何事も他人事のように扱う人々がいる。井戸端会議のような雰囲気も、そんな気持ちから出ているものらしく、全く別の世界の如く、一切の責任も感じられない。だが、実際には、自分たちが住んでいる国のことであり、自分たちが関わる話なのだから、不思議である。何故、他人事にできるのか、理解し難い。
こんなことを書くと、すぐに賛同する人がいるかもしれないが、そういう人たちには、自分の行動を省みて欲しい。投げやりな言葉を用いて、周囲のことでも別世界のように扱うのは、常日頃のことではないか。そこだけ見たら、ああいう連中と何も変わらないように見える。こんなことを言われては心外と、反論が出るようならば、その人々はまだ大丈夫かもしれない。但し、その反論が自らの行動に気付かぬ上でなら、まあ諦めた方がよく、どちらかと言えば、無責任に他人事のような言動をしているのではなく、ある意味、諦めに似た境地から、そんな言葉が出てしまったというのであれば、脈があると言えるのだろう。要するに、言葉尻を捉えたり、上辺だけを見ることで、判断を繰り返すのは、そろそろ止めにして、そこにある筈の責任感が、失われていないかどうかを、判断の基準とすべきだろうということだ。投げやりに見える発言を繰り返しても、ちゃんと始末を付ける人間と、如何にも、気配りのできた言葉を並べても、すぐに無視したり、見て見ぬふりをする人間とは、中身が大きく違っているということなのだ。どうも、優しい言葉に飢えた人々が、世の中に溢れるようになってから、そんな傾向が高まり、ちょっとした言葉で一喜一憂を繰り返す人や、甘い言葉に騙される人間が増えてきた。疑うことは悪いこと、との意見を聞くこともあるが、何の根拠もなく盲信する人には、悪い展開も致し方なし、ということだろう。
祝いの席などがあり、無理が祟っている人もいるのではないか。昔の人は、そんな機会を捉えて、体に優しい食事を心がけたようだが、最近では、これも形骸化しているように見える。そんな中でも、様々な所で話題になるのは、これを商売の種にする動きがあるからだろう。栽培されたものが主なのも、その辺りの事情か。
自らの健康の為、という目的が、いつの間にか金儲けの材料とされてしまう。それでも、本来の意味が変わる筈もないのだから、文句を並べずに、有り難くいただいておけば良いのだろう。こういう類いのものも数々あり、縁起をかつぐものや、栄養を考えたもの、様々である。始めは、色々な謂れがあったのだろうが、それが人の歓心を買うようになると、それに群がる人が出てくる。この時期に現れるものもそうだが、ひと月程後に現れるものも、その一つだろう。一部の地域で話題になっていたものが、いつの間にか全国へと広がる。情報社会の整備は、こんな所に最も大きく影響しているようで、以前ならば、そのまま地域に根付くのみだったものが、何の理由もなく広がりを見せるようになる。信仰との結びつきがあるからか、それとも、単に商売の種と見なされたのか、いずれにしても、話題性を高めることで、皆の注目を浴びる。どれもこれも、そんな見方をすると、冷静に見守れるのかもしれない。その一方で、たとえ乗せられたにせよ、それによって気持ちよくなるのであれば、それで十分という考え方もある。人それぞれは、こんな所にも現れているのだろうか。
車を走らせていると、様々な場面に出くわす。ヒヤリとすることも偶にはあるが、その多くは、他の運転者の予期せぬ行動によるものである。脇道から出てくる車に、道を譲るかどうかは、その土地柄によるとの指摘もあるが、真偽の程は解らない。土地柄という意味では、もっと別の行動に気になる部分があるようだ。
