パンチの独り言

(2011年2月21日〜2月27日)
(お互い様、対効果、諦観、連鎖、大局観、逆差別、様変わり)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



2月27日(日)−様変わり

 何かが違う。嘗て訪れた時と、賑わいは全く変わっていないのに、往来する人々の姿が、何か違っているように映る。目的の店に急ぐ人々や、店の前に飾ってある献立表を眺める人々、そんな光景が当たり前で、それに加えて店頭で売られる饅頭を頬張る人が行き来する。だが、目の前に展開される光景は、全く違っている。
 世界一とか、そんな売り言葉が並べられた派手な写真が、飾られた店は、新参者のように見える。しかし、街の中の此処彼処に構えている所を見ると、人気が急上昇している雰囲気に溢れている。その店の前で繰り広げられる行動が、以前のものと全く違う空気を漂わせている。それぞれの料理店の前で、自慢の饅頭などを売っていたものとは異なり、それだけを専門とする店では、大きな声で客を誘う姿や、世界一という言葉に誘われて列に並ぶ人々が、往来を妨げる程に大きな塊を作る。漸く手に入れた食べ物を、立ったままで口に運ぶ人々も、結局は行き交う人々の邪魔となり、周囲の店の前に立つ事で様々な障害となる。喧噪が当たり前で、混雑こそ歓迎すべき事、といった考えが元々あった場所だから、それに文句を言う人は居ないようだが、どうにも異様にしか見えない。海の向こうの隣国からやってきた人々が、居留地のような場所に居着き、そこでの商売を盛んにしていく。百年以上も続いてきた光景が、何かの圧力に屈し、その姿を変えつつあるように見えていた。こんな変化も、これまでの歴史の中ではごく小さな事、と後々言われるのかも知れないが、何もかも情報に流され続ける人々が群がり、何が本物か見分けられない人々が舌鼓を打つ。何かが違うと思うのさえ、こちらの間違いかと思えてしまうほど、異様な光景は街一杯に広がっていた。

* * * * * * * *

2月26日(土)−逆差別

 平等に、という観点から、機会均等を歓迎する声は強い。確かに、誰もが同じ可能性を与えられ、その下に活躍の場を求めていく事は、正しい方に向かっているように見える。この中で障害となるものがあってはならないのは当然だろうが、人それぞれの資質や能力による役割分担とは、何処かが違うように思える。
 一人一人が違う事は明らかだが、その中で違いを認める事と、違いを克服する事は、全く違った観点から起きているように言われる。例えば、機会均等を目指すにしても、違いを認めた上でのものと、違いを克服する為のものでは、取り組む姿勢が大きく異なってくるのではないか。最近の傾向は、どのような違いがあったとしても、それを覆い隠す程の処理をして、誰もが同じ事をできるようにする、といった感覚が強まっている。差を無くす事に力を注ぎ、その中で機会均等を目指すのは、間違いではないのかも知れないが、有る筈の差を無いとする事には、かなり強い抵抗感が伴う。また、多様性といった考え方からすれば、差を無視する事には大きな危惧を抱かされるのではないか。機会を奪う事に対する非難が強まるに従い、このような傾向が強まる結果となったが、そこでは全く別の形の差別が表面化し、様々な問題が噴出している。無理強いによる役割分担が、様々な形で否定されるのはやむを得ないとしても、適材適所を無視する形で、機会を与える事に問題は無いのだろうか。制度による導入の場合は、当事者の問題だけでなく、様々な事情が絡む問題となるが、だからと言って、現場の混乱は致し方なしというのでは、歪みが大きくなるばかりだろう。才能が活かされるように、といった考えとは異なるものが、重視される中での機会均等は、如何にも矛盾に満ちたものであり、まともな考えとは思えない。

