移動に経費がかかるのは仕方のないこと、その中で如何に遣繰りをするかが肝心、などと書くと、何を今更と言われるのかもしれない。しかし、今の世の中を見回してみると、色々な移動の手段があり、どれを利用するかはそれぞれの選択ということとなる。好みにも寄るのかもしれないが、何が肝心か。
まず第一には、快適な移動の保証があるだろう。以前試みたことがあったが、夜行バスは金と時間の節約に一番の方法と紹介されることがあるものの、ものによっては、不快な気分だけでなく、体力的に問題になることがある。一方、空を行ったり、鉄道を利用すれば、そんな無理を必要としないことから、体にとっては楽になるが、その反面、それなりの出費を覚悟せねばならない。最近、話題に上るものの一つに、車での移動があり、以前ならば、高速道路の利用に対して、応分の負担を課す形がとられていたが、新たな制度の導入で様相が一変した。それにより、様々な問題も噴出したものの、経費を第一と考える人々には、ある意味有り難いものとなる。但し、同じ考えを持つ人が集中すれば、交通集中を招き、別の問題が出てくるから、複雑な話である。快適な移動を第一に考えれば、渋滞により不快な気分を招いたり、時間ばかりがかかるようになると、何の意味も為さないこととなる。経費と時間、両立できないものだから、といった考えで居れば良いのだろうが、そんなことを考えない人も世の中には多い。もっともっとと要求ばかりが大きくなるのは、現代社会の抱える問題とも言えるが、そろそろその矛盾に気づかないと、どうにもならなくなりそうな。
いつもよりひと月程早く干し柿作りを始めた。柿色に熟れた身の皮を剥く作業が、これまでの通例だが、今回は緑色が残り、少し早すぎたかと思われた。また、気温が高すぎると何かと心配になるものだが、干し始めた頃から急に気温が下がり始め、いつも通りの経過を辿って、表面が乾き、身が縮み続けている。
自然の恵みを受け取る為の条件は様々にあるのだろうが、いつも通り、例年通りにすることが第一だろう。経験がものをいう世界では、特に無理な変更をしないことこそが、最善と言われる所だ。しかし、このところの天候の変化に付いては、例年との違いばかりが強調され、どれくらいの範囲内に収まっているかどうかは、話題に上らない。違いを示すことで、注目を集めようとする意図が働いているのだろうが、果たして意味をなすものかどうか。春夏秋冬がそれなりの幅を持ちつつも、ちゃんとした形で順番通りに巡ってくる。そんな国で生まれ育った人々には、ごく当たり前の景色も、四季を持たない国に育った人には、珍しいものと映る。その移り変わりに変化が生じ始めているという話には、色々な証拠が示されているけれども、どんなものだろうか。猛暑の後の秋には、鮮やかな紅葉は望めないという話も、いつの間にか引っ込められてしまった。山々には、色鮮やかな樹々の変化が訪れ、それぞれに目を楽しませてくれる。経験を基に、色々な予想を展開する人々は、そこに確固たる理由があるかの如く、説明を繰り返すが、実際には大外れになることも多い。本当の意味での経験は、実はその土地に住む普通の人々にこそあるものであり、彼らの声を聴くことが重要だろう。いつの間にか、データと称する怪しげなものに振り回される社会となったが、今一度、本当の経験に立ち返り、四季の移ろいを期待しつつ眺めることが必要かもしれない。
鳴り物入りで始まった制度は、熱狂的な流れに乗り、一気にその価値を高めたように見えた。ところが、一回りした後で眺めてみると、冷めきった空気の中で、価値も凋落し、単なる見せ物という評判のみが残ることとなった。実質的な力の無さが露呈されたことばかりに注目が集まるが、本当にそれだけなのだろうか。
