パンチの独り言

(2011年1月17日〜1月23日)
(特異日、督励、安っぽい、拝聴、振り子、雑音、身近)



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1月23日(日)−身近

 観光地は、その場所に住む人の為にあるのではなく、よその土地からやってくる人の為にある。人間が作ったものを眺める為の場所が多いけれど、自然の営みを観察する所も増えてきた。「遺産」などと銘打って、大々的に運動を繰り返すことで、その知名度を上げる動きが当然となっているが、どんなものだろうか。
 人が作ったものを一度見てみたいという欲望は、遠方の地への遥かな道程をも克服する、心の力へと繋がる。人造物はそれぞれが唯一のものであり、そこにしかないものと言えるから、その場でという気持ちが高まるのも当然だろう。複製品で我慢できる人は、模型なり写真なりで十分な満足を得るだろうが、本物志向と呼ばれる人々は、どんなにそっくりに見えても、偽物では満足できない。そんな所に、場所の指定をする意味が込められているのかもしれない。だが、一方で自然を愛でる心についてはどうだろう。確かに、自然が作り上げた景色でも、人間のものと同じように、そこにしかないものが殆どだ。そんな景色について言えば、その場に行かねばという気持ちが高まるに違いない。だが、自然の営みと言えば、景色だけでなく、そこに暮らす生き物たちにも目を向ける必要がある。そんな時、多くの鳥や獣は、ある特定の地域にだけ暮らすのではなく、色々な場所に分布しているものだ。そこでないと、という気持ちの中には、何となく、その場にいるものを特別扱いするものがあるのではないか。これをもう少し拡張すると、ある生き物だけに限定するのでなく、あらゆる生き物に興味を持つべきとの考えも出てくる。こうすれば、どんな都会にも、人間以外の生き物が生きているわけで、それを眺め、観察するのも、大切なことだろう。特別でなく、ごく当たり前のこととして。

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1月22日(土)−雑音

 相変わらずの凄まじい勢いで、煽り立てる悲観的な筋書きに、振り回される人々が居る。今に始まったことではなく、情報発信が巨大組織によって行われるようになった頃から、こんな状況は続いているのではないか。今の人々が、かつてない程の悲劇に見舞われている、という展開は注目を浴び易いということか。
 この季節、毎年のようにラジオから流れてくる曲は、二十歳前の若者が苦しみの中にある状況を歌ったものだ。半世紀近く前に流行した楽曲が、未だに聴き続けられるということは、その時代背景に変化がないことを示しているのではないだろうか。だが、生活の変化は著しく、心情の変化も急激だった。それにも関わらず、同じ話が通用するのは、どういうことだろうか。ほんの数年の間に、次々に巻き起こった大事件によって、人々の考え方は大きく変わる。それを無視するかのように、同じ筋立ての劇を演じようとする組織は、どんな思惑を抱いているのだろうか。何の役にも立たない情報、更には真実に基づかない情報、そんなものをまき散らし、注目を浴びようとする行動に、どんな意図があるのかは理解し難い。だが、これだけ繰り返されることには、何か意味があるに違いない、と思ったりする。現実には、同じことを繰り返し、弱気の虫を叩き起こすことで、自分たちの立場を守ろうとしているだけのことかもしれない。そんな他愛もない動機だとしたら、尚のこと、振り回されたり、悩んだりするのは、相手の思うつぼなのではないか。自分のやるべきことを認識し、それを貫徹することで、雑音に惑わされることもなくなる。自信は、自らを信じることでもあるが、こんな障害を乗り越えることで、培うことができる。

