パンチの独り言

(2011年1月31日〜2月6日)
(独自色、暴動、傾聴、おまけ、意識、楽園、偏食)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



2月6日(日)−偏食

 同じ業種の中での競争は、品質や性能を競う形と、値段を競う形の二つに分けられると思う。本来は、前者が第一との考えが大勢を占めていたように思うが、経済停滞が続いた頃から後者を大事と考える人が増えた。外食産業は、更にその傾向が強まるようで、最近も値下げ競争としか思えない広告が続いていた。
 同じ食べ物の間の競争は当然のことかもしれないが、この争いの中で気になるのは、安いものを追いかける人々の健康である。一番安いものを追えば、自然に同じ物ばかりを食べることになり、食事の偏りが強まる。自分に足らない栄養素を補給する為に、所謂サプリメント剤を服用する人もいるだろうが、出費を気にすれば、そんなことをする筈もない。一日30品目という掛け声は、いつの間にか消し去られたようだが、とは言え、多様な食物を摂り、栄養のバランスを心掛けることは、健康に暮らすだけでなく、働く際にも重要になるのではないだろうか。体の異状や異変に気付いても、何をして良いのか判らない、と言う人は多いだろうが、その多くが、食事から来ることに気付く人は少ない。この際、何を食べれば良いのか、ということより、色々と食べる試みの方が、優先されるべきであり、違いを意識すべきだろう。そんなことは大変だと思う人が多いが、少し考えれば、昔の食べ物の旬はそんな多様性にも関係があったのではないか。便利さと安さを追い求めた結果、次々と多様性を失い、画一化の波に飲まれてきた。その中で、価格のことばかりを話題とし、それが最優先課題かのように扱うことは、全く別の意味で、悪影響を及ぼしていることに気付くべきではないか。考えの多様性が、生活の多様性へと繋がり、健康的な生活に結びつくことに、何時になったら気がつくのやら。

* * * * * * * *

2月5日(土)−楽園

 冬の厳しさを痛感する人が多いだろうが、野生の動植物にとっては、もっとずっと厳しいに違いない。植物は動くことがかなわないから、じっと我慢の日々のように思えるが、実際には、既に花をほころばせた梅や花芽を盛大に膨らませている木蓮など、準備万端、春はすぐそこまで来ている感じが漂う。
 一方の動物は、冬眠している連中はまだ眠りの中だろうが、それ以外のものは動き回っているようだ。野鳥は種類は少ないものの、少し違った行動から、目立っているように見える。この時期は、秋と違って餌となるものが少なく、枯れた草の辺りを突ついていたり、ずっと以前に落ちて朽ちた団栗の辺りをうろついている。その際に、おやと思うのは、雀も、鳩も、鵯も、皆他の季節より、集団の数が増えているように感じられることだ。元々ある程度の数が集まって行動しているように思うが、この季節に姿を見せる鳥たちは、集団で餌を漁っているように見える。それほど集まらなければ、生き延びることが難しいということなのか、すぐには理解できないけれども、目の前を過ぎて行く姿には、何かを追い求める雰囲気が漂っている。餌が無いというのは、本当の厳しさに思えるし、あの体の大きさから想像するに、常に食べていないといけないような感じがするから、更に厳しさは増しているのではないか。冬眠前の動物が、盛んに餌を求める話はよく聞くが、彼らは太っても何とか動ける。だが、鳥がそんなことをしたら、飛べなくなるのだと想像すると、餌が無くなった時でも、何かを見つけなければならないだろう。野鳥の楽園を目指すという団体の話が、ラジオから流れていたが、鳥たちにとって餌が溢れる場所は、この季節の楽園と言えるのかもしれない。