何処にどれだけ資金を注ぎ込むのか、という問題は、組織の大小、性質に関わらず、大きな課題として認識されている。それを議論する場を設けることは、誰の目にも、重要な決断がなされるものと映った筈だ。確かに、ある面では存否を左右する決定として、評価すべきものが進められたのだが、反面、全く違った様相が露となり、制度欠陥が明らかとなってしまった。何か新しいことを始める場では、見通しの無い中での決定が必要となる。ところが、こういう議論の場では、成果主義が第一に扱われ、新しい試みは排除されるのが常となる。当然、成果を上げることも、何を成果と見なすかの問題に触れないわけには済まされず、結果として、目に見えない形のものが切り捨てられる。このような欠陥は、議論に加わる人々の資質から来るものであり、制度自体より、そちらの問題が表面化したと見るべきだろう。ただ、一方で、制度そのものの問題も、膨らむばかりとなったことは確かだ。本来業務に新たな資金を充てる必要は無い、という主張は如何にもと思わせるが、収入を増やすことなく、支出が一律に削減する中で、本来業務自体が危機に瀕していることに、彼らの目が向けられることはない。こんな偏った感覚の下に、重要な決定がなされ、多くの重要な案件を抹殺する中で、自分の業務に力を注ぐ人がいるだろうか。金は無いが頑張れ、という叫び声も聞こえず、ただ、本質を理解せよという話では、何も進まない。きっかけを作ったのは、前に居座った人々だろうが、根本解決を図る意欲の無い人々には、人気を保つ力は備わっていない。
似たようなことを毎日書いているような印象もあるが、根本的には様々な見方を紹介するだけで、全体の流れが似ているに過ぎないと思う。世の中全体に、酷似した台本に従って演じられる劇の如く、使い古された設定と決まりきった展開がなされる。こんな中で何を考えればいいのか、狭い視野では答えは出ない。
理解力だけでなく、経験を肝心という見方は、昔からよく使われてきた。年功序列は、賛否両論があったとしても、そんな見方からすれば、当然の手法と言えるものだろう。ところが、何時の頃からか、このやり方が失敗を招くばかりとなってきたようだ。理由は様々にあるのだろうが、根本的な部分では経験がものを言わなくなってきた所に、大きな原因がありそうに思える。停滞期に入って、小さな変化しか起きなくなると、それ自体が経験に反映されたとしても、大した影響を及ぼさなくなる。以前ならば、幅広く経験できたものが、狭隘な場所に追い込まれ、手の届く範囲のことしか理解できない人間が養成されることとなり、そこから出てくる人材は未経験の人々と大した違いを持たないこととなる。これでは年功序列を前面に出すこともできず、かといって、何か別の画期的な人材育成の方法も思い浮かばない。と言うことで、社会全体の停滞が、各組織の活性の低下へと繋がり、負の連鎖が暫くの間続くこととなった。このままでは、と危ぶむ声も聞こえてくるが、解決法はないのだろうか。ここでも見方を変えると、心配は無用とする考えに至るのだが、そういった論理の基本となるのは、個人の認識の変化ではないか。与えられた経験に依存するやり方が限界に来ているのは当然だが、以前から、それとは別に経験を買って出る人々の存在があった。積極的な取り組みとでも表現すべきか、そんな考え方の転換だけで、問題が消滅するのだが、どうだろうか。
記憶にないとか、その意図はないといった形での責任逃れは、以前から取沙汰されてきたが、人間が関わることである限り、絶対的な答えが出てくる筈もない。心理的な作用を重視し、論理性といった感覚を嫌う傾向は、ごく当然のことと受け取られるようだ。冷静より、冷たいという印象を受けるのもそんな所からか。
判断を下さねばならない状況にあれば、何らかの結論を導く必要がある。本来、全てのデータに基づき、数値的な観点から吟味を繰り返すのが当たり前だろうが、その後の展開を心配する人々は、感情に訴える手立てを講じることが多い。始めの話は、この流れとは全く別のものに見えるかもしれないが、現実には心理が大きな割合を占めるという点で、共通する部分が大きいと思う。どちらにしても、責任回避の手段として、感情を優先するわけで、冷静という姿勢は、忌み嫌われる所とならざるを得ない。裁きの場での振る舞いは、それに加わる人が増えるにつれて、問題として取り上げられることが多くなったが、ここでも心の問題ばかりに注目が集まり、制度そのものが最大の目的としていた話には、一切触れられないのは何故だろう。