* * * * * * * *

2月25日(金)−大局観

 何でもかんでも鵜呑みにするのではなく、批判的な目を持つ事が大切と書いた事がある。この部分だけ捉えれば、何の間違いも無いと思うのだが、人それぞれの行動は簡単には決まらないものらしく、批判だけに終わる人々との遭遇は、これらの問題が根深いものである事を、強く意識させる結果に繋がった。
 攻撃は最大の防御とばかり、他人の弱点を次々に突いていく行動は、自らの立場を守る為には、重要な要素となるだろう。しかし、悪い所をいくら指摘したとしても、その改善に繋がらなければ、問題を打開する事にはならない。此処での最大の問題は、批判が改善の為ではなく、自らの保身の為に行われている事であり、その意識の有無に関わらず、結果に繋がらない事だけは確かとなる。多くの人々は、こんな行動をする人を忌み嫌い、排除しようとするようだが、少なくとも批判の目を活用する道は残っているのではないか。彼らに、改善の提案が可能かどうかは、その時点では不明であるものの、見る目を持たない人間と比べれば、その点だけでも取り上げる意味がありそうに思える。ただ、長い目で見て、こういった活用が何かしらの糸口を与えると言っても、批判のみの矢を受け続ける人々の不平不満は募るばかりだろう。この矛盾が解消されない限り、敵対的な遣り取りばかりに力が注がれ、解決への道は、更に遠離るものとなるしかない。批判者自身の改善を促す事は当然として、それ以外の人々からの批判に応じた改善提案を促す事は、この事態を打開する為に不可欠となるのではないか。指摘された点を、改善の目で眺め、改良を加える事は、人によっては得意とする所だろう。役割分担といえば簡単だが、実は交通整理に似た役割を果たす人間が居なければ、何も起きないようだ。

* * * * * * * *

2月24日(木)−連鎖

 政情不安が伝えられ、経済への影響が危惧されている。相も変わらぬ騒ぎぶりに、少々辟易とし始めているようだが、当人たちは悦に入ったように、持論を展開させる。まるで、この事態を予測したかのような振る舞いに、画面の前では開いた口が塞がらぬ、といった光景が続いているのではないだろうか。
 あれほど崩壊を願った国の騒乱ぶりに、大国を誇る国も驚きを隠せないようだ。スパイ映画さながらに、暗殺者を送り込むだの、失脚を仕掛けるだの、様々な手立てを講じたようだが、どれ一つとして効果を現さなかった。そんな強固な国構えに、全てを諦めかけた所で、件の人は方針転換を図り、経済状況の好転を目指した。それこそが自らの地位の維持に繋がるとの判断が、なされたに違いないのだろうが、互いの利益の追求こそが第一との考えもあったのだろう。その後の展開は、体制の変化も無いままに、互いの都合がいい状態に、何かが変化したように見える。そんな中で、ほんの少しのきっかけが、圧倒的な力を発生し、隣国での体制崩壊に繋がった。これ自体は、大国にとっては都合のいいものでなかったのだろうが、今回の対象は、まさに長年の夢ともいうべき事が、実現の直前にまで来ている感がある。この状況を、どんな気持ちで眺めているのか、これまで政治の中心にいた人々の感慨は、知る術も持たないものの、このような変化を誰が予想したというのだろう。まさか、単なる通信術の変化が、こんな事態を招くと予想した人もいなかっただろうし、予想したとしても、これ程の効果を産むとは思わなかったのではないか。数の力がこんな形で現れ、力を持つ事は、一番の人口を誇る国にとっても、脅威に違いない。一つ問題が残るとすれば、崩壊はあまりにもあっけなく起きたものの、再構築は兆しも見えていない事ではないか。願った人々も、そこに大きな悩みの種を見ているだろう。

* * * * * * * *

2月23日(水)−諦観

 やりたい事が見つからない、と嘆く人々が、熱心にゲームに勤しむ。遊びは遊び、という考え方は、以前のものとは大きく変化し、区別をしようとするより、ただ単に快楽に耽るだけのように見える。こんな姿からは、やりたいとは快楽と直結するだけの事であり、身構えて嘆く姿を見せつける程も無いと思える。
 勝ち負けを重視する考え方が主流となってからは、集団に留まる安心感とは別に、そこから飛び出す事によって得られる優越感が、一つの大きな要素になった。理解に苦しむのは、集団に遅れぬようにとする心理と、そこから飛び出そうとする心理が、同じ心の中に同居する事であり、そこから生じる矛盾を、心の持ち主がどう感じるかは、簡単には想像できない。欲望に走る性向を強めた人々は、やりたい事を見出そうと躍起になるが、日常的に繰り返される行動には、まさに欲望を満たそうとする心理が働く。敢えて特殊なものを探すより、毎日触れるものの方が、遥かに手軽に欲望を満たしてくれる。そんな状況で、一体全体、何を追い求めようというのか。集団から飛び出した人への羨望が、そんな気持ちを起こさせているのかも知れないが、全く違った心理がそこに働いている事に、気付く人は少ない。日々の欲望を抑え込み、全く別の大きな目標を持つ事は、日々の低水準の欲望で満足する人々には、思いもよらない行動ではないか。あるものを手に入れる為に、他のものを捨てたり、諦めたりする行動は、そんな道を歩んできた人々には、ごく自然に生まれるものだが、多くの人々には、その意味を理解する事や、思いつく筈もない事なのだろう。「諦め」とは、捨てる事にしかならず、拾う事には繋がらないと思っては、何も変わらないだけなのでは。

