終了、転嫁、露骨)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



11月14日(日)−露骨

 間違った情報を蔓延させている、と酷評すると、あっという間に反論が返ってくる。あらゆる情報を流すことが彼らの役割であり、それらを吟味するのは受け手の責任という論理だ。呆れるばかりと更なる批判を重ねても、彼らにはそれを受け容れる力はない。特別な権利を持ち、他とは違うという意識がないからだ。
 自分の意見を主張することが大切と、何時の時代からか強調されてきた。その結果は、物事をきちんと考える人間を育てるより、思いつきばかりを並べ、無責任な言動を繰り返す人間が、巷に溢れ、大きな顔ができる社会を導いた。主張を尊重する風潮は、一つ一つのものを吟味する素地を作ることに繋がれば良かったのだろうが、現実には、同調を獲得する為の手法の開発ばかりに繋がったように思える。大衆の賛同を得る為には、人気取りの言論が第一となり、論理性より、感情に訴える主張こそが最善とされる。その為か、情報提供の場でも感情を露にし、庶民にも理解できる安易な考え方が持て囃される事となる。画面に現れる人々の、低俗な考え方や、下世話な内容には、そんな理由があるのではないだろうか。愚民と呼ばれることを喜ぶ人はいないが、大切な人々と扱われれば、それが喜びに繋がることは多い。根拠とする所は同じでも、その表し方が異なってくると、まるで正反対の受け取り方ができるわけだ。これでは、まともな情報を正しく伝えるより、情報操作することの方が、遥かに安全であり、遥かに効果的となるのではないか。法律には感情が入り込む余地がないのに、そこに感情を持ち込むことで、大衆の心がつかめるとしたら、そちらを選ぶ。当然の結果と見なすのだろうが、逆の見方をすれば、それだけ冷静な判断ができない人を相手に、身勝手な考えを押し付けているということで、画面の前の人間の知能が低いことを前提としているのでは。

* * * * * * * *

11月13日(土)−転嫁

 様々な場所から膿が滲み出ている。いつの間に腐り始めたのか、腐敗しきった組織から、常識では考えられないような話が、飛び出てくる時代となった。そんな様子を眺めて、組織の腐敗を憂う意見を出す人々がいるが、その原因に触れることは少ない。組織の批判に終始し、その構成員に対する意見が皆無なのだ。
 こんな事態になったことは、時代の趨勢であると結論づければ、今できることは無くなる。自ら隘路に入り込み、袋小路に向かうしかなくなることに、気づかない感覚は、理解に苦しむものだが、社会全体にそんな空気が広がっているのではないだろうか。現実には、組織はそれを構成する人々によって支えられており、それがどうなるのかは、各人の心掛けや動きに左右されるものである。にも拘らず、姿の見えない組織というものに、全ての責任を負わせようとするのは、このところの無責任体制を築き上げてきた、ある時代を謳歌した人々のやり方なのではないだろうか。どうにもならないとか、一人では何もできないとか、そんな言い訳を並べ立て、自らの権利のみを主張する人々には、全体を考えるという道筋は、暗闇にしか存在しないものであり、何も見えてこないのだろう。前例に沿った形で、同じことを繰り返すのが、最も手っ取り早く、更には、何の工夫も要らないのだから、自分達が楽しむべき時間を、無駄に使うことも必要ない。本当に、それほど頭が使えない人々ばかりが、中枢に居座っているかどうかは判らないが、正しいものに使う能力を持ち合わせていない、ということだけは確かだと思える。同じことの繰り返しは、安全と思う人も多いようだが、現実には、悪い点ばかりが残りがちとなり、坂を下ることにしかならないのである。そんな選択をした人間が、今更のように、組織という実体のないものに責任を押し付けるのは、愚かとしか言いようがない。