道路の整備が進んだ土地では、都市計画が十分に練られており、それぞれの道路の幅が確保されている。そういう場所では、右折用の車線が用意され、渋滞の緩和に一役買っている。その一方、整備が遅れた地域では、依然として狭い道路に、許容量を上回る交通量があり、右折の車が一台いることで、渋滞が発生することがある。片側一車線の道路で、幅が十分に確保されていなければ、こういう結果を産むことは致し方ないとも思えるが、反対車線が同様に動きが鈍くなっているなら、一瞬の譲り合いで簡単に解決する。それが難しい状況でも、道幅に少し余裕があれば、別の要素が現れてくる。右折車が中央線に寄せていれば、左側に十分な空間ができ、後続車はそれを擦り抜けることもできる。運転技術を学ぶ場で、そういったことを教えて貰った記憶があるが、その知識と言うか、知恵がない運転者が目立つ気がするのだ。道幅の広い地域では、こんなことは問題にならないから、そういった感覚を持つかどうかの判断ができないが、狭い地域では、大きな問題を生じ、被害を受けることさえ出てくる。そんな環境下では、ちょっとした気遣いの有無が、気分に大きく影響するわけで、これが更なる事故を招くとなるとしたら、困ったものだろう。交通に関わる役所の人たちが、そんな指摘をする所を見ると、こういう地域の人々は、そんな感覚を持ち合わせていないということか。
保護主義が批判されるのは、市場主義を第一とする経済構造の中で、本来ならば生き残ることのできない国内産業を、何とか維持しようとする動きがあるからで、そこに主義の間の矛盾が生じるからだろう。その殆どは、成熟した国において起きる現象であり、発達途上にあると見なされる所には無縁と思われている。
そんな見方のせいか、途上国に入れられる国々における、輸出入の制限は全く違った感覚で取り扱われる。だが、国内事情がどうあれ、同じような形での制限を掛けていることには変わりがなく、それが一見異なる目的を持つとしても、他の国にとって悪影響を及ぼすことにも変わりがないのではないか。特に、昔のことであれば、資源国と生産国は明確な違いを持ち、その違いが差別的な扱いに及んだり、優位性の決定に大きく影響を与えてきた。生産にかかる経費の削減は、企業として大きな問題となり、消費国と生産国の区別の方が大きく扱われるようになると、場合によっては、資源を持つ国が生産をも受け持つこととなる。そんな中で、輸出入に関わる様々な制限が、そういった国で実施されることとなると、色々な意味での悪影響が広がることとなる。生産物の輸出にかける関税は、その最たるものとして、以前から批判の対象となってきたが、それを含んだとしても、依然として安価であればよしとするなど、強い意見は出されずじまいだった。そこに、今回の資源の流通を制限しようとする動きには、多くの場所から強い意見が出されている。保護という言葉は、このような場合にも十分に当てはまると思われるが、目的の違いから的外れにも映る。いずれにしても、保護主義と同様に、自国の利益のみを追求しているわけで、同じような批判をぶつけることは誤りではないだろう。一番の問題は、どんな圧力がかけられるのか、ということだろうが。
最後の年に入り、愈々後半年程の命となった。これだけ煽り続けられれば、誰だってそんなことは解る筈、と思うのは、普通の感覚を持った人間だからだろうか。これでもか、と煽りの勢いばかりが強まり、何が肝心なことかは、見えなくなりつつある。これこそが、この手法の一大欠点と言ってしまうのは、どうだろう。
