パンチの独り言

(2010年11月29日〜12月5日)
(諸行無常、見直し、疑義、秘密、親の目、躾、居留)



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12月5日(日)−居留

 冬に入ると渡り鳥の話題がよく取り上げられる。北からの鳥たちの数を伝える度に、例年との比較がなされ、特に変化が大きい所が強調される。しかし、その後の遷移には触れられること無く、彼らが帰路につく頃に再び話題にされるに過ぎない。では、飛来数はどれだけだったのか、その筋に尋ねればわかるかもしれない。
 いつものことだが、話題を追いかける人々は、大袈裟な扱いができるものだけに興味を示す。しかし、世の中はそう簡単に変わる筈も無く、いつも通りといった具合に流れるものが殆どだ。とは言うものの、そんなものにも目を向ける人がいるもので、ずっと都会を飛び回っている、所謂留鳥に興味を示す人々がいる。普段から見慣れているものの変化には、気付かぬ人が多いのが常だが、ここにもそんな例があるというわけだ。気にも止めなかったものが、たとえいなくなったとしても、気になる筈も無いのだろうが、こんな形で捉えられると、気になってしまう人もいるのだろう。だが、話題の核心がどうなのか、その辺りの議論は出てこない。一度取り上げられたとしても、次に話題になるのは、本当にいなくなった後か、あるいは、そのまま話題にもならないままなのか、予想することはできない。雀という名の鳥が、街から消え去ったとしても、気にする人は少ないのだろう。ただ、そんなに簡単に姿を消すか、それとも、何処かで生き延びるのか、どちらだろう。絶滅種を話題にする人々は、生き物が簡単にいなくなることを強調するが、その一方で、意外な程の力を示すものもいる。どちらの運命を辿るのか、誰にもわからないのではないか。

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12月4日(土)−躾

 日々接する人々に腹を立てることが多い。そんな気持ちを文字にして、というのがブログなるものになっている所は、少し探せば見つかるようだ。では、何故、彼らの行動に怒りを覚えるのか。その多くは、マナーとかモラルとか、そんな言葉で表現されるものの欠如が、目に余る程になっているからのようだ。
 こう書くと、必ずと言っていい程、教える場を設ける話を始める人がいる。確かに、知らない連中には、そんな存在が必要となるのだろうが、こんなことで根本解決はできない。付け焼き刃的で、場当たり的な手法は、身に付くことは少なく、鍍金のようにいつの間にか剥げてしまうからだ。それでも、背に腹は代えられないとばかり、社員教育の一環として、そんな教室を設ける所も出てきている。営業活動で、客に失礼があっては、という考えなのだが、こんなことまでするのかという見方もある。そんな思いを抱くのは、本来の教育の場が、その能力を失っていることに気付いているからだろう。教育と聞いた途端に、学校を思い浮かべる人は、既に能力を失った場所を築いており、そこが諸悪の根源となっていることに気付いていない。マナーやモラルという言葉でなく、躾と言えば、全く違った反応が返ってくるのではないか。その役目は、子供が育つ場にあり、その場を提供するのは、身近な人間に限られている。そんな当たり前のことに気付かず、外にその役を押し付ける人々が、今の社会を構成しているとしたら、何とも情けないことに違いない。生きる為には、学歴が必要で、その為には学校の成績が、と繰り返す人々には、子供を育てる資格は無い。そんなことを呟いてみても、子供を持つかどうかは個人の考えによる。となれば、再生産を繰り返す人々に、認識させることが大切で、その場を提供することが重要なのかもしれない。