* * * * * * * *

11月12日(金)−終了

 悲観的な見方は、この国に住む人々の特徴なのかもしれない。だが、そこにあるのは、二つの基準の適用であり、自分の外にあるものには、悲観的な見方がごく当然の如く当てはめられるのに対し、自分の中にあるものには、何の根拠もなく、楽観的な将来設計が施される。何とも都合のいい展開に思える。
 そんな人々に、世相は徹底して悲観的な情報を提供する。こうなれば、大抵のものに悲劇の展開が広がり、直接関係するものにまで、そんな考えを広めていく。情報提供者にとって幸いなのは、これが正の連鎖に繋がり、更なる悲観が大勢を占めることになる。ここだけを見ると、何の利益があるのか判らないが、悲観に苦しめられる人々に、手を差し延べる人たちには大きな利益を産むものとなる。経済が全ての基盤となる社会では、こんな展開も当然と受け取られるが、そんなものが意味を持つのか、そろそろ疑いを抱くべき時が来ている。そんな時代の終焉よりも、いち早く終わりが近づいている時代は、成長を続けるもの、技術革新が続くもの、そして、責任の所在が明確だった時代、なのではないだろうか。指示を待つだけの人間が増え続け、方針を描き出す人が不在となる中で、組織の維持は、単に下らないことを続けるだけとなった。継続は力という声も聞こえる中、検証もせずに、ただ漫然と続けるだけでは、悪い点のみが拡大することとなる。新たな改革が望まれても、継続しか頭に浮かばぬ人々には、できることは殆ど無い。こんな組織において、楽観が広がることは不可能で、結局は、悲観が広がるしかなくなるわけだ。いかにも、誰かのせいでこんなことが起きたかのような錯覚を抱くが、現実には、組織の構成員全ての責任でしかない。そんなことさえ理解できない時代は、そろそろおしまいにしないか。

* * * * * * * *

11月11日(木)−短縮

 多くの人が集まり、一つの課題に取り組む。これだけが役割ではないが、会議はそんな側面を持っている。ここで大切なのは、一つの課題を解決する為に、多くの人の力を集結させるという部分もあるが、会議という形で費やされる時間が、一人一人の時間と見なされるだけでなく、それら全てを合算したものになるということだ。
 一時間の会議を30人の人間で行えば、30時間分の人件費が必要となる。会議そのものの時間に注目が集まるが、経費の面から考えれば、全く違った様相が表面化するわけだ。この問題を重視した、ある役所ではそれを表示する仕組みを導入し、会議中に参加者全てが見える形で表示しているという。これにより、無駄な時間をなるべく省き、効率化を図ろうとするものだが、普及するかどうかは判らない。経費という形での表現は、理解を進めるという意味で、重要なのだろうが、それによって、肝心の会議が役割を果たせなくなっては、元も子もなくなる。課題解決を図る筈が、時間ばかりが気になり、議論が不十分なままで終わるとなれば、節約したつもりが、逆に無駄な時間を費やしたことにしかならない。元々、会議の時間は大いに目立つわけだが、その裏で、準備に費やされた時間はあまり問題とされない。実際には、その辺りの状況に問題の本質があるように感じられる。様々な形で準備された資料や、議論の進行の設定などが、効率化にとっては、最も重要な要素となるが、このところ無駄な時間と批判されることの多くは、こういう類いのものの準備が足らない為に、問題を生じたものばかりである。何処でも同じような状況にある所から判るのは、誰もが同じことを問題視せず、別のものに目を奪われていることで、その解決を図ることなく、問題のすり替えをしていることだ。

* * * * * * * *

11月10日(水)−衆愚

 格好良さばかりを気にしているのだろうか。一人一人の言動に、首を傾げることばかりで、この所、この国に住む人々の良識を疑うしかないという気持ちが高まるばかりだ。ここを読みにきてくれる人には、そういった歪んだ心の持ち主はいないと思うが、自分達が情報により洗脳されていることに気づかぬ人は多い。
 法治国家とは、法律を守る心を持つ人の存在によって支えられている。結果が全てとか、違法行為でも正しいこととか、何やら不穏な発言が続くと、その存亡さえ問題となってくる。冷静な判断を投げ出し、利欲に走る人々には、忠告が入るべき余裕が心の中にない。見ず知らずの人間の発言に踊らされ、自分の判断として、他人のものを主張するなど、深慮の欠片も感じられない。こんな人々が巷に溢れていることに、危機感を抱く人もいるようだが、こんな状況は古今東西、何処でもいつでも存在していただろう。昔との大きな違いは、愚民の発言の場が提供され、民意と呼ばれる大きな存在へと変身させる手立てが講じられている所にある。これにより、非論理的な考えが大勢を占めるが如くの装飾がなされ、社会がある方向に驀進しているかのような流れを作る。呆れるばかりの状況だが、判断力の欠如にさえ気づかぬ大衆には、正義の声として届いてしまうようだ。確かに、一つ一つの事柄を吟味する必要はあるが、その順位付けには感情が入り込む余地はない。現状を眺める度に思うのは、感情を最優先させ、論理を採り込む余地を排除する、偏りきった心の持ち主ばかりに、注目が集まる風潮であり、多数の愚かな人と少数の賢人の状態が、無謀な行動に結びつく、現在の社会の仕組みの欠陥なのだ。

