各地で権力者たちが、その力を失いつつある。圧力に耐えかねた人々が立ち上がり、遂に、自分たちの夢を実現したと伝えられるが、今後の展開を心配する声も少なくない。偏った秩序とは言え、何かしらの大きな力が働いて保たれてきた均衡が、一度崩れてしまうと、混沌へと落ち込むばかりで、形をとる事さえできない。
少し話が違うが、昔小さな組織で、その権力を恣にした人間が、その罪で死刑を言い渡され、獄死した事がつい最近伝えられた。彼女と交流のあった作家が書いていた事は、見方によっては興味深いものと思える。ごく普通で、単純な人間、という表現が、どれほど的確なものかは解らないが、これが狂気を招いたという解釈が、つい頭に浮かんだ。権力者たる人間は、力を持つだけに、それをただ闇雲に使う事を控える傾向がある。特に、長期に渡ってその地位に居座った人程、その傾向が強いだろう。意識するだけに、制動がかかるというわけだ。一方、ごく普通の人間が、ひょんな事から権力を手にした場合、どんなことが起きるのだろう。自らが得た力を意識する事無く、思いつきで行動を起こした結果、狂気とも思える悪業を積み重ねる。力の制御は、本人の頭に浮かぶ事は無く、次々に繰り出される命令は、周囲によって実行されるわけだ。無意識とか、無垢という言葉が、おぞましく思えるのはこんな時ではないか。普通の人間だからとか、単純だとか、そんな言葉で、犯した罪が無くなるわけではない。そんな事に触れる度に、理解できぬ事ばかりが増え、嫌悪感が強まる。それより、事実だけを追いかけた方が、余程まともな神経を保てるのでは。
何故、こんな話題がトップニュースになるのかと、不思議に思うことが度々ある。それこそが知りたい事、という反論が返ってくるかもしれないが、井戸端会議と殆ど変わらぬ、噂話や他愛の無い話に、興味を持つ神経には、呆れるしかないのだろう。特に問題なのは、話を伝えるだけで、その価値を考えぬ事だ。
報道機関の役割は、情報の垂れ流しである、と言ったら、すぐに文句が出るだろう。自分たちの信念に基づき、それぞれの意味する所を分析し、きちんと吟味した内容を流す。それを垂れ流しと呼ばれては、心外というのだろう。だが、この所のメディアの動きからは、先を争うだけの様相が表面化し、まさに横並びの怪しい情報の垂れ流しが行われる、といった感じしか見えてこない。政に携わる人々の、質の低下には目を覆うばかりだが、彼らの行動を逐一伝える連中の、ものを見る目の無さも深刻な状態にある。結局は、それを有り難くいただく人々の存在が、彼らをのさばらせる事に繋がっているわけだが、愚民政治という言葉から連想されるように、多数の市民を相手に、質の改善を求めても、虚しいだけだろう。ある水準以上の見識を持つ人々が、互いに批判や批評を繰り返し、自らの質の低下を防ぐ事こそ、こんな状況において、最も重要な心掛けとなるのではないか。金や人気にばかり心を奪われ、大衆に迎合することしか頭に無い人間たちは、混迷と呼ばれる時代に巣食う餓鬼共であり、自らの行状にさえ、責任を負えない人々なのだ。言葉を蔑ろにする態度にも、そんな傾向が表れており、この間も、潜水艦との衝突で沈められた船の事故の話題で、「衝突した」と伝えたのも、質の低下を如実に表すものと言える。翌日には、「衝突された」と言い始めたから、何かしらの圧力がかかったのだろうが、それ以前の問題としか思えない。時間と金を掛けて制作するものでは決してないのだ。
核家族という言葉が作られ、親子関係のみが重視されるようになると、そこから弾き出される老後に不安が漂う。金銭的な安心を約束する筈の制度も、足下がしっかりしないことから、資産運用などが話題となり、様々な金融商品が出回ることとなった。ただ、少しでも資産を殖やしたいと望む人々は、別のことにも手を出すようだ。
