暑くなるにしても、寒くなるにしても、日々の気温の上下に一喜一憂する毎日が続く。季節の変わり目に、こんな気持ちになるのは仕方のないことかもしれないが、毎朝それを伝える予報を聞く度に、なんと余計なことを、と思うのは勝手過ぎることだろうか。ごく当然のことと受け取るか、それとも何か別のことを。
四季の移ろいを楽しむことからすれば、こんな毎日の些末なことに、心を奪われるのは情けないことかもしれない。だが、毎日の生活を送る為に必要と思えば、気持ちの揺らぎなど、当然のことなのではないだろうか。人がものを見る時に、どんな見方をするかは、人それぞれと言われるけれど、近くから見るか、遠くから見るか、そこから大きな違いが始まる。細部に目が行く人々と、大まかなものしか見えない人々、どちらが上とは言えず、集団として考えるのなら、両者が入り交じったものである必要がある。しかし、それだけでは、全く違った見方は相容れることなく、いつまでも平行線を辿ることになるだけだろう。そんな集団の中に、必ず必要となるのは、どちらの見方も備え、それを巧く出し入れできる人間の存在だ。存在は不可欠だが、この人間が頂点に立つ必要があるかどうかは、集団によるだろう。首脳陣に含まれることは当然とはいえ、トップに立てば良いというものではない。最終決断をする場合に、自らの見方のぶれに不安を抱いては、却って難しい状況を招くこともある。そんなことを言っても、今世の中に溢れる組織の多くは、こんな能力を備えた人間を欠いているようだ。それでも存続に不安がないというのは、結局の所、ただ長持ちするだけなら、大したことはないということか。まあ、そんなことを考えるより、日々の気温の上下に一喜一憂する方が、気楽なものに違いない。
社会全体が停滞期に入ると、不遇をかこつ人の数が増える。自分の才能に見合う機会を得ること無く、夢を実現できないと信じる人々は、何処に原因を求めるのだろう。その多くは、社会に問題があるとか、時代に問題があるとか、そんなことを並べ立てるのだろうが、果たして、実際はどうなのだろうか。
才能と一口に言っても、どんなものを指すのか、はっきりとはしない。にも拘らず、自分の才能という言い回しを使うのには、何かしらの意味が込められているのだろう。その一方で、足らない才能を指摘されることも多い。あれが無い、これが無い、と言われることに慣れている人はいないだろう。だが、言う立場にある人々は、そのこと自体に大した重荷を感じない。ただ単に、足らない所を指摘し、それを埋める努力を促すだけのことだ。それでも、言われた側にしてみれば、この一言が大きく響くこととなる。不足分を埋める努力をするか、はたまた、それが無くとも何とかなるものを見つけるか。後者の場合、それに付随して出てくる言葉がある。誰も教えてくれなかった、とか、そんなことは習っていない、とか、そんな言葉なのだが、これを聞いた者にとっては、反応が難しい所だろう。確かに、完璧な人が存在する筈もなく、足らない所を補いながら成長することが、人生の道筋と言われる。それを当然と受け取れば、大した圧迫感もなく、日々の努力を続けるだけなのだが、それほど気楽に構えられない事情もある。言われる側に立つと、どうしても、足らないという指摘が強く響く。そこに自分の責任だけでなく、社会の責任を持ち込みたくなる気持ちも解らなくもないが、だが、それを言っても何も変わらないとしたら、さてどうだろう。
普段から何気なく使っているからだろうか。言葉の本来の意味ではく、別の意味を込めて使ってしまう人が多い。使う側からすれば、単なる拡大解釈のつもりなのだろうが、現実には、この誤解を発端として、次々と話は間違った方向に導かれ、膨らみ続ける。こんな形で一人歩きを始めた話題は、止める手立てを無くすことが多い。
