自分のことを人に知られるのは御免だ、というのが普通の考えのように思われたが、最近は違うようである。無縁社会なるものへの怖れから、日常生活を公開する人がいるとの話や、悲惨な生活を続けてきた経験を小説にし、賞を受けた話など、赤裸々とは少し違った雰囲気まで漂う、何とも不思議な状況のようだ。
これを、今時の若者は、といった感覚で理解しようとしても、無理なのではないか。随筆のように、日々の生活に基づく話の流れでは、確かに個人の生活を他人に見せる部分がある。だが、実際には、本当の経験ではなく、何かしらの脚色を施した話を紹介することで、全てを曝すようなことは殆ど無かった。それが、何時頃からか、日記の出版が盛んとなり、当時の社会や人間の状況を、具に伝えるものとして、持て囃されているようだ。これまでにも、幾つかその類いの本を読んでみたが、その中でも、時代を映す内容の変化が垣間見える。作家の妻の日記は、専ら生活そのものの一部を披瀝するものであり、別の作家の戦中日記は、その時代の雰囲気を伝えるものだった。後者の中には、確かに、その当時本人が複数の女性の間で揺れ動いた心情が、著されていたものの、直接的な表現は避けられていたように思う。日記そのものに記されていたとしても、それを白日の下に曝すことは、何かしらの心理作用で、憚られたのだろう。だが、最近読んだものには、そんな配慮は微塵も感じられなかった。日記そのものを見たわけではないから、それでも、かなりの編集が施された、ということかもしれないが、だとしても、こんなものを披露することに意味があるとは思えない。戦争中の状況を伝える為の手段として、日記が用いられるのはよくあることだが、件のものには、それよりも親族内の葛藤が核となり、人間の闇の部分が暴かれた印象が強い。何故そこまで、と思う。
一人一人の力は弱くとも、それが結集されれば、強大な力をも打ち崩すことができる。そんな夢のようなことが、現実のものとなるとは思わなかった、という声が聞こえてきそうな出来事が、ある地域で次々と起きている。力を握る人々にとっては、心落ち着かない話だろうが、庶民にとっては朗報と言えるのかもしれない。
こんなことを現実のものとした最も大きな理由は、ネット社会の構築だと言われる。局所的に蜂起があっても、それが国全体に広がることは難しく、押さえ付ける方も散発的なものであれば、苦もなく取り締まることができた。それが手軽に使える連絡手法が整備されるだけでなく、その拡大手段が爆発的な効果を産み出したことから、小さな動きをあっという間に拡散させることが可能となった。それが今回の騒動の原動力となり、運動の形態が大きく変化したと言われる。結果からすれば、その効果の大きさは、予想以上のものとなったと言えるだろう。小さな力の希望が叶うという話は、同じ弱小の者たちにとっては嬉しい知らせに違いないが、崩壊を実現しただけでは、本当の願いが叶ったとは言えない。安定を望む声を押さえ付けてきた力が取り除かれても、すぐに安定が実現する筈も無く、その準備は全く整っていない。一つの目標に向かう時に効果を示した道具も、その先の分かれ道に差し掛かった時に功を奏するとは限らない。連鎖的に起きた事件の経過を眺めると、まさにそんな問題が表面化しているように見える。昔風のものであれば、強力な指導者が現れ、そこに力が結集することで、交代劇が起こり、新たな体制が築かれる。今風は、そんな具合には行きそうにも無い。どうなるかは見守るしかないが、皆の関心が失われ、情報は伝わらなくなる。爆発力があっても、継続の力が無いことが、ひょっとするとこの仕組みの弱点なのかもしれない。
「力」という言葉がこれ程までに頻用されることに、違和感を覚える人は少なくない。その一方で、次々に繰り出されるものに、深い考えも無く飛びつく人が絶えないのは、何故だろうか。力不足だから、自信が無いから、並べ立てようと思えば、いとも容易くできるだろう。だが、そこに潜むのは、もっと重大なことなのではないか。
