本能から来るものだけに、何故という疑問は適さないのかもしれない。厳しい冬を乗り越える為に、一切の活動を停止し、時が過ぎるのを待つ。冬眠を行う動物たちにとって、無理矢理頑張って過ごしている人間の姿の方が、遥かに異常なものに映るだろう。困難に立ち向かうか、はたまたやり過ごすか。
動物を擬人化して考える必要はないのだが、ついそんな気持ちになることがある。彼らと同じように、人間も動物なのだから、それぞれの種が築き上げてきた様式に従って、その営みを続けているだけで、何も無関係なものを比較の対象にする必要はない。しかし、学ぶことや考えることが、この動物の特徴と考える人たちからすれば、そこから新たな展開が見えてくるというのではないか。それぞれの事情によるものという解釈より、より良いものを採り入れようとする姿勢を優先させ、そこに意味を持たせる。余興の一種と見なせばいいのだが、最近の傾向は、こんなものにまで目を向けようとする。自分たちができることを、頑に守りながら、続けて行くことに、種の存続はかかっているとすれば、そういった部分に不安定が見えるようになることは、ある意味、危険な兆候と言えるのかもしれない。そう言えば、自然に暮らす生き物たちも、人間の営みに振り回され、様々にその生活様式を変化させている。その傾向が極まれば、依存性が高まり、人間抜きの暮らしはあり得なくなる。それが定めと言ってしまえばその通りだろうが、何処かに歪みを感じるのは何故だろう。彼らがそちらに近づくだけでなく、彼らの領域に踏み入る人間の存在が、時に問題となることがある。気にしたが為に起きたこと、なのかもしれない。
そろそろ下火になってきただろうか。多様性に注目が集まり、更に生き物に対する愛着から、大切にしようとする気持ちが高まった。だが、肝心の議論の的が話題となると、何とも言えぬ違和感が場を満たすこととなる。様々な動植物の存在が重要との理解が、一気に崩壊しかねない筋書きに、首を傾げざるを得ない。
画一的なものの見方を、批判されたかのような雰囲気から、自分たちの役に立つものだけに、目を注ぐ態度への変換は、大概の人がついて行けなかったのではないか。経済優先が、こんな所にまで浸透し、人間たちに有用かどうかのみを論じることに、生き物の保護が念頭にあった人々は、呆然とするとともに、そのどす黒さに寒気を催したのではないだろうか。この星の上に生きる様々な生き物に、差別無く目を注ぐことの大切さを、色々な場面で聴かされてきた人々は、命の重さには違いがない、という思いを描いてきた。それを根底からひっくり返すかの如くの論法には、人間だけを特別視し、他の生物を利用するという、ある宗教の教義に基づくような、そんな考え方が露出する。またも、そんな身勝手な考え方に染まるのか、との思いが過るものの、拝金主義と結びつけられると、一気に批判の勢いは萎んでしまう。特に、開発が及んでいない地域から、自らの権利を主張する声と、それに伴う対価の要求が強まるに至っては、守銭奴たちが懲りもせずに、また機会を捉えて、群がり貪る姿を見る思いが高まる。生物多様性の真の意味が何処にあったのか、市民感覚とのずればかりが大きくなり、議論の核心はぼやけることとなる。儲け話に終始するなら、こんなお題目を唱える必要などありはしない。
好調な展開が続く時には、一体感が重視され、横並びの感覚が優先される。一方、停滞感や閉塞感が大勢を占め、底離れが優先されると、他との差異が重視されることとなる。時流に乗る為の方策と見れば、当然の選択に思えるものの、受け身の姿勢をとる人間には、振り子が振れ続けるように見えるのではないか。