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12月3日(金)−親の目

 新しい年の始まりに、祝いを兼ねて手渡される小遣いに、破顔一笑した人は多いだろう。だが、その喜びを打ち消すような声が、後ろから聞こえてきた人も多い。親が間髪入れず、使い方に一言二言、欲望を満たすだけの浪費に、先手を打たれた気持ちになる。誰もが、自分の好きなようにとの夢を抱いたのではないか。
 子供たちの欲望は、他愛の無いものと受け取られるが、いい大人となれば、様々な思惑が蠢くと思われる。それでも、好きなようにとの思いは強く、何かしらの機会さえあれば、すぐにそちらに走るようだ。巷で話題になっている、各地域への予算委譲の話は、その正当性を主張する為に、如何にもと思わせる理由が並んでいる。制限を廃止し、一気に自由度を高めるという路線は、以前からの議論に沿ったものだけに、反論しにくい面があるが、現状を検討すること無く、表面的で感情的な論理に流されている点には、殆ど触れられないだけに、いつも通りの危うさを強く感じてしまう。現場の問題は現場の人が一番良く理解できる、という論理は、明らかな間違いとは言えないものの、数多くある現場の中から、それを選び出す手法に言及しないことは、選択にある思惑を適用しようとする考えがあるからだろう。地方都市ごとに、様々な政策が実施されているが、住民の満足を得る為のものは、数多ある中から少数が選ばれるに過ぎない。地元企業の懐が潤うこともその一つであり、土木事業に注ぎ込まれる予算には、その目的から来る部分もある。一方、教育に向けられる予算は、将来への展望といった感覚が強く、即効性が期待できないことから、注目を浴びないものの一つとなる。この辺りの動きを見れば、自由が何を招くかは明らかだろう。彼らの心の動きは、子供の頃から変わっていないだけだろうから。

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12月2日(木)−秘密

 透明性とか、情報の公開とか、そんなことが話題となり、何か特別に重要なもののように扱われている。知らずにいることの不安や、勝手な行動を忌み嫌う傾向から、これ程の扱いになっているのかと思えるが、どんなものだろう。これらに励むことを最優先の約束に挙げるのを見ると、余計に疑いたくなるのだが。
 情報が氾濫する時代となり、何にでも触れることができると信じている人々は、それを要求することに何の躊躇いも感じていないらしい。例えば、情報に種類があるとか、それに従う取り扱いの違いとか、そんなものの存在に気付く気配はなく、全てを同じと扱う姿勢には、判断力の欠如を強く感じる。選別は、判断の過程での重要な手順であり、それなくしては、何も推進できないとされる。にも拘らず、貴重なものも、無駄なものも、何でもかんでも並べ立て、それを眺めて安心したり、満足したりするのは、何とも情けない姿を曝け出すこととならないか。こういう話を説明したとしても、この手の人々にはそれを理解する力は無いようで、首を傾げられたり、激しい反論を展開する。だが、例えば、最近の流行を使うのなら、情報のうちで、何故個人に関わるものだけが保護されるのか、この考え方からすれば、どんなものにも区別を付けるべきではないということだから、個人に関わるものも、全て公開すべきとなるのではないか。こう言われたら、どうだろう。情報には、その場での公開を必要とするものと、後々に公開すべきものと、更には、決して公開すべきではないものの、簡単に眺めても、こんな区別があるのである。知りたい権利を主張する人々には、こんな区別は不要のものであり、全てを同じに扱うべきという考えがあるが、人と接する時に、自分の心の中で展開される考えや、身勝手な見方についても同じとされたら、どう感じるのか。外に出ていないものと区別するとしたら、それらを外に出す技術が編み出されたらどうだろう。勝手な連中は、また勝手なことを言うか。

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12月1日(水)−疑義

 その迷走ぶりが様々な形で伝えられるが、伝えている方のぶれ方もかなりのもので、外から見れば、どっちもどっちと言うしかない。にも拘らず、画面に現れる人々は、伝える側の思惑通りの思考を披露する。何故と思うのは、こちらがその感覚を持ち合わせないからで、普通じゃないからだろう。
 だが、普通という考え方が、如何に常軌を逸したものかは、このところの成行きを今一度眺めてみればよく判る。迷走する考え方に、振り回され続けている人々に、確固たる考えはなく、ただ、その場限りの思考に走っているだけなのだ。この最近の傾向は、要職にある人も例外ではなく、普通であり続けようと走り回ることとなる。それに対して、ごく常識的な反応を示す人がいて、偶に出会う真の意味の普通に、ホッとすることがある。自分達の考えを押し付け、展望が開けない話を次々に繰り出す人々は、その場の結果にしか興味を抱かない。画面に現れた有識者の視線を見て、精神的な不安を感じた人も居ただろうが、その場の力を握っていたのは彼らである。廃止として決定した事柄に、賛否両論が出ることに、不思議はないのだが、その論理には不思議が一杯である。誤解に基づいた解釈を滔々と述べ、それを決定の理由とする。止めることを決めた人々の理解力には、疑いを禁じ得ないが、本人の弁は自信満々である。一方、矛盾を感じた人々の論理は、筋の通ったものと見え、何故こういう声に耳を傾けないのか、不思議に思う。偶々、ネット上を彷徨っていた時に見つけた場所には、冷静な分析を含めて、ごくまともな解釈が展開されていた。つい、コメントを寄せたが、それに対する回答もまとも。こういう人々が疎外感を示したら、その社会は病んでいると思う。その場所は、このURL(http://blog.goo.ne.jp/sanno_el/e/f5aa5a8876887a108e89c9e8bab2f2ac)。