始めのうちは、的外れな指摘とされたことも、それが度々繰り返されることとなると、いつの間にやら的を射ていることになる。こんな不思議が横行するのも、世の中の人々が言葉の定義に拘らず、互いに異なる意味で使うことに違和感を抱かないからではないか。本来の意味がどうなのかに思いを至らせれば、こんな行動に出ることは決して無い筈だが、拡大に次ぐ拡大に加えて、更なる歪曲を意図の有る無しに関わらず施し、遂には、元来の意味とは似ても似つかぬ形に変貌する。そこまで酷いことになっているとは思わないが、例えば、最近の若者の傾向として、内向的な行動様式に警鐘を鳴らす話が出ているが、その結果の一つに、留学者の激減が挙げられている。これは事実に違いないし、こういった傾向を問題視するのも、的外れとは言えないが、一方で、著名な科学者たちが外国で研究した話を引き合いに出して、同じ範疇に入れ込むのには、かなりの無理が否めない。彼らの多くは、学生として進出したのではなく、企業からの派遣や研究者として、活躍の場を求めたに過ぎず、これを留学と見なす考えには、あらゆるものを繋げようとする浅はかさが見える。ここにも現れている十把一絡げ主義は、最近の情報伝達において、最も目立つ考え方の一つであり、誤解に基づく暴走に繋がる危険性を孕む。外から内を見ることの意義を否定するつもりは無いが、何でもかんでもごた混ぜにすることは、却って逆の効果を生じることに気付くべきだ。
新たな取り組みが考え出されたり、始められるとき、賛否両論が飛び交うことは多い。賛成派は、様々な思惑を抱き、自らの利益も加われば、声も大きくなる。それに対し、反対派には、どんな思いがあるのか、見えてこないことが意外な程多い。兎に角反対、といった立場を貫くことも、そんな印象を強くする。
何をするにせよ、推進を促す為には、かなりの力を要する。その中で、推進派に属する人々は、取り組みの特徴を際立たせ、理解をし易くする工夫を施す。こういう過程を眺めていると、彼らの努力が見えてくるのだが、それを打ち砕こうとする人々には、大した努力もしていない場合が多いように思う。無駄なものや弱点を指摘する為には、全てを見渡す必要も無く、目立つ部分を突けば良い。更に言えば、際立たされた特徴さえも、見方を少し変えるだけで、難点とすることが可能だから、手軽なものとなる。どうも、新たな試みが様々な所で失敗する原因には、こんな背景があるような気がしてならない。特に、駄目だしを常とし、反対するだけが能の人々には、この所の停滞する社会は、都合のいい環境を整えてくれるように思える。停滞は、動きが鈍くなるという点で、新たな取り組みが歓迎されにくい状況を産む。その為、反対する人々には、追い風が吹いているとも言えるわけだ。冷静に考えれば、これが同じ状態を続けるだけであり、停滞を脱したいとする考えとは正反対のものであることは歴然としている。にも拘らず、楽な道を歩み続ける人々は、一方で、現状打破を望みながら、そのきっかけに蓋をしようとする。不思議に思える行動だが、そちらを選ぶ人の数が多いことは、何か別の意味を示しているのか。更に、賛成する側に、様々な誤解が生じるようになると、その難しさは一段と増すこととなる。
数字に踊らされる人々は、何処にでもいるものだ。預貯金額の増減に一喜一憂する人々も、その金の使い方に思いを馳せることは少ない。数字ばかりに目が行き、それを追い続けることで、数字の本体が何を意味するものか、見失っているように見える。同様に、順位に目を奪われる人々も、意味なく闘争心をかき立てられる。
数字の多くは、実態そのものを表すわけだが、複雑な数を目の前にすると、途端に表情が曇る人は多い。その意味する所を理解するのが難しい場合、単純な数値に変換することで、ほっと一息となるようだ。その典型が順位付けであり、単純な整数を見て安心し、相対的な比較に力を入れることができる。だが、そういった整理は、過度な単純化に繋がることが多く、実態を反映しないものとなることが多い。その結果、如何にもといった分析が、的外れなものとなり、そこから生まれる対策や予想は、方向違いとなるわけだ。絶対的な数値と相対的な数値、その使い方を間違えれば、大失態に繋がりかねないものだが、それをする人々は違いに気付いていないことが多い。気付いていないからこそ、大間違いでも平気で強調できるし、強気の弁を続けることもできる。若者たちの知能の変遷を伝える報に関しても、どちらを優先させるかで、意味する所は大きく異なる。悪名高き仕分けの論法も、改革の効果を評価する中で、順位の変遷を引き合いに出した時点で、その任に当たる人々の頭の悪さを露呈していた。数値をどう扱うかは、自らの論理を受け入れさせる為の、重要な事柄の一つだが、踊る人々は、始めに結論ありき、といった論理への活用にしか興味が無く、根本的な間違いに気付く筈も無い。そんな連中が、画面の中で大きな顔をしているのを見て、若者たちは何が肝心と思うのやら。