誰しも、教え育まれ、成長する過程では、常に不足する部分があり、十分と思えないから、自信が出る筈も無い。そんな状況で、力を得ようと躍起になれば、甘い言葉に縋るのも、やむを得ないことかもしれない。しかし、それが「力」という言葉で表現される、様々な要素に飛びつくことには、すぐにはならないのではないか。以前からあったように、じっくりと力を蓄え、必要な要素ばかりに目を奪われることも無く、無関係と思えることや瑣末と見えることにも、次々と挑戦して行く。その過程は、先の見えない霧の中のような心境に囚われるだろうが、ある日突然霧が晴れて来ると、一気に見通しが開けるものだ。これに対して、今の流行りと言えば、確実な要素のみを伝授し、役に立つことばかりに目を向ける。傾向と対策が十分に施されておれば、怖いものは無いとでも言うが如く、拡張性や柔軟性を身につけること無く、狭い範囲でしか活躍できない人材が育てられる。競争自体が、専門性ばかりに集中し、広がりを持てないことは、逆の意味で、こういった間違った手法を後押しする結果となり、更にその傾向は極まることとなる。そろそろ、声を大にして説き聞かせる必要があるのではないか。「力」と評されるものに、真の力を備えたものは無く、偽物ばかりであることを。
何かを説明する時に、分かり易さに心掛けよ、と言われることが多くなった。図や表を用い、所謂ポンチ絵を使って、見ている人に状況が判るようにすることも多く、そういった道具の使い方が第一とされることもある。話の中身や質よりも、見栄えが優先されるのは、結果のみを重視する姿勢から出ているのだろうが。
逆に、説明を受ける立場から見ると、どんな状況が見えてくるだろう。実は、大した違いがあるわけではなく、同じように分かり易いことが喜ばれる。ただ、複雑な話はどのような手段を用いても、単純な図式で説明することは難しく、結局、分かり易い説明とは、単純な話かどうかによることとなる。では、複雑な状況を単純化する為には、何が肝心なのだろうか。すぐに思い当たるのは、多数の選択肢の中から一つを選び出す作業より、二つから一つを選ぶ作業の方が、単純になるということだろう。多数を比較する為には、色々な指標を駆使する必要があるが、二つの比較なら、一つの指標を示すことで十分になるし、更に精度を上げようとすれば、そういう比較を複数回することで十分となる。複数になれば複雑になると受け取る向きもあるだろうが、現実には両極端の比較になるだけで、整理もし易く、それほどの困難は伴わない。人間の判断は、このように二つの比較においては、単純な思考で済むので、容易に下せることとなる。こんな所から、何でも二つに分けて考えることが、簡単な割に効果的と見なされてきた。話題の二大政党や二極化、といった事柄も、おそらくそんな所に根源があるのではないか。如何にも愚民政治の典型と思うのは、全く違った立場の人だろうが、最近の混迷の度合いの高まりも、こういう方向に導いてきた人々の自業自得といった感がある。ただ、こういうやり方が一般化するに従い、何処も彼処も二つに分けようとする動きが高まっているように見える。本来、組織全体で進めるべきことまで、勢力を二分化して臨むのでは、まともな展開は望めない。
経済活動における分析は、何を見出そうとするものなのか、理解している人はどれほどいるのだろう。その多くが数値解析であることを考えれば、その変動を分析することは、その動きを予想する為のものと思われるが、どうすれば予想できるのか。分析を行う人々も、その結果を心待ちにする人たちも、何を期待するのか。
どんな経過を辿ったとしても、次に起こることは予想できる、などという話を聞いて、すぐに飛びつく人もいるだろうが、一方で、疑いの目を向ける人は多い。万能の道具は理想なのだろうが、そんなものは存在する筈も無い、という考えも定着している。予想できれば、それを頼りに様々な動きが可能となる。それが儲け話に繋がるとなれば、つい飛びつきたくなるのも仕方の無い所か。だが、根本の問題として、予想する為の手立てとは何か、について考えてみる必要がある。それまでの動きを分析し、そこからすぐさま予想ができると思う人はいないだろうが、では、分析結果を得たとして、次にすべきことは何なのか。最も簡単なものは、蓄積されたデータとの比較だろう。同じ経過を辿ったものがあれば、この先も同じと言えそうに思える。だから、それを並べた結果から見出そうとするわけだ。