狼少年の物語を思い出すのは、少し的外れなのかもしれないが、この展開は、まさにあの物語の主旨と一致する。大きな違いがあるとすれば、社会全体に渦巻く被害意識であり、僅かな欠陥さえ残さぬようにとの、用意周到性が垣間見える。だが、どんなことをしても無駄と思えるのは、同じ社会の構成員の一部に、無関心というものを前面に押し出した集団が存在することで、彼らの中にも、強い被害者としての意識が横たわることが、問題を更に大きくする。高感度の高さを誇った人物の起用も、当人の奇行により裏目と出たが、それとていつの間にか、忘れ去られてしまったらしい。だが、事件の後の顔つきには、それまでの無垢な雰囲気が漂わず、どちらかと言えば、犯罪者の影さえ見え隠れする。いずれにしても、業界全体が挙って推進する中で、制御がかかる筈もなく、他では異論が出る手法も、当然の如く流される。この勢いは、制度が大きく変わったことから、衰えることはあり得ず、ある日を境に、全く違ったものになることだけは間違いない。だが、この進め方が、正しいものかどうかは、その事情とは別に、真剣に見極める必要があるのではないか。毎日のように、叫び声が聞こえてくる公告に、本質を見失った人々の横暴さが、現れているような気がする。
物事を悪い方に考えること自体、悪いこととは思わないし、自分自身もそういった傾向があると思う。だが、世の中の流れを見ていると、同じ方を向いているように見えて、実際には、その後の展開が大きく違うことに気づかされる。悪くなると言うばかりで、何もしなければ、どうなるのかと。
悪くなる話を紹介し、暗い話を広げる人々に、どんなに文句を並べてみても、何も変わりそうにもない。彼らは、その手を使い続けることで、自分達の商売を維持し、生き残ろうと必死なのだ。問題は、それを伝え聞いて、庶民がどう思うか、ということにある筈であり、商売を邪魔しないまでも、これ以上繁盛させる必要はない、ということにある。悲観的な話は、色々な意味で注目を集め易い。それに乗じて、調子に乗った挙げ句、二進も三進もいかない状態に陥るのは、本人達の自由だろうが、一緒に途方に暮れる必要など、微塵もないのである。何処でどう間違ったか、自分の考えより、他人の考えを優先し、欲望だけが残る事態になると、何とも不自然な姿勢が続くこととなる。他人任せで、欲望を満たす手段は、そうそう簡単に見つかる筈もない。そんな中で、口車に乗せられ続ければ、自らの力は失われ、自力回復の可能性は消え失せる。そんな状態に陥ったのは、全てが社会や時代のせいと、結論づけるのは本人の勝手だが、何の解決も得られないことには変わりがないのだ。変化を望まない姿勢は、こんなところにも現れていると指摘する向きもあるが、やれやれ、戯れ言を言い続けるのもいい加減にして欲しい。自分達の力を信じずに、何かをやり遂げることなど出来はしない。少しは、動く気を起こしたらどうか。
誰のせいにしても構わないが、あれこれ五月蝿く言い続けるのは、いい加減にしたらどうか。責任を取る気もなく、率先して動く気もなく、より良くしようという気さえ感じられない人々に、今更何を期待するのか。一方的な見方に思えるかもしれないが、実際には、これが双方共であるだけに、救いようがない。
世論とか、民意とか、得体の知れない代物に振り回され続けるのは、その主体が確固たる考えを持っていないから、などという批判も、自分に向けられた途端に、狼狽えるばかりとなる。だったら、黙っているのが一番の筈が、こういう連中に限って、立場の違いを露骨に表すのだから、人格が疑われても致し方ない。それを民衆の立場から、批判する人々にしても、そんな連中を選び続けるのだから、片棒を担いでいると言っても、いいくらいなのではないか。結局、的に向けて矢を放つしか能のない人々は、的になる覚悟もなく、改革の先頭に立つなぞ、思いもよらないことだろう。識者と呼ばれる人々さえ、表舞台に立つことが減り、便利屋としか思えない、笑いを誘う人々が、制作者の意図に沿った発言を繰り返す。元々、まともな考えさえ浮かばず、単に注目を浴びることだけが目的のものでは、何の新展開も望めないが、ここ迄堕落の一途を辿ってしまっては、好転の兆しも見えぬ。誰が悪いかを主題とせず、何を変えるかだけに集中すれば、ずっとましな展開が期待できる筈。だが、誰も前に行かない状況で、一歩踏み出す勇気は、何処に眠っているのだろう。