四季の変化を自慢できるのは、この国に住む人々の特権かもしれない。にも拘らず、自慢の反面で日々の激しい変化に愚痴をこぼすのは、どういうことか。目で楽しめても、体が受け付けないから、という解釈はその通りだと思えるが、矛盾していることは間違いない。快適ばかり追いかければ、別の不快が起きる。
本来、自然の流れに任していた生活が、いつの間にか、自分の都合で制御できるものとなり、次々にそういった技術が開発されてきた。その結果、表面的には快適な生活を享受できているけれど、何処かに大きな矛盾があるようで、安心できない。これは、一部の人々が得意とする、不安を煽る話ではなく、ごく当然の分析として、矛盾が溜り始めていることを示しているだけである。温暖化という言葉で表現されている現象も、それだけで局地的な変化を説明できるわけではなく、かなり無理のある解釈と言わざるを得ない。それより、人間の生活そのものが原因となり、都市集中型の生活様式の影響が、その周辺に様々に及んでいるという考えの方が、何となく当てはまりそうな気配もある。いずれにしても、自らの力を過信し、その影響範囲を見渡す視野を持たない人々には、こんな変化も何とか他人事にしようとする動きが感じられる。全体論は確かに重要な部分を持つのだが、その一方で、自分達の責任は過小評価しようとするやり方には、不信感を持たざるを得ない。本当の問題に目を向けること無く、対岸の火事に出動しようとすることは、現実には大いなる失敗に繋がる可能性を危惧させる。紅葉や小春日和を楽しむのも、今のうちだけとなってしまっては、自慢も何も無くなるのだが。
中流意識とは真ん中辺りにいるということなのだろうが、必ずしも平均を意味するものとは限らない。特に、収入の多寡によるものとなれば、左右対称の分布であると、中流が平均と重なるとなるが、海の向こうにある国のように、極端な分布となると、全くずれた感覚にしかならない。この国もそろそろそんな雰囲気だが。
それでも長年持ち続けた意識が、そう簡単に変えられる筈も無く、依然として中流を意識する人が多い。ただ、そんな中で不安を煽る材料が溢れ始めたからか、下流という言葉が目立つようになっている。それ自体が問題とは思わないが、どうも表面的なことばかりで、本質とは異なることが多いのには、首を傾げてしまう。一方、中流が平均と繋がるせいか、この国の人々は平均を特に気にする傾向がある。何でも、まずは平均を知ろうとし、そこに自分がいるかとか、気になるものがそこにあるかを、一々気にするようだ。中でも、天候に関するものには、話題が溢れているようだ。平年、という言葉で表されるように、これまでのデータとの違いを指摘することが多いが、平均値だけが示され、どんな分布かが示されることは少ない。中流でも触れたように、この見方の大切な部分は、平均よりその分布の形にある。にも拘らず、気になる部分だけに触れればいいとばかりに、平均値を示し、そこからのずれの大きさを表すことが第一となる。データ処理では、平均値だけでなく、最頻値と呼ばれる値を重視する考え方もある。これまでにその値をとった事例の数が一番多い、ということだが、データ数が少なく、分布が滑らかでない場合には、そんな見方もある筈だろう。いずれにしても、いつもと違うか同じかで、一喜一憂するのは、本当に意味があることか。人間の感覚は、前後の変化にこそ、重みを付けることからすると、どんなものか。
教育の効果を強調する声は、依然として大きいのだが、その一方で、疑いを挟む声も増えている。宣伝と言うと語弊があるが、謳い文句の割に、大した効果が出ていないというわけだ。それでも全く無意味とするわけではなく、単に、膨らませ過ぎたものに対する反発といった所だろう。過ぎたるは及ばざるが如し、である。