成る程、と思う人もいるだろうが、もし、これが当てはまるのなら、歴史は同じ場所をぐるぐる回るだけとなる。傾向としての類似を指摘する話はあるものの、全く同じことが起きたことがないことは明らかで、そういった反復はあり得ないという理解の方が、的を射ているだろう。だとすれば、分析に基づく予想とは、どんな代物となるのか。もう一方で、大切な心掛けの一つは、同じように見えるものの小さな違いを見出す、ということだろう。日常とか平凡といった表現で括る考え方は、ごく当然のように受け取られているが、そこに変化を見出してこそ楽しみが増えるという見方もある。さあ、どちらの考え方に近いのか。
計画を立案することは、様々な背景や事情を勘案する必要があり、それぞれに困難を伴う。気軽に挑めるものでもなく、立てた計画の実行に対しての責任が伴うことからも、かなりの重圧がかかる話だろう。だが、その計画が採用されたとして、実際に事を進める段階になると、状況は変わり始めることとなる。
立案段階では、将来の展望が第一となり、何を始めるべきか、何を変えるべきか、など、現時点との違いを際立たせる必要が出てくる。その為、差異を見極める力や、その良し悪しを追求する論理が重視される。だが、一度採用が決まると、現在との差や違いなどは一切問題とされず、新しい事業がどのような結果を導くか、という点のみが問題となる。計画者に要求された力量は、実行段階では的外れが目立つようになり、計画の意図を明確化すること以外には、殆ど役に立たない場合もある。柔軟性を持つ人間の中には、こういう波をも乗り越える人もいるだろうが、その数は少なく、特に、計画の立案が困難を極めた場合には、それに対する熱意の強さが成功に結びつくことが多いだけに、柔軟性が失われ、一点集中の力こそが肝心となるから、採用後の展開には注意を要することとなる。しかし、計画採用の功労者としての存在は、何よりも大きなものとなり、どうしてもそういった形の交代は、困難を伴うものとなる。熱意は思い込みへと繋がり、視野を狭めることとなる。そんな人間が、実行の指揮を執るとなれば、我武者らに責め立てることはできても、様々な変化に応じることは難しくなる。上に立つ者の責任は、単に計画の採否を決定することだけでなく、それを実行するに値する人材の選定をも、重大な要素として含まれるのではないか。その辺りの人の使い方に関して、大切な問題と思わず、ただ任せるのみに終始するのでは、最終的な責任は負えないように思える。
他人との違いを強調する為には、特別な体験が必要となる。こんな言葉を信じる人が増えるのは、自分がそんな要求に応えられないからだろう。人生の先輩たちに、こんな要求を突きつけられた際に、困った経験を持つ人は多い。他人に自慢できるような体験を持たないから、困るのだと思い込んでいるのだ。
困ったという形で過去の経験となった人々は、改めて考えれば、大した要求でもなかったと思うだろうが、これからのことと心配を募らせる人々は、そんな余裕など出てくる筈もない。特別な体験が必要と言われれば、それを求めようと苦心する。だが、その為に必要な時間や金が見つけられなければ、ただ諦めるしかないのではないか。その後の展開は悲惨なもので、だから自分は主張できないのだ、と結論づける。この手の人々と毎日のように顔を合わせる人たちは、困った世の中だと思うに違いない。しかし、その原因が自分たちにあるとは思わないのではないか。特別なものを要求する姿勢から、ある誤解が生まれ、それが固定されてきた。ただ、少し深く物事を考えられる若者なら、毎日の平凡な生活にも、特別なものが見つけられることに気付くだろう。日々の違いにも気付き、そこに他者との違いも見出せる。自分にしか経験できないものばかりであることは当然で、それを巧く表現しさえすれば、特別な体験を披露できるのではないか。こういったことに気付かぬ人は欲しくない、という主張から来るのかは判らないが、技術的なことばかりに注目が集まり、表面的なことを売り込もうとする人々が蠢く。それに振り回される人々の、思慮の無さに呆れるにしても、間違った方向に導く人々の活躍ぶりには、社会全体の腐敗が見え隠れしているようだ。