パンチの独り言

(2010年12月13日〜12月19日)
(待機、利潤追求、標準、一本道、乱舞、徒為、衆愚社会)



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12月19日(日)−衆愚社会

 大人気ない姿が問題となっているのではないか。こう始めると、画面に現れる人々のことを思い浮かべる人が大部分と思うが、本当の問題はそんな連中には無い。彼らもそれぞれに違う場面で違う行動をしているわけで、中には馬鹿げたものもあるのだろうが、その責任を十分に果たすものもある。問題はそこではない。
 では、何処に問題があるのか。画面とか、紙面とか、如何にも吟味を繰り返した上で曝されているように思えるものが、現実には、異常な程偏った見識に操られ、下らない姿を露出しているに過ぎない。痴話喧嘩とか、覗き見主義に象られた内容には、その昔、長屋の人々が井戸の周りで繰り広げた、あの手の話に似通っている。当時は、専ら女たちによって彩られた、根も葉もないものから、誹謗中傷に基づいたものまで、噂話に過ぎないのに、何故か人の興味を惹き付けるものだった。それが時を経て、ある意味人間の尊厳が失われつつある時代に、男共までが繰り出して、国にとっての大事より、人間関係を重視する姿勢が、露骨に現れるようになる。確かに、論理無く物事を考える人にとって、仲違いは格好の注目事であり、感情が主体の興味を惹く対象だろう。しかし、隣近所の話なら兎も角も、多くの人が関わる社会に、同じ感覚を押し付けるのは愚の骨頂ではないか。中身のない話ばかりを取り上げ、そこに問題があるかのように振る舞う姿勢には、良識の欠片も感じられず、大衆を馬鹿にする態度が現れる。だが、本当の愚者は彼らであり、その挑発に乗せられている人々なのだ。本質を見極める力を持ってこそ、という教えは、いつの間にか忘却の彼方に去り、総白痴の世界へと入っているが、仲間意識にとっては、これこそが楽園なのかもしれぬ。

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12月18日(土)−徒為

 民意という言葉が使われる頻度が、急激に増している。それだけ、市民を重視する社会になったのだ、と解釈する人もいるようだが、どう見ても、そんな状態にあるようには思えない。民意が政治に反映される為には、様々な手続きを必要とし、手間だけでなく、時間を要する。一々多数決をとることに、違和感を覚えるのではないか。
 元々、民意を直接反映させる制度として、直接民主制なるものがあり、それを採り入れている国もごく僅かだが、存在している。面倒だとしても、この形で自らが全ての決定に関わるのだ、という意識を持つ人々は、それぞれの責任を強く感じているだろう。一方、多くの国が採用している間接民主制では、国民の代表である人々が、多くの決定を行うことで、選ばれし者の責任を果たしている。この形式で何の問題も生じないとは、誰も信じてはいないだろうが、一々の手間や、市民の理解力や判断力の問題などを考えれば、解決策の一つと見なせる。そんな中で、民意の重要性が高まるに従い、代表者に任せる気分はどっと落ち込み、全てに関わろうとする気運が高まった。その結果、何が起きたのかは、最近の政治に関わる動きを眺め直せば、簡単に見えてくるだろう。まず第一に、現場での混乱、次に、時間の浪費、更には、次々起こる迷走、となる。市民が直接関わることで、民意が反映されると信じる向きもあるだろうが、現実には、一部の人間が動き回り、発言権を得た人のみが、強く主張することとなる。市民の一人には違いないものの、そこに偏りがあることは否めず、全体の意見の集約は望めない。こんな所で、民意を強調するばかりで、その実体が見えないのでは、更なる曲折が起こるだけだろう。無駄を省く為の無駄とは、何だろうかと思う。

