パンチの独り言

(2010年12月27日〜2011年1月2日)
(好き嫌い、報酬、被害妄想、御託宣、内向き、心機一転、中庸)



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1月2日(日)−中庸

 評判の悪い制度でも、その見直しとなると中々事が進まない。それが導入された時には、意義深いものとして議論されたのだから、全くの間違いというわけでもなく、当時と同じように賛否両論があるわけだから、完全否定が難しいということもある。更には、新制度にも同じ状況が当てはまり、堂々巡りのようになる。
 心機一転とばかりに、全く異なる制度への移行を目指す人たちもいるが、その困難さは尋常ではない。新しい制度の一長一短は、現状との違いだけでは中々明確にはならず、単に新しさだけに目が奪われる。その結果、違いばかりに注目が集まって、本質的な議論には至らず、十分な理解さえ得られないことがある。こういう書き方をすると、あり得ないとする人からの反論がありそうだが、これまでの流れからすると、ごく簡単にこういった道を辿ることが多いから、不思議なものだ。人々の考えの深さは、時に議論されることもあるけれど、現実にはそれが測れる筈もなく、気付かないままに突き進んでしまうこととなる。二極化とか、二大勢力とか、そんな言葉で表される、二つの集団による決断では、どうしても両極端の結果に繋がることが多い。それを望む人々がいるから、という理由を挙げることもあるようだが、現実には、これまでの傾向からそんな希望を持つ人は少ないと思われる。自分達にとって良い社会を、という考え方は、当然のこととしても、極端がそれと合致するかは、別の話である。権力に与するかどうか、そんな立場でしかものを考えられないのでは、極端は無意味な展開しか産まない。歩み寄りをしてこそ、という場面もあり得るわけで、その可能性を始めから排除しようとする人には、こんな難局は越えられない。

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2011年1月1日(土)−心機一転

 新しい年の始まりに、思うことは何か。人それぞれに夢を抱き、それに向かって邁進するのが当たり前だった時代と異なり、何やら衰退の一途のような世相に、明るい夢も描きようがないと、そんな言葉を吐く人もいる。そんなことをして何になるのか、こんな人々は、そんなことを思う余裕もないのだろうか。
 明るい未来が見通せる時には、心の高揚も手伝い、怖いものが見えなくなることさえある。しかし、暗い世相となった途端に、様子が変わるのは何故か。それぞれに確固たる主張があるかどうかは解らないが、どうも流れに逆らうばかりでなく、流れに乗ることさえできない人々が、世の中に溢れているように感じられる。疑うことなく、誰かの指示に従い続けた結果、何かを自分で切り開く力は、何処かに消え失せてしまったらしい。今更、どんなにあがき続けても、何の解決も得られないと思えるのだろう。何故か、諦めの境地という空気が社会に満ちている。新年早々、そんなことを書き連ねても、無駄なことは解っているが、何故、という思いは拭い去れない。本人の問題と、一時はやった責任の所在を明らかにしても、実際には、何の解決も得られない。そんなことを深く考えても、無駄なことと諦めてしまって、別の見方を考えてみたらどうか。自信がないとか、どうせ駄目とか、そんなことを言うよりは、無駄かもしれない抵抗を、試してみることこそ、新しい年の始まりに、当てはまることに違いないのだから。

