変化の無い毎日をつまらないと感じる人と、安心できると思う人、どんな心理が働いているのか、知る術も無いのだが、何故同じものを見ながら正反対の反応をするのか、不思議に思う。実際には、そんな不思議よりずっと大きな不思議があり、同じ事が繰り返されると思うのは何故か、違うのは当たり前ではないのか。
日常と表現される、毎日の変わらぬ要素も、じっくり眺めれば、少しずつ違っている。そんなものが変わらないと思えるのは、おそらく大きな違いにしか目が向かわず、違いを見出そうとする気持ちが無いからだろう。それが安心に繋がるとなれば、小さな違いなどに目を奪われず、同じである事を有り難く感じるのが肝心だろう。そんな事情を考えれば、小さな違いを覆い隠し、同じであると見なす事も重要だろう。だが、つまらないと思う人々の方はとなると、解釈は難しくなる。始めに思い当たるのは、小さな違いを見出す目を持たない人々の事で、他人に指摘されるまで気がつかない事から、そういった感覚の喪失が結果を導いているように思う。観察の為に緊張が必要かどうかは判らないが、ふと向ける目が何も見ていない、という事があるのではないか、と思わされる事さえある。何故、そんな状態に陥るのか、経験のない者には想像がつかないが、本人たちはごく当然の事と振る舞っている。見えない事は何の不思議もなく、自らに危険が迫っていたとしても、何も感じない。そんな状況に向かうのが、何故なのか。個性と片付けるのが適切なのか。自然に生まれる多様性なのか。ある意味、どうでも良い事なのだけれども。
社会問題や課題が取り上げられる際に、最近の傾向として気になる部分がある。問題の重大さばかりに注目が集まり、社会全体のものかどうかの検証が不十分な場合が多いのだ。事例を挙げればきりがない程、話題性を狙っただけのものが溢れ、単なる垂れ流しとしか思えないものも、数限りなく存在する。
問題を取り上げる意識には、それを解決に導こうとするものがあると思ったら、その期待は見事に裏切られる。彼らの目論見の第一は、注目を集める事であり、話題性を前面に押し出すのも、そういった意識が働くからだろう。そこでは、全体から見れば異常と思えるような事例も、格好の取材対象となり、深刻に見えるとなれば、一気に広がりを見せる。対象となる人間の数が、どれほど少数かは此処では問題とされず、悲惨さが重要な指標となる。例えば、この所ある時期に必ず取り上げられる話題として、就職率の問題がある。ここ数年の変化は、内定を取り消される事例が表面化した事であり、夢を打ち砕かれた若者たちの悲劇を、どう捉えるかが問題となる。しかし、その数を見れば、毎年新たに社会に飛び出す人々の数に比べて、あまりに違う事に気付く筈で、数値ではなく、全体に占める割合で、この手の話を扱うのが当然に思える。一人一人の物語は、それはそれとして重要な事柄だが、社会問題とは社会全体で考えるべきものであり、個人を取り上げてもきりがない。そんな事に気付くか気付かないかは、受け手の責任といえばその通りだが、そんな事でこんな非常識が罷り通るのは、何とも情けない状況にあると言えるだろう。数値は、その扱い方で何とでも処理できるものであるだけに、非論理的な処理を繰り返し、それらを声高に訴える手法は、そろそろ葬って欲しいと思う。下らない話に振り回される人々が悪いと、あの連中がほざく度に、無責任さを見る思いが募るだけなのだ。
素早く出てくる食事に、その名前が付けられているが、一方で、脂肪分や塩分の摂り過ぎが取沙汰される。毎食同じ店のものを食べ続けたという実録映画が話題となったのは、随分昔の事のように思えるが、7年程しか経っていない。体調が崩れるという筋には、当時、背筋も凍る程との感想も聞かれたが、今は?