核心や本質を見抜く力より、周囲の動きに合わせたり、流れに乗ろうとする力を強調する人々は、適応力という形で、その意義を説く。その立場に立てば、自らの力を変化させることが重要であり、どんな能力を持つかは二の次となる。人々の能力を伸ばす立場にある人々が、この辺りのことをどう考えるかは、将来を占う上で重要な要素なのだが、これまでの流れを見る限り、彼らの過信ぶりが現在の混乱を招いた主因とも言えるのではないだろうか。横並びを重視した時代には、競争を忌み嫌う気運が高まり、10人の主役が登場する学芸会や手を繋いでゴールする運動会が、ごく当然の光景として伝えられた。その弊害が露になると、一人一人の違いに着目した教育へと、一気に舵を切り、個性を伸ばすなどという言葉が巷に溢れた。現在は、それに伴って導入された「ゆとり」に対する批判が噴出しているが、問題は、それだけでなく、個性を伸ばすというかけ声とは裏腹に、それを潰す結果を生じた手法にもある。必要性への認識が、いつの間にかその効果の過大評価へと変貌し、悪影響が次々に現れるに至る。これが考え方そのものへの反省に繋がれば良かったが、現実には手法の問題にすり替えられ、ぶれを大きくするばかりだ。横並びと突出を、全く違うものと扱うのでなく、同じ範疇に入れ込み、共通点と相違点として並べることにこそ、真の意味があるのだろう。個人の範囲で言えば、その認識があるだけで、どんな変化にも対応可能となるのではないだろうか。
何かをする為の力、そんな表現が巷に溢れている。確かに、何かを動かす為には力が必要となるし、それぞれに必要な要素が違うことはありそうに思える。だが、こんなことに関わっていては、何も始められないし、状況の変化に応じることも難しい。と言う内に、これも力とされてしまうのだろうが。
力不足を感じるのは、誰にもある経験であり、それを補うような努力も必要だろう。しかし、最近のように、異なる項目に対応する為に、異なる力が必要となるとする風潮には、かなり違和感を覚える。焦りを感じたり、不安感を催すように、それぞれの欠点を指摘することは、それほど難しくはない。誰もが完璧である筈もなく、それぞれに長所短所を抱えているのだから、足らない部分を指摘して、それを補うように仕向けることは簡単な事だ。だが、それを受けて、何らかの対策を講じ、努力を繰り返すとなると、きりのない要求に応えることは難しくなる。最大の問題は、個別の力を論じる姿勢にあり、これらの共通点をあぶり出す代わりに、その違いばかりを強調し、そこに注意を向けさせることは、何かしらの効果はあるものの、肝心な点を見失う恐れは大きい。特に、力不足を嘆く声の多くは、経験の浅い人々に向けられるだけに、何が足らないのかさえ判断できず、困り果てるだけという結果に繋がる。まず、共通に必要とされる能力を身に付け、それを応用しつつ、広がりを続けるようなやり方こそが、こんな状況では最適となると思われるが、そちらに目を向ける動きは殆ど無い。いつもながらの視野の狭さに呆れるものの、それに振り回される人々の危うさにこそ、問題がありそうだ。
藁をも掴む、ということなのだろうか。最悪が強調される場所で、次々に繰り出される脱出策に、呆れるばかりとなる。傾向と対策に目を奪われ、自らの現状把握に目を向けないことが、諸悪の根源であることに、何時まで気付かないつもりなのか。また、それを気付かせようとしない風潮は、今後どうなるのか。
他人との違いを際立たせる為の方法は、無限にあるのではないか。これといった決まりもなく、違う部分を強調するだけなら、個人差が存在しないものを見つける方が難しい。そんな中で、自らの特長を相手に伝えることができないのは、自分を知らないからとしか思えない。人と同じになることばかりを望み、違いを打ち消すことに努力した結果、他人を見ることばかりに長けて、自分という存在をも消し去る。何とも不思議な図式だが、今困り果てている人々の多くが、こんな状態に陥っているのではないか。使い古された売り口上を並べ、横並びの状態を抜け出せない。そこから抜け出る手立てが紹介されても、皆が群がるようになれば、横並びは変わらない。自分自身で解決の糸口を探ろうにも、常に他力本願だったことからすれば、突然の変貌は望めないだろう。勝ち抜く為に必要な事柄を、一つ一つ調べ上げるという方式が、如何に大間違いかという説明を、聴く余裕さえなくした人々には、適切な対応は難しく見える。唯一の解決策は、おそらく、時間に頼るしかないのではないか。今更、待ちなさいと言っても無駄なのは判るが、付け焼き刃が更なる苦境を招くことを考えると、放っておいた方がいいように思う。自分ができること、自分の特長、これらを並べられない人に、好機は訪れない。
