批判を繰り返した人々が、その的となった途端に、苦しみが噴出する。自ら主導して、様々な策をめぐらす度に、その欠点を指摘される。どんな策略も、完璧である筈もなく、何かしらの欠陥をもつ。何かを推し進めようとする際に、それだけに焦点を当てれば、何処かに影ができる。当然の帰結なのかもしれぬ。
提案とは元々そんなもの、との認識があれば、ある程度の寛容が生まれる。しかし、それでは、体制を批判することには繋がらないから、重箱の隅を突ついてでも、拙い部分を指摘するのだろう。それが何を意味するのか、批判者の頭には一つことしか浮かばない。批判だけのことに違いなく、提案をより良いものに転じるつもりなど、微塵もないのだろう。これが、勢力間の争いと言えば、確かにその通りなのだが、そこに何らの生産性も感じられないとなれば、どれほどの意味を持つのだろう。批判とそれに対する防御に専心するのでなく、互いの歩み寄りや譲歩による改善を心がければ、もっとましなものができるかもしれない。推進したい対象が絞られる程、狭い内容にしかならないことは、火を見るより明らかだろう。だが、様々な力関係から築かれた仲間意識は、そんな偏狭に陥るばかりで、多彩な見方を排除するばかりである。この手の意識の弊害は、単に組織内のことばかりでなく、他の組織との関係においても、何事につけ反対することとなり、全体としての生産性や質の向上を妨げることとなる。全く下らないものだ、と決めつけるのは簡単だが、さて、自分の周りを見回した時、自らの行動は、どんな具合になっているか、改めて考える必要があるのかもしれない。
改革と称して披露されたものに対して、何も変わっていないとの批判を浴びせる。外から見れば、どちらの側も変わらず、そこから何かを変えようとの意図は伝わってこない。同じままを望み、その中で成長を続けてきた人々には、変化は無駄としか映らず、周りが沈下し続けたとしても、動きさえ起こそうとしない。
それにしても、変化に対する拒否反応は何処から来るのか。これまでの歴史からとか、経験からとか、そんなことばかり並べたとしても、本当のところは見えてこないだろう。歴史も経験も無い人間たちが、変化というお題目を並べるばかりで、自分から動こうとしないことに、問題の本質が見えてくる。これらの人々が育った時代は、望むかどうかに関わらず、次々と変化が降り掛かってきた。更にそれを強めたのは、変化を重視する政策を前面に押し出し、前進するより、横車を押すことに躍起になった政権の登場で、それ以降、変化は単なる見せかけに過ぎず、中核を為すべき人々が、動こうとしない状況が続いている。動きたくないのであれば、不動を主張すれば良いだけだが、人気取りや金儲けに繋がると、ついつい口を出す人々には、何か思惑があるに違いない。本人たちは、そんなことばかり考えて、次々と新手を繰り出すだけなのだから、それに振り回されることを止めれば良いだけのことだ。改革が進むか、などと何の足しにもならない議論をするより、自分の周りをどう良くするかを考えればいいのではないか。他人事ならば、口が出せるという人が増えたことは、まさに、社会を空洞化させることに繋がる。自分のことと思えぬ人々は、もう黙らせておけばいい。さっさと、動ける人が動けばいいだけだ。
守秘義務についての見解が出される度に、問題の本質を見ようとしない人々の、見識の低さに呆れるばかりとなる。本来ならば、義務が何よりも優先されるべきなのに、状況に応じてそれが変化するかの如くの論法には、一本も筋が通らないという批判が当てはまり、社会全体の迷走ぶりの現れと思われる。
