北から渡ってくる鳥たちを、迎える人々の顔に、影が射し始めた。平和や安定の象徴の如く扱われてきた生き物が、人間共に危害を与えるようになることに、憤りを覚える人も多く、どのように接したらいいのか、答えを見出せない。また、ここ数年の間に爆発的な勢いで築かれた恐怖の感覚は、そう簡単には崩せない。
感染症、伝染病は、目に見えない病原体に冒され、次々に発生する。見えないだけに、そこで生まれた恐怖感は、簡単には拭えない。歴史から学ぶことも合わせて、可能性が膨らむばかりとなれば、止めることは難しいに違いない。だが、これまでに作られた筋書きは、果たしてどの程度あり得るものか。災厄を未然に防ぐことは、自分達の命を守る為に、必要なのは理解できるが、ここでの筋書きがどの程度の可能性をもつのか、検証すること無く、恐怖に駆られるのはどうだろうか。確かに、これらのことが問題を生じる可能性はあるし、それをただ漫然と見ているだけでは、何の解決も得られないのは解るが、だが、騒ぐだけでもいけない感じがする。流行性感冒が、急激に伝播することは、これまでの経験から、誰にも理解できるが、それを防ぐ手立ては、ただ人ごみに出かけぬことしか無い。感染は、人と人の接触によるからだ。これと同じことが、今回の話に起きるとなれば、人でなく、鳥の間での伝播にあり、その密集度が問題となる。人との関わりが、ここまで強く築かれた結果、今の状況を生じたとしたら、この災厄は誰が招いたものか。まあ、勝手な話を続けようとすれば、何とでも作り出せそうな気がする。いずれにしても、防ぎようの無いことに、恐怖を抱くだけでは、何も始まらないような気がする。
騙されたと言い続ける人々に、同情する声が上がるだけで、批判の声は殆ど聞かれない。それより、騙した人たちの悪質さを指摘して、問題がそこにあるかのように扱われる。確かに、犯罪において、騙す側の責任は重いのだろうが、何度も同じ目に遭う人の責任が問われることは無い。被害者が可哀想だから、と。
加害者と被害者の区別は、立場として明らかなものだが、責任の所在という観点からは、その差を明らかにすることが難しい。たとえ、多くの人々が騙されたとしても、その憂き目に遭わずに済んだ人もいて、そこに何らかの違いがあることが解るからだ。理屈から言えば、その違いを明らかにし、際立つようにすることで、次の被害を減らす為の方策が築ける筈と思うが、現実には、感情的な展開ばかりが続き、同じことが繰り返される。この点に思いを馳せる人も少ないようで、毎度のこととはいえ、忘れ続けられる人々の心に、呆れることが多くなる。この状況は、何も犯罪に限ったことではない。過度な期待を抱き、自らの利益に走った後で、騙されたと溜息を漏らす人がいて、その気があったのではないか、と思えてくるからだ。美味しい話に乗せられる、という意味では、詐欺のような犯罪と同じ状況であり、何も違いが無い。だからこそ、なのかもしれないが、こういう場面でも、自ら進んで怪しい話に乗った人々が、展開が期待外れになった途端に、その態度を一変させる。元々の話がどれだけまともだったのかに考えを及ばせることも無く、何ともいい加減な判断をした人間が、こういう態度を取ることに、もっと厳しい目を向けるべきではないか。被害者を装う人々こそ、社会の病を重くする源なのではないかと思う。
力を持つ者が勝つ時代、などと書いたら、あっという間に否定されそうだ。だが、平等を強く訴える一方で、力の無さを問題視する声も大きく、この矛盾を解決する手段は見つからない。同じ所を突いているわけではないので、両立する必要など全く無いのだが、同じ人々を対象とするだけに、擦れ違いが気になるのか。