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1月21日(金)−振り子

 新しいことを始める際に、それに携わる人の心情が表に出ることがある。否定的な見方をする人々は、始めること自体に躊躇が見られ、悲観が占める雰囲気が漂う。一方で、肯定的な考えをする人たちは、成功を夢見て突き進み、楽観が大勢を占める。ただ、表面が両極端でも、結果は極端にはならないものだ。
 楽観と悲観は、極端な立場を表しているように見えるが、実際には、取り組み姿勢における違いの方が大きく、それによって結果が大きく異なることも多い。楽観的な見方をする人の多くは、事前の準備に力を入れるより、始めた後の対処に気持ちが傾き、順調に進む限り問題は生じないものの、時に、開始時点での判断の誤りが、最後まで影を落とすこととなる場合もある。そこで最も肝心なことは、原点に立ち戻ることであり、間違いを繰り返しながら、走り続けることは結果には繋がらない。一方、悲観的な見方からは、事前準備が整い、慎重な計画の構築が期待できるから、一度走り出してしまえば、それなりの結果を産むことに繋がる。それなら望む所だ、という意見も出てくるが、実際に一歩が踏み出せるかが、この手の考え方をする人々にとって、最も重要で、難しいこととなる。当然、その推進を促そうという思惑のある人々にとっては、気を揉む時間が無駄に過ぎて行くこととなり、心理的にはかなりの葛藤が起きる。極端でなく、中庸を目指せばいいという指摘は、当然出てくるものだろうが、では、楽観と悲観が共存する感覚とは、どんなものだろうか。最適なものという考えの一方、自己矛盾を生じることは容易に想像できるから、逆に丁度いい所へ落ち着くより、分裂的な状況に陥ることの方が、ありそうに思えてくる。無理矢理中間的な立場を目指すより、現実には、両極端の間を行き来することの方が、安心なのかもしれない。

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1月20日(木)−拝聴

 他人の話を聴くことは、どれ程の意味があるのだろう。講演会やセミナーなど、ネット上の情報を探ると、次々と現れることから、かなりの数のものが毎日のように実施されていることが想像できる。問題は、それぞれの中身だけでなく、自分にとって役立つかどうかであり、数ある中から、どれを選ぶかとなる。
 そんな中で、色々と選び出した後、実際に参加すれば、話を聴くこととなる。講演題目や短い内容説明、更には、登壇者の経歴などから、それぞれの話の中身を想像した上で、実際の話を聴いた時、理解できるかどうか、役に立つかどうかが初めて判る。下調べをした上での参加となれば、ある程度の理解が期待できるものの、話の展開は必ずしも予想通りとはいかない。書籍などのように、文字化されたものであれば、それを繰り返し眺めることで、理解を進めることも可能だが、その場限りの口頭でのものとなると、現れては消えの繰り返しとなり、瞬時の理解が重要となる。準備段階との大きな違いは、場当たり的な部分にあり、そこでの理解が不足すると、その後の展開が苦しくなる。メモを取ったり、果ては録音までする人が居るものの、その場での理解が不足した場合には、中々それを乗り越えることが難しい。日頃から、じっくり時間をかけることで理解を促すだけでは、こういった形式のもので能力を発揮することは難しくなるだろう。鍵となるのは、瞬時の理解という点にあるとすれば、日頃から、その辺りを鍛える必要があるのではないか。繰り返すことでの実現ではなく、たとえ足らない点が残ったとしても、それが妨げとならずに、次の段階を迎える姿勢が必要となる。この辺の能力が不足すると、結局は、話し合いを意味深いものにすることができず、交渉事が苦手となるだろう。少し視点を変えなければ、判らないかもしれないが。

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1月19日(水)−安っぽい

 安物買いは何も品物に限ったものでもないらしい。同じ価値ならなるべく安いものを、という考え方は、あらゆる商品に当てはまる話なのだから、物でなくとも、資格や知識といった無形のものにも、適用される。だが、表面的には同じでも、中身が大きく違うのは、安物買いで痛い目に遭った話と同じかもしれない。
 力や時間を使わなくても手に入る、といった売り言葉で勧誘する組織があるのは、いつの時代にもあることだが、金銭価値だけでなく、努力の上に築かれるものでは、楽と言われればそれなりのものとなるだけのことだ。史上最悪の状況という煽りもさることながら、その状況の説明には、多くの欠陥欠落が見え隠れする。全体を対象に獲得率を報じるのはやむを得ないとしても、その背景に目を向けるのでなく、一部の例を引き合いに出して、困難さを強調する姿勢には、相も変わらぬお騒がせ状態が現れている。意識水準、知識水準、あらゆるものに、個別の違いが現れるのが当然なのに、それぞれの違いを無視して、押し並べた分析を繰り返す。その無意味さに、渦中の人々が気付くことは決してないのだろうが、それに振り回される人の数も、減りそうにもない。何処に問題の本質があるのか、もっと精密な分析を施せばいいのに、そのことに気付きもしないのは、やはり螺子が一つや二つ外れているからだろうか。障害を乗り越える努力は、人それぞれにその大きさや質に違いがあり、それがこの報道で伝えられる内容に影響することは、容易に想像できる。もし、それが事実であるならば、その点に関するデータを加えた上で、解析を進めてこそ、問題の本質が見えてくるのではないだろうか。