* * * * * * * *

2月4日(金)−意識

 仕事をするのは何の為、と尋ねられたら、どう答えるか。お金の為、という答えが自然なものとなったのは、何時の頃だろうか。確かに、日々の生活に必要なものは、何を手に入れるにしても、先立つものが要る。そんな生活が当たり前の時代に、こんな考えもごく当然のものとして扱われるのは、何の不思議もない。
 だが、都会を離れるに従い、その傾向が弱まるのは何故だろう。日々に必要なものは、物々交換で手に入れ、ある集まりで考えれば、一種の自給自足状態となると、そこにお金の感覚は薄れてくる。そうは言っても、現実には、そこに閉じこもってばかりもいられないし、様々な文明の利器を手にする為に、先立つものが必要となる。だからと言って、やはり、金を最優先の課題とするのはどうだろうか。仕事と働くことは同じ、という考え方も一部にはあるだろうが、金を手に入れるという括りを適用した場合、自分の生活に必要なものを手に入れる為の働きは、少し違ったものとなるだろう。では、仕事で働くのと、別の目的で働くのは、明らかに違うとするのは、極端に過ぎるように思える。画一的な考え方を、全てに当てはめようとするのは、物事を単純に考える為には、重要な手順の一つなのだが、過ぎたるは及ばざるが如しである。この問題を更に大きくしているのは、経済活動を最優先とする世相にあり、拝金主義とは行かないまでも、それに近づこうとする動きが盛んなことは否めない。仕事で稼いだ金で、自分の好きなことをする、という考えがもて囃されるのも、こんな時代だからと言われるが、どうにも筋が悪いように思う。働くことの意味は、各人で異なるのが当然で、自己満足と言われようが、それで良いのだとしなければ。

* * * * * * * *

2月3日(木)−おまけ

 名前の由来についての話には興味深いものがある。歴史を紐解けば、事実が明らかになるのだろうが、そこまで力を入れなくてもという感覚で、興味を抱いても、すぐに忘れてしまう。そんな所へ、ひょんなことから情報が舞い込むと、成る程と思うこと頻りとなる。時代の変遷が、その由来を覆い隠したことも含め。
 ゴールする姿のロゴで有名な商品は、カタカナの名前をもっているが、その起源については全く思いつかなかった。glycogenを練り込んだものだから、という解説に驚いたが、それよりも面白いと思ったのは、その表記の変遷である。始めはその通りに、glycoとされていたものが、いつの時代からか、glicoと変えられている。読み方の問題と言ってしまえばそれまでだが、折角の起源を見えないものとしてしまった。独自の表記とする解釈もあろうが、それによって消し去られたものがあるのも事実だろう。この商品は、所謂おまけが付いていることで有名だったが、同じような形で売られるものが、子供の頃には駄菓子屋に溢れていた。その中に、おっとりした雰囲気の動物の名を付けた会社のものがあった。単なる玩具でなく、お伽噺を含む読み物をつけるという斬新な提案は、文字や絵に飢える子供たちに好評だったとされる。この会社の創業者一族は、元々不動産関係に力を入れてもいたが、その後、全く異なる業種へも展開したようだ。何時の頃からか、生き物の力を活かす業界へと参入し、医薬品や機能食品の開発を主な対象としてきた。波はあったものの、最近は保湿成分と呼ばれる製品で、順調に業績を上げているように見えたが、実態は様々な問題を抱えていたようだ。経営者として注目されていた人物が退く姿には、何とも寂しげな雰囲気が漂っていたが、多角経営は実はあの当時から問題とされていたのではないか。

* * * * * * * *

2月2日(水)−傾聴

 他人との情報交換が重視され、その能力の有無が問題となる。確かに必要なこととは思うものの、その一方で、情報交換とは何か、という問いに対する答えが見つからない、という人が多いのではないだろうか。例の如くの形で、力と表現されるものだが、何を示すのか判らずに、力の獲得を目指すのは難しい。
 何らかの媒体を介する場合には、間を繋ぐものとなるのは文字だろう。文字が並べば良いわけではなく、そこに意味が込められていなければ駄目なのだが、ただ単に、自分の思いを注ぎ込むだけでは、相手に理解されないこともあり得る。互いに共有する感覚こそが、重要となるわけだが、人それぞれの違いをどう克服するのか、そんな所に一番大きな問題がありそうだ。これは、対面した中での相互理解においても、同じことが当てはまるわけで、文字ではなく、言葉での疎通となるものの、そこに共通性がなければ、何も通じないだけでなく、通じていないことさえ判らない、といった状況に陥ることさえ起こる。自分の考えが相手に通じるかどうかばかりに目が奪われることが多いのだが、実際には、相手がこちらの考えを理解できるかどうかを確かめる必要があるのではないか。能力の有無という点から、発信の巧拙を問題とすることが多いが、これは実は的外れの議論になりかねない。受信の巧拙こそが重要なことであり、一方的な送り手では、それを期待できる筈もなく、相手のことなど無頓着な、身勝手な情報発信になるだけだろう。相手が望む情報を流すことも、その要点の一つであり、反応を観察した上での軌道修正が、重要な要素となる所以である。話を聴いてもらえない、ということから、自分の話の中身の向上を目指す心掛けは、確かに必要なものに違いないが、何が望まれているのかを知らずに、暗闇を歩むのでは何ともならない。聴いて貰える話とは、話したい話ではなく、聞きたい話の筈なのだろうから。