嘗て、成人病と総称された症状は、名が示す如く、大人たちの病気であった。しかし、食生活の変化から、最近では同じような症状が子供たちにも現れ、社会問題とされる。家庭料理にも原因があるのだろうが、例の店が提供する食事にも問題があるのだろう。社会環境の問題と片付けるのは簡単だが、関わっているのは家族であり、親や周囲の責任を忘れる事はできない。将来を考える事は本人の責任とする向きもあるが、欲望が先行する若年層に対してまで適用するとなると、どうなのだろうか。あの映画が放映される前と同じ賑わいを見せる店だけでなく、同業の店も不況な時代にも関わらず、業績不振とは思えない。そんな中で、本家本元の国から、別の企業が進出してくるとの話題があった。実は、2年程前に撤退していたから、再進出なのだが、どうなるだろう。向こうでは断然一位を誇り、先の映画にまで取り上げられた企業に対抗する為に、消費者に訴える言葉に工夫を凝らしていたが、30年近く前には、"Where's the beef?"という年配女性の一言で、競争相手を批判するテレビ宣伝が話題となっていた。このような形の広告は、あちらの国ではごく当然と受け取られ、効果を上げていたようだが、その後の展開を見ても形勢は変わらない。子供相手の商売に徹する姿勢を打ち破る事は、やはり難しいようだ。
分かり易い話をする為に必要なものは何か。これを知りたいと思う若者が多く、巷には攻略本かと思えるものが溢れている。ゲームに心を奪われた人々にとって、同じ手法が一番馴染み易く、目的が明確になるだけ、飛びつき易くなるという事か。だが、問題が解決していない所を見ると、やはり一朝一夕には、ということらしい。
ゲームはどんなに複雑な筋を作ったとしても、それが無数の可能性を産むわけではなく、決まった道を歩むだけである。そんな筋書きのあるドラマでは、攻略を示す事は簡単で、それを実施するのが難しいだけの事だ。攻略本に飛びつく人々は、解っている事を解りたいというだけで、何か新しい事を知りたいのでも、不確定な事に取り組みたいわけでもない。そんな人々が、他人に自分の思っている事や考えた事を説明しようとすると、自分の理解を基盤として話を進める。解らない人間を対象とするつもりはなく、解らせようとする努力が何たるかを知る術も持たない。相手の理解がどの程度かを調べる事なく、一気に核心に入るやり方では、分かり易いとなる事はまず考えられない。仲間意識も、この場合における問題の一つだが、もう一つの問題は、理解するとはどんな事か、解っていない事にありそうだ。自分の話を難しすぎると指摘される人の多くは、論理の飛躍が甚だしいか、あるいは、言葉の選び方が間違っているかの、どちらかである。そうなる原因は、おそらく理解不足であり、本質を見極める力の無さによるものだろう。その力をつける為に重要な要素であるにも関わらず、彼らに欠けていると思えるのは、他人の話を理解する力に思える。解るとはどんな事か、それを知らずして、分かり易いなんてあり得ない、という事ではないか。
本物そっくりの偽物を作る技術、それを誇ったとしても、本家本元のものが無ければ何もできない。ある時代からそんな方向に進んできた国は、未だに方針変更に苦しんでいるように見える。場合によっては、苦しむよりそのままの方が良いと、他国から批判されても無視を決め込む。国内消費が大きいからか。
そんなお国柄か、偽物に対する考え方もかなりの乖離がある。収入が低くても、一級品が欲しがる気持ちが変わらないから、少しでも安い偽物を持つのだ、と平然と答える若者が画面に映った時に、眉をひそめた人もいるだろう。自分本位の論理は、こんな国情と相俟って、独走態勢を築き上げる。どんなに外圧をかけても、一番を誇る人口から生まれる消費は、他国の介入を許さず、国内事情と片付ける姿勢は、微動だにしないのだから驚きだ。ブランド品の事も大きな問題だが、この姿勢があらゆるものに適用されるとなれば、被害は拡大し続ける。