自由を謳歌できる時代となり、それぞれに自分の力を伸ばすことができるようになった。などと書くと、何を馬鹿げたことを、と言われるに違いない。自由も無く、責任ばかりが追及されることとなり、自分の力を活かせる場は提供されない。と言った方が、納得がいくのではないだろうか。何とも悲惨な状態だ。
前者の状態は、確かに、各人にとって有り難い状況にあり、活躍の場が数多あるように思える。しかし、実際にそう整備されたとして、どのくらいの人が、それを活用できるのだろう。自由と言われた途端に、何もしないという選択をなし、勝手気侭な行動に移る。こんな人が多かったのは、その時代を経て成長した人にとって、ごく当然のことに映る。しかし、その時代が何たるかを知らず、後者のような現状に生きる人々には、自由こそが全ての根源であり、それを奪われたことが、悲劇の始まりと映るようだ。だが、これが当てはまっているかどうかは、もう少し論理的に考えないと、見えてこないのではないだろうか。つまり、自由を奪われたと訴える人々は、何を自由だと思うのか、更には、それが実現された時、どんな行動を起こすだろうか、という点が、こういう議論で話題に上っていない所なのである。魅力的な言葉である「自由」は、全てに優先されるべきことであり、それを失っては、人それぞれの存在が脅かされることとなる。そんな当たり前のことが、失われているとしたら、自らの存在は消し飛んでしまうのではないか。だとしたら、現状とは、自由を奪われたとするのではなく、それを手に入れようとしないと言うべきではないだろうか。可能性は十分に残されているのに、それを獲得しようとしない。それより、他に責任を負わせ、自らの責任を回避する。そういった考えから、今の論法があるように見える。まあ、上から下まで、そんな調子だから、迷走するし、不満噴出するのだろうが。
情報源の秘匿、一部の業界で何度も強調された話だが、最近は様子が変わってきているように思われる。何とか筋とか、公的な機関の名前とか、そんな形で情報源を明らかにし、その確かさを保証しようとする。受け手の問題に過ぎないとの指摘もあるが、これが信に足るものかどうか、どう判断されるのだろう。
一見保証しているように見えて、実はこんな手法に確実さは望めない。情報源を朧げに明らかにすることは、その情報の確実さを保証することにはならず、却って誤解を生じることが多いからだ。特に、公的な機関からの情報であれば、それが意図的漏洩なのか、はたまた何かしら、別の思惑によるものなのか、そちらの方が重要になるからだ。意図的となれば、この業界で最も忌み嫌われる筈の、権力に靡く形となり、情けない姿をさらすことにしかならない。にも拘らず、この所のこの手のやり方が度々見られる傾向には、何か別の原因があるようにも思える。過去に業界で活躍した人々からの指摘は、その一部を暴き出し、情報源の開拓への努力の欠如が見えてくる。何処まで核心を突いているのか、定かではないものの、その指摘はある程度的を射ているように思える。そんな時代だからこそ、それぞれの国が極秘としてしまい込んでいたものを、白日の下にさらす行為に対して、賛否両論を出しつつも、その内容に飛びついてしまうのではないだろうか。外交の場で、様々な情報が飛び交うことは日常茶飯事であり、中にはデマも数多く含まれる。それを確認しつつ、国の間の交渉を行うのが、その業務に携わる人々の責任であり、取捨選択は当然の作業となる。それらが山積みされた中から、適当に選び出したものを、安易に広げようとするのは、最近の業界の規範からすれば、至極当たり前だろう。信用するかどうかは、受け手にかかっているだけのことだから。