成功に繋げる近道の一つとして、場に応じた力の獲得が挙げられるが、傾向と対策の時代に育った人々にとって、これは当然の手段と映るだろう。だが、その一方で、急激な変化が続く時代には、何が肝心な力なのか、見極めることが難しくなる。そんな中で、次々と繰り出される、何とか力という言葉には、それぞれに必要な力を表す気持ちが込められている。ただ、これ程多くの力が別々に必要となるのなら、それを身につけようと努力する人々には、多大な労力と時間が必要となるに違いない。それは、逆の見方をすれば、こういうものを追い求める人には、いつまでも到達点に至ることは無く、日々の努力が報われることは、ごく僅かになってしまうのではないだろうか。学校は、そういったものを身に付けさせる為に、社会が用意した存在であり、そこを通ることによって、様々な力が獲得できる筈である。そこを経て、社会に進出することを夢見る人々にとって、どんな形にせよ、通り抜けることだけが目標となるわけだが、抜けた途端に、また暗闇に追いやられることも多くなった。となると、今の時代は、何かが足らないとの分析が出され、補う為の方策に力が入れられる。だが、時代がどのように変わろうとも、人間が最低限身に付けておくべき力に、それほどの違いがある筈も無いとすれば、これらの方策は何の意味があるのだろう。職を得る為の力、と言えば分かり易いが、職に就いてからの力にならねば、失うものが大きい。そんな意味が込められた力も、どうにも理解されにくいものとなっているのは、根本の理解力の欠如の為か。
知りたいことは何でも手に入るように、という話が出てきて、双手を上げて歓迎する向きもあったようだが、何を考えているのかさっぱり解らない。知識欲と、格好良く表現する人々もいるが、覗き見趣味に似た部分もあり、見る側に立つことしか頭に無く、その標的となることなど思いもよらないようだ。
知りたいという欲求を満たすことばかりに話は集中しているようだが、この話題の中で、知ることによって次に何が起きたのかを、話し合う場面には出くわしたことが無い。その事柄を知ることで、何が起きるのかが重要でないとしたら、知ることも重要ではないのではないか。知識を豊かにするという、ある意味の成長過程で必要となるものは、確かに重要な要素であり、その上に築いて行くものは人格形成や人生において、欠くことのできないものだろう。しかし、最近の知りたいを眺めるにつけ、その背景にある濁った感覚には、こんな意識は感じられない。皆が知りたいことだから、などと言いながら、法を犯す行為には明らかな認識の誤りがあるにも関わらず、それを正当化しようとする人々は、知るべきこととの主張を繰り返す。だが、それを知ったとして、多くの人々は何を得たと言うのだろう。見たかったから、やっぱり思った通りだ、といった意見が出てきたとしても、そこから肝心の事実は現れてこない。何でもかんでも、と言う時代であることは認めざるを得ないとしても、その一方で、法律によって様々な権利が守られ、治安が保たれていることに、声高に異論を唱える人はいないだろう。こんな当たり前のことが、何故勝手な形で歪曲されるのか。不思議というしかないわけだが、まともな理解ができず、皆と一緒であることしか頭にない人々には、こんな理不尽も一片の問題もなく、当然と映るらしい。こんな流れからすると、非常識が常識化するのも、遠くないことなのかもしれない。
仕事をする上で、最も重要な能力は何か。それぞれに違うという返答を禁じたら、おそらくは、情報交換をする力、カタカナで表せば、コミュニケーション力と呼ばれるものが選ばれるのではないか。互いの思いを交換する為に、文字や言葉にその役目を託す。互いの心が読み合えない中では、当然のことだろう。
だが、周囲を見回してみると、そこでの障害が大きくなっているような感覚がある。自分の思いを伝えられない、というだけでなく、相手の思いを受け取れない、という場合も多く、誤解から、様々な事件が引き起こされる。ちょっとした気遣いが、逆に、圧力と受け取られたり、伝えようとした意味が、正反対の形に受け取られるなど、そこから生じる問題は、大小様々、色々な形で世の中に広がっている。この問題が特に深刻となっているのは、言葉を通じて意思疎通を行うことが、前提になっている職場であり、営業はその一つだろうが、かなり酷い状態に陥っているように思える。熱心な活動が、詐欺のように受け取られるのは、真意が伝わらないからとなるが、どちらに責任があるのか、はっきりしない。