誰もがある程度の効果を認めている中で、時々聞こえてくる意見には呆れるばかりとなる。何やら意味不明の理由で退いたある大都市の市長は、経営難に陥った大学に改革を迫る為に、様々な要求を突きつけた。そんな中で、彼の口から出たと言われる言葉には、良識の欠片も感じられず、その手の人々が持つ傲慢さの現れと受け取った人が殆どだろう。大した大学に通っていたわけではないにしろ、遊びに行っただけという趣旨の発言には、無用さを強調したいとする意図があったのだろうが、それにしても、こういう話が自らの姿勢から滲み出たものという考えは無かった。その後、政治に目覚めた人々が集まる組織に入り込み、謙虚さが何の役にも立たない集まりに、生き甲斐を感じたのではないだろうか。彼らの多くが依然として中心に居座り、傲慢な姿勢を貫いているのを見るたび、組織の設立理念が蔑ろにされているように感じる。教育は、施す側も、受ける側も、どちらもが何らかの意識を持たねば、その力を発揮することはできない。自分の力だけで自分を築いたと、豪語する人々には、そんな本質的なことを理解する頭は無い。そんな人々を選んだ人たちの責任は大きいが、その一方で、選ばれたのも自分の力と思い込める人間の存在に、社会全体の責任を感じてしまうのは、少々行き過ぎた考えだろうか。
情報社会において、肝心な存在である情報そのものの管理が、取沙汰されている。様々な場所で、不用意な行為から起きた漏洩が、大きく取り上げられるのも、その一つだろう。個人の情報は、それぞれの所有物であり、それを侵されることは、自らの存在を否定されることにも繋がる。痛みを感じる人もいるのだろう。
様々な観点から保護が訴えられ、それに向けて、整備が進められているのだが、現実には、関わる人々の不注意が、築いた筈の壁をいとも簡単に打ち破る。何の為の整備だったのか、と考えてしまうが、人間が関わる限り、こういうことが起きるのは避けられないことだろう。もし、完璧な仕組みが導入されたら、どんなことが起きるのか。おそらく、現時点の技術からすれば、それぞれの情報を手に入れられない状況が生じ、結果的に使用不能の仕組みとなると思われる。そんなものが情報管理と言えるか、と言えば、言える筈が無いわけだ。人の関わらない仕組みがある筈も無く、不注意な人の存在が排除できないとなれば、やはり、ある程度の漏れを想定するしか無い。それが起きた時に、どう対応するのかを考えておくことの方が、重要だろうというわけである。そんなことを考えると、今の世の中の情報伝搬の爆発的な力は、脅威となっているように思える。ある小学生の自殺の話題が、今も大きく取り上げられているが、他の例に無く、実名が何度も繰り返し伝えられる。本人の権利でなく、親族の権利で公開されたのかもしれないが、にしても、伝え続ける意味は何処にあるのか。伝える側は、そんなことを深く考えることも無く、得られた権利を遂行し続ける。この不用意さに、現代社会が抱える問題の一端が見えているように思えるのだが、どうだろう。
主導はその主体があってこそのものだろう。その主体を変えることを主張の第一とし、期待を膨らませた人も多かったのだろうが、現実はそれほど甘くはなかったようだ。実際の問題は主体にあったのではなく、そこに存在すべき主張、特に根幹となるべき考えにあったわけで、その後の展開からやっとそれが判ったらしい。
こんな当然のことを何故始めるまで判らなかったのか、と批判する声があるようだが、その主たちにも同じことが当てはまりそうだ。というのも、このところこの国を取り巻いている空気の変化には、この辺りのことに関係する話が沢山あるからである。組織の仕組みを考える上で、主導の主体を定める必要がある。上が主体か、下が主体か、上から下か、下から上か、といった形で、カタカナの言葉が並んでいた。この違いは主体の違いだけ、と思う人が多いようだが、実際には、もっと大きな違いがあることに気づいていない。下から上がる分には、問題が起きている場から出発するから、各々の問題への対処が中心となり、そこに一本筋が通らずとも、全体の流れが自然に作られる。その為、個別対応的なものとなり、長い目で見たものにはなりにくく、長期的な計画を難しくする。