* * * * * * * *

2月1日(火)−暴動

 心に余裕がある時には、態度にもそんな雰囲気が表れる。他人がどう見るかを気にするのも、そんな余裕から生まれるものであり、我武者らさよりも、落ち着きの方が目立つこととなる。そんな人々が、何かのきっかけで窮地に追い込まれた時、どんな反応を見せるのか。多くの場合は、本性を現すと言われる。
 こんな所に国民性が現れると言ったら、どんな反応が返ってくるだろうか。本性とは人それぞれの性格であり、そこに育った国や人種の影響が表れる筈はないといったものが多いのではないか。だが、天変地異や人間たちの無軌道な行動による、大きな変化が起きた時の群衆の行動を見ると、そこに大きな違いを感じざるを得ない。久しぶりの大地震に、町は酷く破壊され、場所によっては廃墟と化す。地震の後の姿は、何処でも同じように見えるが、その後の住民の営みには、大きな違いが生じる。多くの死者を出した地震の後も、ある程度の混乱はあるものの、社会の秩序が守られたことに、特別な感覚を持った人はいなかっただろう。しかし、ある島を襲った大地震の後の、復興の様子を伝える映像には、人間の本性が現れた如くの姿が映っていた。この違いは何処から来るのか、簡単に答えを出すことはできない。しかし、このような急変は、何も災害によるものとは限らず、明らかに人為的なものについても、同じ状況に陥ることには、何かしらの意味を考えずにはいられない。ある宗教が秩序を産み出すことで、多くの人々が国に従う姿勢を保ってきた国々で、この所起き続けている政変には、信じることだけでは不十分であることを、感じさせるものがある。たとえ、唯一無二の繋がりとしての宗教の存在があろうとも、一人の人間がある権利を得ることに関しては、様々な問題が生じる。その死によって、全てが崩壊した国のその後の混乱には、驚くべき歪みが感じられたが、最近の政変は、それとはまた違った経過を辿っている。そこでも画面上に展開される混乱には、ある本性が露呈する姿が現れ、不思議な光景としてこちらに伝わってくる。大戦後の混乱が何故起きなかったのか、色々な解釈がなされているが、中心となるのは単なる国民性なのかもしれない。

* * * * * * * *

1月31日(月)−独自色

 地方と中央の違いは、開発の額や順番にある。中央集権が伝統となる国では、各地方に目が向くより早く、中央での構築が始まり、それが先例として立てられることとなる。地方は、それを真似るように誘導され、全国に模倣品が溢れることとなる。画一を狙う政策は、ある意味で成功したと言える、何処も同じのつまらない姿で。
 こんな調子に疑問を抱く人が出てくるのは、当然のことだろう。新たな投資を難しくした経済停滞も手伝って、各地方独自の姿を築こうとする動きが高まってきた。特に、順番待ちの列の後方に追いやられ、遂には自分たちの番が回ってこなかった所に、逆の意味での良い機会が訪れることとなる。手が付けられなかったと言うと悪い意味に捉えられるが、実際には、変な開発の手が及ばなかった為に、無秩序な破壊の被害者にもならなかったことから、古いものが残る結果となり、改めて計画を立てることで、古いものと新しいものの関係を築くことができた。必ずしも成功したと言えないものもあるだろうが、それぞれに新しい形を模索し、他とは異なる姿を見せることで、独自の道を歩むこととなる。更に、その動きにさえ乗り遅れた所では、新しいものの構築を実現する余裕もなく、過疎化のような問題が大きくなり、現状維持がやっとのことで、衰退の勢いを止めることが最優先課題となる。こうなると、古く残ったものの評価が重要となり、自らの力だけでなく、他力を頼りにする形で、それまでとは全く違った形の開発が行われることとなる。そろそろ、その流れにも一つの区切りができているように見え、全国には各地それぞれの特色をもった場所が、散在することとなった。観光に力を入れる所もあるが、そうでない所もあり、自分たちの生活を優先する場所もある。こんな多様性が、本当の楽しみになるのは何時のことか。

(since 2002/4/3)