貯蓄が資産運用の優等生と見なされたのは、利率が5%くらいの水準を保っていた時代であり、その後急落してしまうと、その対象から除外されてしまった。それでも放置しておけば、失うものは無いから、他の商品との比較は意味を持ち続け、その差を追求する動きがある。こういった類いの人々は、数字を追い続けるわけで、極端な差を示すものへの興味は、別物といった感がある。それに対して、不安や焦りが複雑に入り乱れ、兎に角、儲け話に飛びつくといった行動様式を示す人々は、規格からかけ離れた利益を追求することに躍起となる。法外な儲けとは、違法行為や投機的なものから生まれるものが多く、そこには、詐欺的なものが山のように積まれ、飛びつく人々の大部分は、一瞬のうちに被害者へと変貌する。将来への不安が、こういった傾向に結びつくと分析する向きもあるが、本当にそれだけなのか、と思うことが屡々ある。つまり、不安という心理要素より、騙されるという要素の方が、こういった場面では、強く働くのではないか、ということだ。甘い言葉とか、うまい話とか、そんなものに巻き込まれる人々は、何か特殊な感覚があり、何度騙されても、今度こそといった考えで臨む。そうならない人には、理解し難いことだが、その手の人々には、共通の感覚がありそうだ。家族形態の変化が、こんな人々を産んだという人もいるが、海の向こうで、その形態を長年にわたって続けた人々も、こちら発の詐欺事件に巻き込まれることから、社会構造より、心理構造が大きく影響していると言えるのかもしれない。
他人の身勝手さには目くじらを立てるのに、自分が同じようなことをしても気付かない。人間だから当たり前、と片付けるのは簡単だが、そんな人ばかりが増えたら、やはり不都合なことが増えるだろう。変化を求めたり、安定を求めたりと、そんな話が出てくる度に、ああまたその話かと思うのは、そんな所からか。
この国では、変化より安定が優先される場合が多いが、国によっては、どん底に安定することより、勝負に出る変化が先となる。確かに、上を目指す為に、変化の機会が無ければ、何も起きはしない。だが、変化とは一方向のものではなく、両極に向かうものだけに、こういった勝負は、裏目に出ることもある。安定を望む人の多くは、この面に注目する傾向があり、特に、下がることを心配することから、変化を忌み嫌うこととなる。一方、失うものが無い人々は、何にも増して変化を望み、少しでも上を目指そうとする。こんな背景が、この所の革命的な運動に繋がっているのだろうが、果たして、こんな状況が長続きするのか、はっきりしない。特に、身勝手さが表面化するのは、今後の展開で、何らかの権利や利益を得た人々の、行動の変化にあるだろう。以前と異なり、様々なものを手に入れた途端に、それを失うことを恐れ、変化を嫌うという形に豹変する。そうなれば、乗り遅れた人々の思いは抑圧され、また、一部に歪みを抱えたままの安定に落ち着く。所詮、こんなことの繰り返しなのだろうが、長過ぎることはいけないとしても、ある程度の安定は、様々な面で必要となるだろう。特に、政局の面は、責任と義務が存在しないこととなるだけに、よく考えて動く必要がある。
春が来れば、また動物たちの子育てが始まる。人間も動物なのだが、季節ごとの営みを守り続けることは、とうの昔に捨ててしまったから、この季節感は、他の動物を見ることで初めて気付かされる。だが、自分たちが除外されているのに、こういう所でも擬人化に心を奪われる態度には、毎度ながら驚かされる。
本能という形で片付けられるものの多くに、人間は様々な装飾を施してきた。自分なりの論理で、その正当性を主張するようだが、本能のように直接的にはならず、とってつけたような形のものが増える。理屈を捏ねることで、納得しようとする動きには、無理筋が露呈しており、腑に落ちないこととなる。それでも、次々に施され、上塗りされる理屈は、徐々に強固なものとなり、一見、確固たるものに思えるのは、全く不思議なことだろう。野鳥たちの子育てで、雛鳥たちが巣の中で大きな口を開け、親の餌やりを待つ姿は、受け身という意味で人間の子供たちと同じ、と見る向きもあるだろう。様々なことを学びとり、教え育まれるという段階では、受け身であることも大きな問題を生じない。ただ、最近の動きを眺めてみると、その後の展開に、以前と比べると、遥かに大きな違いが現れており、受け身から脱することの無い人々には、新たな展望が開けないこととなる。従順な子供たちを望み、つけられた道筋に沿って動くことを、押しつけも含めて運命づけられた、とでも表現すべきだろうか、そんな人々が増えているというのだ。親離れと表現される問題については、様々な考え方があるだろうが、この段階で大きな変化が起きなければ、そのまま安定だけを求める方向に進むのは、ごく自然な成り行きだろう。だが、口を開けるだけだった子鳥たちが、いつの間にか巣立ちを迎えるのを見ると、そんなことさえできないことに、驚きを禁じ得ない。