裁きそのものに付いては、他の国でも同じような制度が長く実施されているものの、刑の軽重に付いては別事とする国が多い。僅かな違いとはいえ、これが大きく影響するという認識は、いざ制度が導入されてから問題とされたようだが、今更逃げるわけにもいかぬものだろう。そんな中で、判断を下した人々が、責任を回避するとしか思えない考えを表明したことは、制度の崩壊を意味するのではないだろうか。判断の責任は、刑の重さによるのではなく、内容にある。次の判断を勧める姿勢は、自らの存在を否定するだけであり、こんな発言を表に出すこと自体、信じられないのではないか。
勧善懲悪を主題とした物語が多く作られ、この国の人々は小さな頃から、書籍や映像を媒体として、それに触れる機会を得てきた。正義の名の下に、悪人どもを懲らしめる流れは、普段から思い通りにならぬ心に、清涼剤の如くの効果を及ぼすのだろうか。だが、そこにある歪みに付いては、劇中で触れられることはない。
法律が何の為にあるのか、考えたことのある人は少ないだろう。それより、何故罰せられるのかとか、そこにある矛盾を、強く感じる方が、よくある話なのではないか。こんな印象から、法律が本来持つ筈の、秩序を保つ為の役割より、上から押さえつける力の代表のような感覚を持つのだろう。そんな考えからは、それを破ってもなお、悪を懲らしめるのであれば、それこそは許されるべきといった風潮が出てくるのも、ある意味やむを得ないことなのかもしれない。だが、その一方で、秩序が乱されることに付いては、考えを及ぼすことは少ない。正義に反することであれば、正規の手続きを経なくとも、罰することの方が重要という考えは、西部劇中の集団リンチの場面と何も変わらぬものである。正しいかどうかをどの部分に適用するかは、社会秩序において重要な点なのだが、論理性を失い、感情に走る傾向が高まった人々には、そんな基本が見える筈もない。何とも情けない状況だが、このところの社会はそんな状態にある。内部告発を褒めそやし、英雄扱いする人々は、その後の展開に目を向けることがなく、正しい道筋に気づく気配もない。背景によっては、それしか方法がないという場合もあると聞くが、多くの場合は、正規の手続きをとる選択より、派手な振る舞いを選んだ結果と言えそうだ。違法かどうかだけでなく、倫理性の問題も考えてこそ、意味のある行動となるのではないか。
正直者が馬鹿を見る、とはよく言われることだが、他人を騙してまで、自分の利益を追い求めることが、許されるわけではない。これは、日常の出来事に関する話ばかりでなく、国の政治に関しても、また経済に関しても、同じことが言える。だが、実際の状況はどうだろうか。屁理屈ばかりが並んでいるようだが。
始めから騙そうとしているとは言わないが、そこに思惑が潜んでいることは明らかだろう。平等とか対等といった言葉で表される関係も、表向きはその趣きを漂わせているものの、裏ではかなり入り組んだ仕掛けがあり、結果的に自分に有利になるような筋書きがなされている。国の間の関係において、こんなことはいつの時代にも行われてきたが、多国関係が当然という時代に突入して、複雑さは増すばかりで、互いの思惑を読み取ることは更に難しくなっている。そんな中で、馬鹿正直に振る舞うのは、愚の骨頂とする向きもあるようだが、先読みや裏読みばかりで、失敗を繰り返す似非賢者と、どちらが良い結果を導くだろう。当然、詐欺紛いの行為が繰り返される関係では、高度な騙し合いが続くわけだから、正直は必ずしも好結果を産まないかもしれない。しかし、相手が詐欺師だからといって、こちらも詐欺を働けばいいという論理では、互いに堕ちていくばかりで、他の国への信用も失墜するだけだろう。外交は互いの腹の探り合いであり、騙し合いもあり得るとは言われるものの、それに終始していては、信頼関係が築ける筈もない。次々と開催される多国間交渉の場も、どんな心構えで臨むかで、その展開は大きく異なってくる。岡目八目とばかりに、勝手なことを言い続ける外野は無視して、改めて何が大切かを考えることが、こんな時には最も大切なことではないか。