誠意が伝わらないという言い方だけでは、済まされない部分があるのだろう。一方、それとは全く別の形の問題が顕在化している職場は、医療現場ではないだろうか。基本は、問診にあるとの指摘が、昔からされてきたにも拘らず、偶に尋ねてみると、検査結果などを示す画面から目を離さずに、独り言のように呟く姿に、驚かされることがあるらしい。表現力が最大の問題、などとの指摘も、現実には、その職業だからこそというより、人間としての基本とすべきであり、その欠如は、あらゆる面で問題を大きくすることとなる。基本は、躾の中でというのが当然とはいえ、そんな連中が溢れる教室で、どうすれば良いのか、難しい問題かもしれない。
便利な世の中になり、つい忘れていたことに、ふと気付かされるときがある。年が改まり、年に一度の挨拶状が次々に舞い込むと、形だけのものに混じって、手作りのものが目に飛び込んでくる。年に一度だから面倒と思う人と、この時こそと手作りに精を出す人、人それぞれには違いないが、受け取る側の感覚は違ってくる。
便利なものを巧く使いこなす、ということも、こんな時代を生き抜く為には必要だが、一方で、その波に飲まれても、見失ってはいけないものもある。パソコンを使って見事に仕上げ、完璧な体裁を整えたものに、感心した時代もあったのだが、最近は、ただ漫然と用件を探り、それに応じるだけとなる。普段舞い込む手紙にしても、多くは印刷に過ぎず、冷たい活字が並んでいるだけだ。ほんの偶に、手書きのものが飛び込んでくると、俄然読む気合いが違ってくる。何故、と聞かれても、理由は定かにはならない。只、自分が書いたものに対する反応を、それぞれに眺めてみると、そこには明らかな違いが現れているように思う。手書きだったから、とか、そんな普通の反応に混じって、中身の面白さや興味深さに触れる反応に、驚かされることさえある。同じ内容が、活字で飛び込んできても、反応が違ってくるのではないか、と考えてみると、そこでの欠くことのできない要素は、実は手書きにあると言わざるを得ない。互いに、そんなことを当たり前として交換していた時代と異なり、冷たい文字を媒体として便りを交わす中では、内容こそが重要となるだけでなく、闇雲と思える程の頻度で交換することが必要となる。すぐに戻ってくることで、会話を楽しむかの如く、なのかもしれないが、何か別物になりつつある気もする。便利と交換に、また何かを失ったということか。
犯罪の凶悪化が問題視される度に、その取り上げ方にこそ問題があるとの批判が聞こえてくる。数字に踊らされる人々が、こういう場面では感情的な意見を重視するなど、問題の源は複雑に入り組んだ所にあるように見える。事実が何処にあるのか、事実とは何なのか、それを示すのは誰なのか、はっきりしない。
そんな中で、次々に起きる様々な事件に関して、どのような取り上げ方がなされているか、気にして眺める人がどれ位いるのだろう。そんなことが気になり始めたのは、特にこの年の後半に起きた事件に関して、その多くがその場で熱狂的に取り上げられたのに対し、ある瞬間から全く話題にも上らなくなり、もう解決したのかと思わされたからだ。現実には、それぞれの事件は何らかの進展をしている筈で、そこには新たに明らかになった事実も含まれるのだろう。だが、あの辺りに蠢く人々の歓心を買うことは無い。それこそが問題の核心であり、これらの情報発信において、偏った力が強く働いていることが解る。あれほどの力を入れて、様々と言いながら、偏見に満ちた情報を選んで流した人々が、ある瞬間からのその価値を見出せなくなるのは何故か、普通の感覚からは理解し難い。井戸端の話もそれに似た所があるが、こういった傾向が増すばかりという状態には、まさに終末的な雰囲気が漂う。自ら破滅に向かって邁進することに、気付かぬ人々が互いに下らぬ情報を共有し、それを安心に繋げるとしたら、その結末は当然のものとなるのかもしれない。だが、その結末を垣間見れば、多くの人々は気分を悪くし、何が悪かったのか気付くかもしれないが、どうなんだろうか。