議論が粛々と進められる、という光景に、違和感を覚える人もいるだろう。議論の場は、話し合いをする所であって、単に提案を認めるだけならば、そんな時間は無駄と言うのだ。だが、この国では、根回しと呼ばれる習慣があり、準備段階で十分な意見収集が行われるから、場当たり的な議論こそ、無駄との意見もある。
では、どちらが正しいのかを、結論づけることはできるのだろうか。例えば、他の国々で、活発な議論が行われるのを、あれこそ正解と言う人がいるけれど、その国からやってきた人が、根回しの意義を認めるのを聞くと、事は単純でないとなる。要するに、どんな経過を辿っても、出された結論こそが重要であり、議論無く認められた提案が悪いのではなく、議論を重ねても無駄や的外れなものでは意味が無い、ということだろう。特に気になるのは、話し合いの機会を得ることを優先するあまり、些末なことも含めて、まずは批判的な意見を出し、活発な議論を導くという手法を多用する人々で、本質的な指摘というより、議論の為の指摘といった感が否めない。自分の意見を出している筈なのに、他の人の代弁者のように振る舞うのも、こういった人々の特徴で、他人事となるだけに、却って柔軟性が失われることとなる。この場合の最大の問題点は、この頑さにあり、活発な議論が結論に結びつけられることは少ない。色々な意見が出たと結論付け、意義を認めようとしても、実際には、堂々巡りのものが多く、袋小路に入ってしまうことも多い。議論の為の議論では、何の意味があるのか分からないし、それこそ時間の無駄ということに、この類いの人々は気付かず、捩じ曲げられた結論の明らかな間違いにさえ気付かない。そんな場に居合わせると、その愚行に呆れるばかりだが、渦中の人々は、酔い痴れている感さえある。
欲の話をすると、何かしら怪しげな部分があり、薄汚れた印象を持つ人も多い。しかし、他人を陥れたり、策を弄するなどの手立てを必要とするものとは違い、日々の生活において出てくる欲は、誰もが生きていく上で必要であり、失われてしまえば、生き長らえることさえ望めない。正常であればいいのだが。
食欲は、あるのが当たり前というものだが、それがどのような仕組みで保たれているのか、詳しいことは解っていない。血糖値の上下が鍵になっているという意見も、それ以外の要素を排除できるわけでなく、精神疾患として取り上げられるものには、様々な要素の関わりを感じさせられる。心理的な要素は、本来、欲望に対しては余り効果を持たないものだが、極まった事例では遥かに大きな力を発揮する。一方、栄養補給という観点からのみ、食欲を分析しようとすれば、点滴や胃瘻で全てが叶う筈だが、食べる行為の重要性を主張する人々も多い。では、食欲を満たす為に必要となる要素には、どんなものがあるのだろうか。血糖値などの生理的な数値は、そのうちの一つと受け取られるが、例えば、ある栄養素の欠乏に関しては、必ずしもそれを満たす方向に働くとは限らない。妊婦の鉄分不足はよく言われる症状だが、一般の人々も様々な不足に見舞われる可能性がある。特に、偏食が著しい場合には、その傾向が激しくなる場合もあり、注意を要するだろう。そんな中で、食欲そのものと密接な関係にあるものに、味に対する感覚がある。味覚に異常を来した時、ものを食べることはどんな感じになるのか。ある人は、砂を噛むようだ、と評したと聞く。そんな感覚で、食欲を満たそうとした場合、どんなことが起きるのか。多くは、食べる悦びを感じること無く、単なる栄養補給としか思えなくなり、その減退が起きる。この原因としてよく言われるのは、亜鉛の欠乏である。微量元素と言われる、ほんの僅かしか体内に存在しない金属イオンだが、不足すると味覚異常を来すそうだ。それ以外にも、味覚異常や味盲の原因はあるが、いずれにしても食欲には味も関係してくる。