自らの繁栄のみを目指す人々は、忠告を聞き入れる気がなく、四面楚歌となったとしても、数量の論理が最後には勝つと思っている。技術の盗用は当然の事であり、その為に技術者の略奪も厭わない。秘密の保持が最優先と、以前から言われ続けた話も、こんな国を相手にしては、困難が極まるばかりとなる。嘗て、見学に訪れた工場の様子から、技術を盗み取ろうとした人々が住む国も、今では最先端として追いかけられる存在となった。技術供与が当然とする動きも、相手が更なる下心を持つとなれば、鈍ってくるのも当然か。意図的に与えるのではなく、意図しない部分で奪われるとなれば、互いの関係は崩壊するのではないだろうか。責任の所在を明らかにするより、付き合いの仕方を考えるべき時なのかも知れない。
ああだこうだと、様々に言葉を飾り付け、内容の解説を繰り返す。まるで、押し売りや詐欺師のような雰囲気だと思われそうだが、虚飾に満ちた言葉を繰り出すのは、有識者とか専門家とか呼ばれる人々である。本当の専門家なのかは画面から知る術も無く、自信たっぷりに見える雰囲気が僅かな保証となる。
マスコミが好んで起用するこの手の人々は、ある特徴を持っているように見える。それは、思惑通りの展開を進める事であり、報道という立場からすれば、余り好ましくないと思える、台本に従った言動を紡ぎ出す能力だろう。思い通りに運べば、話の展開も順調となり、見栄えは良くなる。更に、思惑から来る演出が効果を出せば、耳目を集めるという目的も達成でき、本来の情報提供では大して問題とされない、視聴率なる数字も高まるに違いない。分かり易い解説、と呼ばれるものの多くは、明らかな誤解を招くものであり、真の理解を促すものは少ない。何故なら、受け手の殆どは、自分の解る範囲での理解を目指すものであり、一瞬でも考えようとはしないものだからだ。自分の歩む速度で理解を進めようとする人々は、次々に場面が変わる画像や音声による情報提供を苦手の一つとし、文字をじっくりと読める媒体を好む傾向がある。彼らは、理解を進める事を第一の目標とし、雑多な情報をいい加減に詰め込む事は避けたいと思う。そんな中で、最近の報道の傾向である、種々雑多な情報や単なる噂話、根も葉もない戯れ言を垂れ流す姿には、好感を抱く事は決して無い。核心をつく解説が消え去り、不安を煽る言葉ばかりが飛び交うと、そろそろ止めにしてくれないかと思う。
頑張る人の努力に水を差すつもりは無いが、どうにも筋違いの話ばかりで、一言二言口を挟みたくなる。内向き思考を憂う人々の意見には、的外れなものが多いだけでなく、それが端緒となって様々な試みがなされるとなると、馬鹿げた大芝居が演じられる事となり、絵空事がさも現実のように扱われる。
外に出かける人の数が減ったとの騒ぎは、何が原因かは解らないが、強調されるべきは受け入れ側が発表した事だろう。学びに出かける人間を客と見なすかどうかには、賛否両論があるだろうけれど、市場原理を教える所となれば、そんな含意があったとしても不思議ではない。一方、以前から騒がれているように、世界に通用するという掛け声に、ある国の言葉を扱えるかどうかを指標として、外向き思考のきっかけを与える試みがなされ、既にその判断の間違いを指摘する声が出ている。言葉はあくまでも意思疎通の道具に過ぎず、それを流暢に扱えたとしても、中身が無い話では役に立たない、という指摘は既に何度もされてきた。にも拘らず、毎度お馴染みのこの顛末は、何故起こされるのだろうか。大した能力も無く、自らの欠陥を顧みる人々に、そんな傾向が強い事は確かだが、最近はもう少し複雑な様相のようだ。できない事をやらせる、肝心でない事に着目する、そんな穿った見方が当てはまるかどうかは解らないが、そうかも知れぬという気がしてくる。きちんとした考え方は、上辺だけの理解から来るものではなく、自らの思考が深まる事によってのみ、できるのではないか。そこに言語が入り込む余地があるとすれば、そういった思考回路を構築する過程で、使い続けたものこそが重要となる。簡単な事を誤摩化す動きに、厭なものを見たと思った人も多かっただろう。