最近、ひょんなことから、送る側と受け取る側の意識調査の結果を見る機会があった。互いに問題を真剣に考えている雰囲気が伝わるが、そこに大きな欠陥があるような感じが残った。送り手、受け手とも、その間を動く人間の存在に期待が膨らむ一方で、その実態への認識が明らかに不足してるように見えるのだ。
就職という機会において、行き場を失った人々の悲鳴が、次々に届けられるのも、悲劇を表現する為には、効果的な方法に思える。しかし、画面に映る人々が、どんな経緯でそこに至ったのかを追求する話はなく、ただ単に、今この時の悲劇の主人公を演じる人間を見せているに過ぎない。このように、人々は目の前に現れる姿のみを追い、本質的な問題を考えようとする姿勢に、大きな勘違いが含まれているように思う。このような現実が、意識調査にも現れており、自分たちの希望や問題点は整理できるものの、そこに存在する筈の人間のこととなると、全く意識に上らない状況にある。これでは、問題解決に繋がる筈もなく、次々に積み込まれる問題が、闇雲に増えて行くだけとなる。こういった問題の考え方は、いつの頃からか大勢を占めるようになり、解決に結びつかなくとも、考えたからよしとするという、何とも言えない、言い訳じみたやり方が当然となった。本当の意味で、問題を考えようとする姿勢は、どんなものなのか。実際にやってみたことのない人が、重要な職に就いていたり、決定権を握っている状況で、さて、次に起きることは何か。大きな期待が持てる筈もない。やれやれと思いながら、その調査を眺めるのを止めた。これは、何の役に立つのか。
新しいサイトを開設してから、そろそろ三ヶ月になる。以前の所に比べると、個人の管理によるものからか、余計な負荷がかかっていないように感じる。だが、その一方で、何やら不安定な所もあり、今後の維持に不安がないわけではない。サーバの数が更に増え、6台目となっていることは吉と出るか凶と出るか。
ここを覗いている人も経験したことだと思うけれど、このサイトの不安定性は、時々現れるメッセージが示している。どんな仕組みになっているか判らないが、時に、準備されたページへと誘導され、管理者からの警告や広告が表示される。おそらく、過剰な接続を避ける為の方策と思われるが、どんな基準でこのような措置がとられるのか、さっぱり判らない。それが機械的な不安定を示すのか、それとも別の仕組みによるものか、はっきりしないものの、始めてからの状況は、総じて言えば、問題なしと言えるだろう。ただ、少しだけ気になったのは、昨日のカウンタの異常である。ファイル自体の更新時間からは、大本の時計に異常が起きたように思えたが、いつの間にか正常に戻った。全体の積算に関して、それによる数値の誤りが生じるとは思わないが、一日単位での集計には、明らかな異常が見られた。これまでにない症状だったものの、大した影響がなかったので、報告する必要もないと思う。此処の管理者は、加入手続きの際にも、自らの判断を優先する姿勢を示しているし、状況の変化についても、利用者に対する通知には、あまり積極でない様子が見える。一部には、そういった姿勢に対する批判が見られるものの、現状を見たり、使い勝手の問題を考えるに、今の所大きな問題を生じるようには思えない。だが、組織でなく、個人で動かすものに特有の問題は、残っていることは確かだろう。