問題の本質は、義務を負う人々の責任についてにあり、それが状況に応じて変化したのでは、守るべき主体が見えなくなる。そんな環境で、人間の責任を問うことは不可能となり、秩序を守ることは更に難しくなる。この問題を高い位置から見渡そうとする人は殆ど居らず、皆が地べたに這い蹲って、議論に参加する姿には、社会の構造が崩れつつあることが反映されている。根本の考え方が、既に崩壊している中では、様々な議論が正常に進むことも期待できず、自由より制限を優先させる必要が出てくるのではないか。現状を見渡す限り、そんな心配が出てくる程、自制心のない人々が溢れている。そんな中で、情報の共有や伝搬に役立つ、様々な技術が登場していることは、現実には、危機感を抱かざるを得ない部分がある。映像や機密文書が流出した事件においても、始めに掲げられたものに関しては、それなりの規則に従って削除されたらしいが、それよりも伝搬速度は遥かに速く、増殖能力の高さが子や孫を産み出すこととなり、情報の共有の方が、秘密保持よりも遥かに力を持つことが示された。確かに、情報を握ることは様々な面で重要な要因となり得るものの、それが全てにおいて優先されるとなると、危うい部分が大きくなる。もし、共有を最優先することが何よりも重要とするのなら、自らに関することもそれに付け加えた上で、世に曝す覚悟が必要なのではないか。
玉石混淆、真偽入り交じった情報が垂れ流される。これが情報社会の現状ではないだろうか。出力はそれぞれの利用者だが、入力が何処にあるのか明らかにならないことが多い。責任の所在が不明確であることは、操作を目論む人間にとって好都合であり、更なる混乱を招く可能性も、高まるばかりとなる。
こんな状況を危ぶむ声が大きくなるに従い、制限を望む意見が出始めたと聞く。偽情報に騙される人間が悪い、とする冷淡な意見は批判の対象となり、管理責任や発信責任が問われることとなる。ただ、特定の難しさこそが社会全体の問題とされるだけに、個人特定無く責任を明確にしたとしても、何の役にも立たないことは明らかだろう。そんな状態だけに、真偽を見分け、偽物を排除する手立てに注目する声もある。だが、利便性の追求が、より速い流通の導入へと繋がり、ツイッターなる仕組みまでが出現するに至り、伝達速度の向上だけでなく、増殖力が高まると、こんな手立てが無力化される可能性が考えられる。誰かが流したデマ情報が、社会全体に広がるのは、こんな仕組みがない時代にも、よく見られた現象であり、何かしらの危機に瀕した時こそ、その伝達速度が高まり、話が大きくなるばかりという傾向は、おそらく、現代の情報社会においても、同じ状態になると思われる。それは、人間心理の現れであり、冷静な判断を下す力の喪失が問題視されることから、危機に陥らずとも、嘘に振り回される人はかなりの数出てくるものと思われる。仕組み全体の問題としては、これが増殖できる仕掛けが広がりつつあることがあり、参加者全体の判断力が問われる。そこに信用がおけないからこそ、排除を提案するのだろうが、便利さを追い求めた結果は、そんな小手先では何も解決できないことをはっきりさせているようだ。
安価な製品を追い求める世の中の流れは、止まりそうにもない。巡り巡って、自らの首を絞めることになるという考えは棚上げされ、今の享楽を求め続ける姿勢ばかりが強まっている。長い目で見ることの難しさは、こんな状況では強まるばかりであり、そんな社会に出る為の困難も、高まるばかりとなっている。
閉塞感は、そこに居る人々にとって、重要な感覚のように扱われるが、現実には、外から入る人間にとっても、見逃せない感覚となる。伸びを失った社会において、そこに留まることが余儀なくされれば、参入者を歓迎する機運は失われる。一種の閉鎖的な雰囲気が、こういう時には築かれることとなり、入り込むことの難しさが問題となる。試用期間が終了した途端に、雇用を打ち切られるなど、そういった問題が表面化する例も、時に紹介されるものの、全体としてはごく僅かなものに過ぎない。それより大きな問題と見なさねばならないことは、新たな参入に対する圧力であり、全体として流入率が低下し続ける現状にある。これは、社会全体の問題として扱うべきだが、責任転嫁に慣れた人々は、自分以外の所の問題を取り上げる。