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12月17日(金)−乱舞

 情報に踊らされる人々にとって、何が情報の要なのか、すぐに理解することは難しい。一つだけ、これかもしれないと思えるのは、衝撃的な呼びかけや表題であろう。一言で、簡単に理解できる言葉、これが最も肝心であり、うだうだと丁寧な説明を加えても、それに注意を払う気配もない。一瞬で解らねば。
 何故、一瞬でなければならないのか。手間と時間を掛けずに、より多くの情報を手に入れる為、というのがその根底にありそうに思える。確かに、能力の高い人々は、一瞥しただけで、その内容を理解すると言われる。しかし、ここでの能力の違いは、それに掛ける時間にあるわけではない。言葉の理解において、その前後関係や、使われた意図などを汲み取り、全体像を描き出せるかどうかが、その違いに反映されているのだろう。では、そういった広がりの部分での違いは、何処から出てくるのか。一番に思いつくのは、論理性といった部分である。言葉を選び、それを並べる中で、使う本人の論理が構築される。それを読み取れば、たとえ少ない言葉を拾ったとしても、全体を想像することも可能となるからだ。一瞬を大切にする人々の中に、この能力を備えた人と、そうでない人がいるが、実は、互いの違いに気付いていないようである。後者が踊らされる人々だということは確かだろうが、気付いていないだけに、何かが変わる筈も無い。彼らに付ける薬があるとは思えないが、そういう具合にならないように、何処かで教え諭すことは可能だろう。自分の話と同じように、他人の話に対しても、その論理性、構築された論理に注意を払い、それを汲み取る能力を高める。それだけで、情報の中で怪しげなものを見分けることができ、踊らずに済ますことも可能となる。どうだろうか。

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12月16日(木)−一本道

 新たな変化を起こす時、その結果がどうなるかの説明を加えることで、相手に意味を伝えようとする。次々に起こることを並べるのは、まるでドミノ倒しのような印象を受けるが、それぞれの分岐点でどちらに向かうかは、決まっていない。その中でどちらを選ぶかは、説明者の考えによることとなる。
 如何にもという説明をする人も、こんな時に一つだけの道筋を示すことが多い。分かり易さから言えば、この方が気楽に聞けるという指摘もあるが、実際に何が起き得るのか、と考えを巡らす為には、一つだけでは却って邪魔となることも多い。なるべく多くの場合を想定することは、変化を提案する準備として、当然のことのように思われるが、現実には、そういった考え方をしていない人の方が多い。あらゆる可能性を検討した上で、といった説明を施した場合でも、たった一つにしか注意を払わなかったということが多く、予想と異なる展開が起きた時に、初めてその至らなさに気付くこととなる。将棋や囲碁では、こういったことが当然行われるが、その一方で、経験に基づく勘の意義も指摘される。だから、こちらも一つだけで十分と考えるのは、自らの力を過信しているだけのことだろう。色々な場合を検討し、その中で現時点で最良と思われるものを選択したとしても、それ以外のものについての説明を加えれば、理解が難しくなるかもしれないが、そこで考えを巡らす力とはなる。省力化がこんな所にまで、という表現は極端としても、一つの考えに固執し、柔軟性を失うことは、間違いを起こす原因となる。筋道を立てて考えたと思っても、現実には唯一無二の選択では、論理に破綻が起こる筈もない。様々なことを思いつき、それぞれに論理を当てはめる過程で、色々なことが見えてくることに気付かねば、柔軟な対応ができるようになるわけがない。そんな訓練が、世の中全体に足らないようだ。

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12月15日(水)−標準

 外国語を自分達の言葉に採り入れ、使いこなすようになるのが、この国の言葉の特徴の一つと言われる。カタカナをその為に用い、語源の区別ができるようにすることで、その意味を明確にしようとする。だが、本来の意味が伝わるかとなると、どうも怪しげな部分がある。いつの間にか、違う意味になることもあるわけだ。
 現代では、このような区別が当然となっているが、始めからそのようにしてきたわけではない。だから、今となっては外来語であった印を無くし、使う人々がそんなことを意識していないものも多い。それこそが、この言語の特長と言った方が、実態を表しているのではないだろうか。外から来た言葉をそのまま使い、区別をし続けることは、その言葉を採り込んだことにはならず、所詮、借り物のままにすることとなる。一方で、こういう姿勢は、自分達の言葉を大切にすることに繋がり、主体を失う危険を回避するようだ。長い歴史で見れば、これが当てはまっているのか、定かにはできないだろうが、見渡せる限りの中では、これが続いてきたように思える。だが、今に始まったことではないが、時々、自らの存在を否定しかねない変更を編み出す人々が出てくる。本来の言葉を抹殺し、外からのものを採り入れるべし、とする呼びかけは、近い所ではある小説家から発せられたと言う。それが、ごく最近、カタカナでしか表されないグローバル化という動きから、世界標準なるものが話題となり、そこからある言語を公用語とすべし、といった声が高まっている。企業によっては、既にそれを実施する所もあるが、何の意味があるのか、さっぱり理解できない。当事者から満足な説明も無いのだから、当然のことに違いないが、さて、どんな迷走が巻き起こるのか。現時点の問題は、自分の言葉でさえ論理を展開できない人の増加であり、小手先の技術のことでは決して無いのだが。