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2010年12月31日(金)−内向き

 どんな一年だったか、取り上げる機会が増え続け、様々な面から話題を提供する。事件も社会的なものだけではなく、それぞれに身近な話題を取り上げたり、言葉や文字で表現することがある。だが、ある業界に限ったものに及ぶと、身内の話で盛り上がるばかりで、他の人々には何の楽しみもない。仲間外れにされたように。
 人は他の人との関わりを作り上げながら、一年一年積み重ねて行く。自分だけ、と殊更に強調する人もいるが、社会の中で過ごす限り、他との関わりを無くすことは難しい。その一方で、他とは言え、同じ思いを抱く人々の集まりを大切にするあまり、そこから外への広がりが望めない、そんな生き方を選ぶ人もいるだろう。確かに、色々なことを試すことには限界があり、一度きりのものに違いないのだが、その中でも何をすべきか、人それぞれの決断がなされる。その結果に違いないのだから、後になってあれこれと思ってみても仕方ないのかもしれない。その日その日の出来事と、どんな形で関わって行くのか、そこにしか大事なことはないのではないか。ああすれば、こうすれば、と思い返すことが多くても、それで何も変わらねば、同じことにしかならない。安心が第一となっている時代には、こんなことさえ考えずに、日々安泰に暮らすことが重要なのだろう。だが、内向きになるばかりでは、何かを転じることはできない。ある広がりをもった中の内向きは、大した問題ももたないだろうが、いつの間にか、どんどん狭まって行く中で、それを止める力は出てこない。こんなものを読んでくれる人々には、こんな言葉は要らないが、世の中全体には、こんな気の持ち方は大切なものに思う。相も変わらぬ、悲観的な見方に、そんなことを書いてみて、ここらで一年の締めくくり。

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12月30日(木)−御託宣

 経済状況は、実際の所、どんな具合なのだろうか。マスメディアの情報も、錯綜している感があり、決めかねているように見える。その一方で、窮している人々を取り上げる姿勢は相変わらずであり、そこにある思惑が蠢いていることも否めない。情報に振り回される人たちにとって、この状況はどう映るのだろう。
 節約のみを追い求める姿勢は、そろそろその頑さが緩み、徐々に変わりつつあるように見える。しかし、困っているという態度は、相変わらずの状態であり、変えるつもりなど微塵もないようだ。ただ、世の中の流れは、そんな人々とは無関係に進み、重苦しい雰囲気は徐々に消えつつあるように見える。個別の例を取り上げれば、そんな状況を検証することも難しくないのだが、どうもその気配を見せないのは、何かしらの思惑があるようにしか思えてこない。そんな見方をすべきか、はたまた相も変わらぬ悲観視を貫くべきか、迷う人もいるのだろうが、もっと自分の見方を優先すべきではないか。他の存在ばかりに目を奪われ、人の動きに一喜一憂する姿には、確固たる存在は感じられず、薄ぼんやりとしたものにしかならない。集団行動の大切さを学んだから、という屁理屈をこねる人もいるが、そんな連中に限って、利己主義の固まりという言動や行動を示す。自分のことしか考えないのに、その根拠を他に求めるのは、自己矛盾以外の何ものでもないのではないか。自己中心の姿勢をとるのであれば、その根拠も自分の中に求めるべきだろう。経済に関しても、国がとか、他がとか、様々な要因ばかりを持ち出し、自らの動きは最後にしたいという魂胆が見え見えとなる。やれやれ、困った人々だとするのも一手だが、そんな連中の思わぬ方への誘導が、こんな時こそ必要なのではないだろうか。文句なぞ、言わせておけば良いのだ。

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12月29日(水)−被害妄想

 加害者と被害者、誰もなりたくないと思っているだろうが、どちらかと言えば、と尋ねられれば、後者と答える人ばかりではないか。こんな考え方が当然と思っていたら、最近は随分と様相が変化した。苛めや抑圧といった話題が日常化するにつれ、被害者であることが当然となる。となれば、始めの質問の答えは現実となる。
 チョットした運で、事件に遭遇してしまった。そんな程度に思っていたものが、日常的に起こるだけでなく、身近なものなってくると、深刻に考える必要が出てくる。そんな状態が長く続いたことで、人々の心の中には、被害者としての心構えみたいなものが、根付いてきたのではないだろうか。そんな立場が思いもよらなかった時代と違い、現代は誰もがその立場を頭の中に描くことができる。そればかりか、その立場に陥ることを、異様な状態と思わなくなってしまったのではないか。常に、被害を受けているという考えが念頭に浮かび、それに基づいて行動を決める。そんな人々が、身の回りに必ずいる状態では、彼らとの接し方が日々の生活において、重要な要素となってしまう。どんな言葉も振る舞いも、被害を基本として検証すれば、害を及ぼすものに見なせるわけで、そんな環境では、あらゆる動きが批判の対象となりうる。唯一の手段として、その場を去ることが考えられるが、それさえも「無視」という意図的な圧迫と受け取られれば、それでおしまいである。こんな微妙で不安定な環境で、何もできないのが当然ではないか。解決の糸口さえ見出せない時代に、人々はどんな生き方をすれば良いのか。混迷の時代は、以前とは違った形で、人々に圧力をかけているようだ。では、何の解決も得られないのか、と言えば、そうではないだろう。改めて、正常な人間関係とは何か、を見つければ良い。一方的でなく、双方向の関わりとは何か、を。