* * * * * * * *

11月9日(火)−疑問

 他人の話を聴く時に、注意することは何だろう。話し手にとっては、聞き手が自分の話を理解しているかどうかは、非常に重要な点になる。だが、逆の立場ではどうなるのか。話を理解できているかが重要なのか、それとも、別の要素があるだろうか。更に言えば、理解しているかどうかはどのように判るのだろう。
 どんなに分かり易い話でも、話し手の考えが全て理解できることは殆ど無い。そんな時、聞き手は何をするだろう。最も手っ取り早いのは、不明確な点を問い質すこと、つまり質問をすることだろう。こういう展開を思いつく人は、他人の話を聴く時、常に疑問を思い浮かべ、そこから更なる発展を考えようとするのではないか。こうすれば、次々に思い当たる疑問点を、頭の中で整理し、それをきちんと分かり易い形にして、話し手に尋ねようとすることになる。意外に簡単な展開なのだが、現実には、これができなくて困っている人が沢山いる。例えば、積極的に質問する為の勇気が足らないとか、理解不足を露呈させるようで恥をかきそうだとか、そんなことばかり頭に浮かべ、結局、何も言い出せないままとなる。簡単そうに見えても、これ程の障害があるのかと思うかもしれないが、実際には、躊躇することより、何も考えつかないという人の方が遥かに多い。こんな人々は、理解を進めようとするばかりで、何が判らないのかを考えようとしない。その結果、判らない所が判らないという、何とも不可思議な状態に陥るわけだ。彼らは実際、何を考えているのか。質問が浮かぶ人には想像もつかないが、おそらく、何も思いつかない、つまり、何も考えていないのではないか。こんな人が、質問を促されると、慌てて探し回るだけで、何も出てこないとなる。何か大切なものが欠けているようだ。

* * * * * * * *

11月8日(月)−地味

 地道な努力を評価しない風潮は、何時頃から強まってきたのか。中でも、若い世代が考える努力は格好悪いという結びつけ方は、いつの間にか大きく広がり、定着してしまった感がある。これを、彼らの言葉で言えば、努力は「ダサイ」となるのだろうが、そんな連想が何処から出てくるのか、さっぱり判らない。
 何をするにしても、皆に見える形を心がけると書くと、少し誤解されるかもしれないが、評価を重視する空気は、こんな形で表面化してきたのではないだろうか。そんな中で、評価を受ける為に準備をする人間と、そうでない人間が目の前にいたなら、どちらの評価がより高くなるか、どうも、そんな考え方が適用されたのではないか、と思える所がある。つまり、同じ仕事量をこなせるなら、努力を必要としない人間の方が、より高い評価を受けるというわけだ。このような風潮が高まった時代には、もう一つ大きな傾向があったことは、あまり意識されていない。それは、前提を吟味することなく、結果のみを尊重するという傾向である。評価は結果を重視してこそのものであることは確かだが、前提と結果の結びつきは、あらゆる論理において不可欠であり、それを無視した考え方には、大きな欠陥が現れてくる。ここでは、同じ仕事量という前提があるのに、努力の有無ばかりに注目が集まり、そこから「ダサイ」という言葉に繋がってしまった。最も大切な結果は、仕事がまともにできずに、尚かつ、努力もしないというのが、目の前に次々と現れることとなり、多くの業務に支障を来すこととなった。それが歴然としても、心の中に根付いた考えは容易には変えられぬ。どうなることやら。

(since 2002/4/3)