その結果、社会への出口とされる教育の場に、より大きな圧力がかけられ、そこで次々と繰り出される手立てに注目が集まる。だが、問題の本質を見極める前に、慌てて出される新商品は、どれもが付け焼き刃的で、根本的解決に至らぬものばかりとなる。そんな状況に業を煮やした人たちが、制度を改正してまで解決を急ぐ理由は、ごく簡単なものであるが、伝えられる現場の様子は、その理解さえ進まぬ、時間と金の無駄としか思えないものが多い。価格追求に慣れた感覚には、質の見極めを為す回路はなく、粗製濫造でさえよしとする。小手先の技術を伝授する姿勢には、社会を根本から支えようという意欲は全く感じられない。
中流意識の強さが、国民性の現れと言われることが多かったが、最近はそんな意見はあまり見かけなくなった。何が変わったのかと考えると、一つの可能性は、二極化の考え方にありそうに思える。勝ち負けを強調したり、白黒をはっきりさせたがる。何時頃からか、こんな考え方が目立ち始めたようだ。
中流とか中庸とか、集団の半ばあたりにいることで、安心感が得られるという意見には、それなりの重みが感じられる。だが、それが一変して、極端を望む、それも良い方に偏った考えが、台頭するに至ると、少し雰囲気が変わってきたようだ。中流は平均的という意味だと答える人は多いが、平均とは何か、きちんと考えられていないように思う。金銭的なものや、元々数値によるものであれば、そこから平均を求めることも、強ち間違いとは言えない。しかし、数値でなく、感覚的なものにまで、平均化を導入するようになると、無理矢理としか思えなくなる。このような手続きで、実体があやふやになればなるほど、それを追い求める人は厳しい現実に直面することとなる。目標を見失ったままに、何やら解らぬ方に走り続けることは、暴走と何ら変わらないからだ。平均という化け物に囚われた結果、袋小路に追い込まれるのでは、集団から脱落することとなる。国民性の最大の特徴は、現実には集団の形成にあった筈が、こんな形で歪曲されては、中々修正も難しい。二極化にせよ、平均化にせよ、どちらにしても、集団の中での話と受け取れば、何のことはない、今までと何も変わらないのである。もう少し、自分たちの姿をじっくり眺め、実態を捉える工夫をしたらどうか。
この時期になると、毎年必ず話題に上るもの、それは、自由と責任、権利と義務、という組み合わせの言葉だろう。それらを背景にして、目の前で演じられる愚行に対し、批判を浴びせる人々のうち、一体どのくらいの数の人が、当時、その意味を理解していたのかと思う。でも、後からなら何でも言える。
反省に基づいた提言ならば、何らかの意味を持つのかもしれない。しかし、反省でも、自分の行動は特別扱いにし、とって付けたような論理を展開するものでは、渦中にある人々には、妨げになるばかりで、助けになることは少ない。反面教師としての存在は、ある見方からすれば重要だが、そればかりとなっては、道筋は見えてこない。形ばかりのものに注目が集まる時代には、特にその点が重要と思われるが、飾り付けばかりに目を奪われ、本質を見抜く力を失った人々には、そんな問題は姿を現さない。責任や義務ばかりを強調し、その意味を伝えられない人々には、大切なものが見えていないのでは、と思うことが屡々ある。だが、成功者に多く見られる傾向では、こういった感覚が当たり前となり、彼らの言葉は重みを持って伝えられる。実際に、何が重要なのかは、その時代、その渦の中にいる人々にしか解らない。にも拘らず、恰も経験豊かな風を装う人々は、したり顔で助言を与え続ける。失敗を恐れぬ心を強調するにも、本当の失敗を繰り返した人の言葉と、単にそれを避け続けた人の言葉では、随分違った感じで伝わるのではないか。責任も義務も、その意味を理解してこそのものである。こんな混迷の中では、成功体験ばかりを強調するのではなく、失敗の意義を伝えることに、もっと力を注ぐべきなのかもしれない。