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12月28日(火)−報酬

 内定率の低迷が続き、大きな問題となっている。更には、たとえ職を得たとしても、その収入の低さに困り果て、毎日の暮らしに不安が拭えない人も多く、こちらも度々取り上げられる。どちらも、経済の停滞が大きな原因とされるが、それだけでは説明できない部分も多く、社会全体のものの考え方の変化も関係しそうだ。
 率の話は全体であり、収入の話は個別だから、全く別のことを扱っているとも思えるが、現実には、どちらも個別の話の集合であり、その構成員の分析こそが、問題の本質を見極める為に、重要な要素となるのではないか。例えば、大学ごとや学部ごとの率の違いに注目する話は少なく、そこに話が及ばないような力が働いているように見えるし、業界ごとの収入の多寡に話が及ぶことも少なく、触れてはならないといった雰囲気が漂う。以前なら、何処が目玉かといった形の筋書きが多く、そこへの集中を促す力が働いたのだが、それによる差別化が更なる歪みを産み出す流れに、責任回避を第一とする動きが起きたように感じられる。本来は、個人の責任に帰結させるべき話も、社会への転嫁が専ら使われ、標的を失った議論には、何の重さも感じられなくなる。にも拘らず、こんな議論を続けるのは、やはり責任という言葉に対する考え方の変化が、大きな要因となっているのではないだろうか。何かしらの労力を費やしても、それに対する報酬が得られなければ、全てが無駄になるといった具合に、悲観的な筋書きが作り上げられていく。こういった論理展開が、当然のものとされることで、自らの努力よりも、他への依存が強まり、負の連鎖が構築されているように思える。只、こんな話は、文字や映像を使って作り上げられた虚構であり、一人一人の話は全く違ったものとなることに、そろそろ気付いた方が良いのではないか。努力は必ず報われる、と。

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12月27日(月)−好き嫌い

 新たな情報交換の手段が次々と考え出され、新しいもの好きや便利好きな人々に重宝されていると言う。いつの間にか、検索エンジンにまでそんな項目が設けられ、どういう選別が行われているのか、まだはっきりしない面があるものの、その普及が進んでいることを実感させられる。古い人間には、関係ないことだが。
 情報は、その伝達手段を変えたとしても、その質が変わることは無い。これ程明らかなことは無いと思うのだが、最近、この手のものに参加する人々は、そんなことは微塵も思わないらしい。速いこと、誰もが参加できること、そんなことを書き並べ、そこに価値が見出せる筈、といった主張が続く。この状況分析が間違っているとは思わないが、情報の質が変わるかどうかは、仕組みによるのではない。少なくとも、参加者の数だけでは変わらず、そこに質の良い人が集まってこそのものだろう。更に、もう少し厳しい見方をすれば、どんなに良質の人が情報を提供したとしても、それを受け取る人々に、その見極めができないのでは、何の意味も無いということになる。こういった情報交換の最大の利点は、参加者の多様性にあり、そこに意味を見出すのであれば、大いに推進すべきと思う。だが、参加者の多様性とは、単にその幅を広げるのみならず、良質の人間だけでなく、悪質な人間をも取り入れるということとなり、その割合は、社会の構成率にある程度沿ったものとなる。こうなると、どうにも動かせない部分があり、区別をしないことによる弊害のみが、表面化することも多くなるだろう。民主主義が、全員参加を意味するだけなら、大したことも起きないのだが、そこに多数決という、偏った民意の反映が加わると、一気に話が複雑となる。都合のいい意見のみを拾い、反論を捨てるという、狭量さばかりが目立つ仕組みでは、質の向上は望めないばかりか、自己崩壊への暴走が繰り返されることになりかねない。

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