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1月18日(火)−督励

 人材育成は、経済の停滞が取沙汰されるようになってから、更にその重要性に注目が集まっている。一方、それと同じような頃に、評価を基本とする考え方が、正当な仕組みとして採り入れられるようになって、短期的な成果が重視されることとなり、育てるという観点からは大きな矛盾が感じられるようになった。
 本来、育成などというものは、手取り足取り行うのではなく、じっくりと時間をかけて、本人が気付くのを待つといった形のものが、主体となっていた。特に、この国は、徒弟制度において、教えるよりも盗むことが尊ばれ、自らを高めようとする意欲に、期待する所が大きかった。それが、評価制度の導入に従い、即効性のある方策に力を入れる傾向が強まり、待ちの姿勢は批判の対象となった。これは、人を育てるという観点からすると、かなり大きな矛盾を孕んでおり、特に、同じことを繰り返すだけの人材を除けば、その成果が期待できないものを、最優先で進める必要に迫られるという、現場から見れば、何とも無理難題としか思えない事態に陥ることとなる。評価の一方で、停滞が表面化することとなると、この矛盾は、再び成長期に入る可能性を、自ら排除するといった形になるわけで、関わる人間たちには、情けなさのみが感じられることとなった。焦れば焦る程、人を育てることには繋がらず、使い捨てのような扱いに、下の立場の人々から、批判の言葉を浴びせられることになりかねない。待ちながら、やらせる、なんて、できる筈もない、と思う人が増えたのも、こんな社会背景からなのではないか。昔、もっと時間や余裕があった頃には、実は、待ちつつやらせる、といった形式が、当然の如く行われていた。それが絶滅しかかっているのは、結局は、評価を急ぐあまり、真の能力を見極めることを忘れたことに、本当の原因がありそうだ。困ったと言う前に、何をすべきか、もう一度考えてみてはどうか。

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1月17日(月)−特異日

 特異日と言われ、まず思い浮かべるのは、晴れの特異日だろうか。ある行事の日を決めるのに、統計を利用して最適の日を選び出し、見事に的中させたことから、その後は屋外行事の最適日として祝日に指定された。別の都合から一定しなくなった途端に、雨が多くなったという印象は、何を意味しているのだろうか。
 天気の変化に一喜一憂するだけなら、まあ大したことも起きないだろうが、別の形の特異日があるとしたら、心配すべきだろうか。そんなことを思い浮かべたのは、21年前のこの日に始まった事件からだろう。翌日に始まる会議への出席の為に、空路を移動していた、まさにその最中に戦争は勃発した。10年近く前に起きた事件は、そんな経験をした人間には、あの時も同じことを危惧していたことを思い出させる。その4年後には、同じ会議が始まる、まさにその日の早朝、ベッドが波に翻弄されるような感覚で目覚めた。その地域では珍しくはないものの、停電が長引くなど、かなりの被害が出たことは、同じ天災を何度も経験した国でも、対策が必要なことを想像させた。だが、まさか、一年後の同じ日に、海の反対側の国に、同じと言うか、更に大きな被害をもたらす震動が起きるとは、想像しなかった。偶々国外に居た為に、実際の震動を経験することはできなかったが、画面に映される光景が、ついひと月前に訪れた場所であったことは、何とも言えぬ不気味な雰囲気を醸し出していた。被害を大きくした要因は多数あるのだろうが、地震国として知られた場所での大きな被害に、衝撃を受けた人たちには、その場所の特性を説明するしかなかった。この5年間、単なる偶然とは言え、同じ日に大きな出来事が起きたことは、何かを思わせることとなった。結局は、この期間に限られた特異日に過ぎなかったが。

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