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11月30日(火)−見直し

 一本筋が通っていないことで、批判されることが増えてきた。方針が一定しないとか、考えがぶれるとか、そんな言葉を付けて駄目だしをするわけだが、こういうことに力を入れている人たちは、どれだけ始めの考えに固執するのだろう。確かに、提案が次々に変更されては、それに関わる人々はかなわないのだが。
 始めから様々な考えを採り入れ、あらゆる可能性を試していれば、変更を余儀なくされることは少なくなる。しかし、八方手を尽くしたとしても、全てを吟味することは難しく、それに拘ることは、逆効果に繋がることも多い。そういった方に向かうことがあれば、勇気を持って方針転換を決意することこそが重要と、昔から言われてきたことも事実だ。にも拘らず、最近の傾向は、一度口にしたことを最後まで貫く精神力を求めている。ここで重要となるのは、どんな考えに基づいて判断されたかではなく、その提案が正しいものとなっているかどうかにあるわけで、間違いならば、変更をすることは当然となる。こんな当たり前を、恰も大間違いのように扱う風潮には、危うさを感じてしまうが、本人たちはそんな気配は微塵も感じていないのだろう。批判する側に回ることが、処世術として最重要とされるのも、社会全体に蔓延するこんな雰囲気から来るのではないか。一方的な見方に固執せず、色々な見方を導入することが、あらゆる決定において必要となるわけだが、それが現実に実施されると、一気に不満が溢れ出す。確かに、現場で振り回される渦中の人々から見れば、迷惑千万であることには違いない。だが、始めの所で、不十分な検討から誤った方に向かうことになっていたら、ここでの見直しは必要不可欠なのではないか。だからといって、極端な判断を喜ぶ姿勢には品位を疑うだけであり、それを覆す再考がなされたとしても、当然のことと思う。十分な遣り取りを忌み嫌う姿勢にこそ、大きな問題があったとする、当初の提案にこそ、本来の意味がある筈なのだ。

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11月29日(月)−諸行無常

 言葉の意味が時代の変化に従い変わって行くことは、今や当たり前と思われている。言葉本来の意味が失われ、全く違った意味で使われることも多く、場合によっては正反対に位置することとなるから、難しいものだ。識者たちは、言葉は生き物と説明し、変化を当然と受け止めるが、それで良いのか疑問が残る。
 先日、ラジオから聞こえてきた話は、成功した人が自分の秘訣を紹介するものだったが、いつもことながら、大袈裟な印象を受けた。彼が言うには、日常と違うことをして、新たな発見をすることが、新しい感覚を磨くのに、大いに役立つとのことだ。recreationの意味が再生に繋がるということから、旅行などに出かけることも、その一つとするのだろうが、この話には納得できない部分がある。それは、普段の生活では新たな発見が無い、とする考え方で、特に最近、このような傾向が強くなっていることに、違和感を覚える。日常という言葉で表現される、普段の生活では、何の変化も無く、新たな発見はあり得ない、というわけだろうが、逆の見方をすれば、全く同じことが何度も起きるというわけで、日々少しずつ起きる違ったことに、全く気づかない程、鈍い感覚を表現しているのではないか。昔見たような、という感覚が浮かび上がり、ちょっとした驚きを抱くこともあるが、そんなこととは別に、毎日同じ作業をしているように思えて、その違いに驚き続ける人は、最近とみに減ってきているように思える。日常の意味が、普段のものというより、変化の無いものといった方向に動いた頃から、こんな傾向が強まったようだ。ラジオで大袈裟に表現された話も、そんな人間に向けてのものであり、そんな人間になることの危険性を訴えるものではない。本当の危険は、目の前に起きていることの違いや危うさに気付く感覚の鈍化であり、それを磨くことの重要性を見失っていることである。

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