* * * * * * * *

2月22日(火)−対効果

 小さな政府の是非の問題はどうなったのか。一時の単なる思いつき、と言ってしまうとそれまでかも知れないが、その後の経過を眺めるにつけ、これ程大規模な実験を、一部の思いつきで進めてしまった事に、本質を見極めずに手を付ける、最近の誤った傾向が、こんな所にも現れているのかと思えてくる。
 机上の空論を積み重ねても、空回りする議論を続けても、何の結論も導き出せなくなったとき、改革を標榜する人々は、暴挙とも思える行動に移った。経済の停滞を棚に上げ、目の前の停滞の原因を、大きな組織の責任とし、小さくする事を第一とし、更に効率化を進める為に、独立採算を基本とする組織への変貌を、様々な部分に強要する動きを起こした。その結果は、既に様々な部分で総括に値する程明らかになりつつあり、当時意図的に取り上げられた問題だけでなく、意識的に隠された問題までが浮き彫りとなり、組織改革の取り組みの杜撰さが露呈しつつある。経費削減の為の効率化は、当時だけでなく、現時点でも大きな問題として注目を浴びているが、その対象の意義や意味を議論する事無く、全てを効率で測ろうとする動きへの批判は、強まるばかりなのではないか。効率の為に切り捨てられた人々や、縮小により発生した問題など、こういった問題解決手法が、それを掲げて暴走を繰り返した人々が思った程、簡単な課題ではなかった事が、次々に明らかとなる。独立と冠された法人の多くは、その時期に次々に誕生したが、依然として、あの時の夢物語は現実にはならず、却って、当時よりも大きな欠陥を抱えるものとなってしまった。課された役割と効率化との狭間で、苦しみ続ける人々には、解決の糸口さえ見えてこない。どいつのせいなのか、と思えてくる。

* * * * * * * *

2月21日(月)−お互い様

 接客業に就く人々と客の間には、一種の主従関係があると思う人がいるようだ。「神様」と呼んだ話が出た頃から、この傾向は強まるばかりとなり、今に至っていると言っても良いだろう。ここでの力関係は、あくまでも相対的なものであり、じゃんけんのような様相に興味を持つ人が多いのではないだろうか。
 客の立場になれば、一方的な力関係に酔い痴れる事ができるのに、逆の立場に立たされた途端に、無理難題をも飲まねばならぬ苦境に陥る。心理の不安定を絵に描いたような状況に、均衡を失う人が出てくるのもやむを得ないと思える程、極端な図式が構築されたわけだが、こうでなければならないという理由は、誰にも見つけられないように思う。二極化という単純な様相を、好んで取り入れてきたせいもあり、今更どうにもならないといった諦めも見えるが、社会性という感覚からすれば、異常としか言い様の無い役割分担とその交代なのではないか。交代があるからまだ救われるとしたら、その機会を見出せない人々は、不幸な時間を過ごすしかない。客の要求を次々に受け入れ、無理難題を実現しようと努力する。ごく当然の姿と見る人もいるだろうが、自分をそれに重ねてもそう思えるのだろうか。実は、客と主人といった極端な関係に無くとも、こんな苦境に追い込まれる人々が増えており、無駄な努力や過度な心理的負荷を強いられる場面が目立ち始めている。どちらの意識にも問題がある事は明らかだが、それを解決する手段が見つからないままに、時間が過ぎていくばかりで、悪い方に向かう変化を止める事さえできていない。実際には、互いに気遣い、配慮する事で、簡単に解決できるものを、馬鹿げた仮定を置く事で、できなくしている事に気付かなければ、何も始まらない。

(since 2002/4/3)