動きは軽やかでも場当たり的となって、組織が崩壊する危険がつきまとうわけだ。一方、上から下がる方は、現場での問題に一つずつ対応するわけにはいかないから、そこでの選択が第一となる。つまり、一本筋が通った方針なるものが始めにあり、それに沿った形で現場が対応するという手順が必要となるわけだ。その為、各々の問題に確実には対応できなくなるが、長期的視野に基づいた計画的な対処が可能となる。組織にとっては、後者の方が優れた方式に思えるが、それは方針があってこそのものであり、期待を裏切っているのは主体の存在ではなく、何も考えを持たない人々の存在なのである。
四十年程前に化石や鉱物の収集に力を入れていた時期があった。そんな頃、ある国鉄沿線にある場所に出かけ、植物や貝の化石を採集したり、水晶を集めたりしていた。所詮子供の遊び、と言ってしまえばそれまでだが、収集欲が芽生える年代には、競争心も手伝って、朝早く出かけることも何とかできたようだ。
そんな場所の一つに久しぶりに出かける機会を得た。全く別の施設を訪ねたいという人の案内で訪れた地は、当時の面影を残しているかどうかさえ、判然としない状況で、懐かしむといった感覚は抱かなかった。それでも、当時を思い出させてくれる施設が、15年程前に建てられたそうで、地元で集められたものだけでなく、世界中から集められた鉱物試料が展示されていた。博物館と名付けられたものだけに、教育を主眼とした施設内には、様々な説明が披露され、大人にとっても参考になる情報が満ち溢れていた。興味深かったのは、施設の片隅にポツンと飾られていた石ころの固まりのような試料で、「さざれ石」と表示され、説明がつけられていた。この国の国歌の短い詩に出てくるこの言葉は、その本来の意味が理解されることは少なく、それに続く「いわおとなりて」というくだりも、本来の意味である巌になるではなく、岩音であるという意味をなさないものに受け取られる始末で、言葉の難しさを思い起こさせられる。と言っても、誰の目を集めるわけでもない展示物は、やはり片隅に飾られる運命にあったのだろう。訪れる子供たちは、親と一緒に建物の外に走っていく。そこにある砂場のような場所で、水晶を探すことに夢中となる。そんな姿を見ると、今も昔も、子供にとって収集欲は変わらぬものと思えてくる。あの意欲は、何処で捩じ曲げられてしまうのだろうか。
教え育む、何度も書いた言葉だが、この意味を真剣に考えない人の多いこと。強いるという漢字に変わったとしか思えない人や、突き進むという意味での行くという字を連想させる人など、その任に当たる人々に、明らかな誤認がある場合が多い。教育という文字自体にそれ程の意味があったのかも怪しいが。
この過程を経て、殆どの人々は社会に飛び立つこととなる。その意味では、社会での生活において必要最低限のことは、この期間に身に付けておかねばならない。だが、実情が伝えられる度に、最低限とは何かを考えさせられる。別の方面の最低を追い求め、社会生活の最低は蔑ろにした結果、こんな人々を世に送り出すこととなった。などと総括したら、関係者から罵声を浴びせられるのだろうが、必要に応じて方針を変更した結果、こんな羽目に陥ったことはまず間違いない。本来、一本筋を通すべきところを、次々と付け焼き刃の方針を繰り出し、自らも何を根拠として良いのか迷うのでは、全く下らない人々と呼ばれても仕方ない。このところ、窮地に追い込まれた若者達に光を当てようとする話が、続々登場しているが、どれもこれも厳しい批判にさらされる。批判は楽だから、というのが本当の理由だろうが、かといって、根本的な解決を回避するばかりでは、肝心なことは進まない。教え込むことばかりに躍起になっているだけでなく、教え育むことに大切なことは何かを、そちら側の人々も改めて考えてみないことには、何も変わる筈はないだろう。あんな連中に期待するだけ無駄、と迄宣うのならば、自分達の周りだけでもすべきことはある筈だ。あらゆる場所で、本質を見失ったことこそが、現時点の苦境の原因と言えるのではないか。