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12月14日(火)−利潤追求

 主導には、その主張があってこそのものの筈だが、どうやら周囲からの圧力に、押し切られる形となったようだ。確かに、停滞状態が長く続き、少々の工夫では好転の兆しが得られないことから、根本的な施策が必要となるのだろうが、それにしても、当事者の要望を受け容れるだけでは、根本とは程遠い気がする。
 他の国と比べて割高だから、この国の中での活動が制限されるという論法は、毎度のことながら、効果的であったようだ。しかし、毎度毎度と言われることから、それに従った動きは、これまで大した効果を上げていないのではないだろうか。当事者たちが望む改革は、自らが主体となって実施される場合には、気持ちの問題も手伝って、かなりの効果を上げることが多い。しかし、他力本願的な改革において、好き勝手な要望を出させた時には、そこから出てくる結果には悲惨なものが多くなる。期待を裏切る結果に対して、当事者たちは更なる要求を突きつけるだけで、自らの責任を感じることは殆ど無い。この図式の最大の欠点は、他力に頼るあまり、それが実現しなかった時には、責任の所在が不明確になるということだろう。今回の話も、一見筋が通っているように見えるものの、他の国に近づけることは、常に不十分との批判にさらされ、結果が悪ければ、それを指摘される。だが、企業経営において重要なことは、単に税という形でどの程度の額が徴収されるかだけでなく、全体として、どれほどの収益が上げられるかにある。折角多額の収益を上げても、税としてとられてしまっては、設備投資に使えないなどと言った論理を展開する人々には、その気が殆ど無いように見え、ただ単に、自分達の利益追求の邪魔を排除したいだけなのではないだろうか。最近の利益還元の傾向も、外から持ち込まれた方式の請け売りに過ぎず、この国の特徴は失われつつある。この国にあることの「利」は何か、考えたことがあるのだろうか。

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12月13日(月)−待機

 人を求める人々と、職を求める人々、その出会いを設定する催しが、次々と開かれていると伝えられる。ごく普通に聞こえるものだが、中身は予想外のものらしい。互いに知り合う機会が全く無く、選択しようにも何のきっかけも得られないからだ。何故、そのようなことが起きるのか。説明のようなものはあるらしいが。
 情報社会において、流れている情報が全てと思っている人が多い。そこでかなり多くの力が働き、一部のみに権利が与えられ、他のものに関しては何の情報も流されないとしたら、そういった人々には、存在さえ知られることは無くなる。本来、只一つの情報源に頼り切る態度にこそ、問題があることは事実だが、窮地に追い込まれて初めて、そのことに気付くような感性の持ち主たちばかりであるとしたら、彼らを批判するだけで済むものか、怪しくなりそうな気配だ。下らない人間たちを、必死で支える必要があるのか、と尋ねられて、返答に窮することが多いが、それよりもっと重要なことが、この話の中には隠れているような気がする。一見どうでも良いことなのだろうが、何でもかんでも用意して貰えることを期待し、ただ待ち続ける人々の存在は、どうなっているのだろう。確かに、日々の努力を繰り返し、彼らなりの全力を尽くしたように伝えられるものの、その実態は、間違った情報に踊らされただけ、ということだとしたら、何とも情けない話ではないか。デマに踊らされる人々への批判は、これまでに何度も繰り返されてきたが、この無知な若者たちへの応援は、何を意図したものなのか、全く見えてこない。整えるだけでは駄目なことに、いつまでも気付かなければ、役立たずが溢れる社会になりかねないことに、そろそろ気付いて欲しいものだ。

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