パンチの独り言

(2011年3月7日〜3月13日)
(不変、相互理解、横車、詐欺紛い、補足、情報、無垢)



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3月13日(日)−無垢

 国の転覆、革命に力を果たしたと、一気に株を上げた仕組みが、今回の惨事では、その勢いが萎んでしまったらしい。誰もが参加でき、情報の共有だけでなく、拡散に効果を示すことが、重要な特長だった筈が、肝心なものが流れず、偽物を鵜呑みする人々に、荒らされる結果となった。
 こんなことを書くと、一部の心ない人々による蛮行を、仕組みの責任とするのは筋違い、との反論が返ってくるだろう。しかし、上に書いた特長を活かす為には、このような問題が起きる可能性に目を瞑るしかなく、そんな障害は織り込み済みとするしかない。だが、問題が起きてみると、被害者になった人々は、情報の真偽を問題視し、それを拡散した人々の責任を問うこととなる。人の為と思うあまり、必死で画面と向かい合い、情報を流すことに躍起になった人々は、そんな思いは微塵もなく、責任という言葉は馴染まぬこととなる。この図式は、ある程度の設定を施した上に、設計された仕組みの中では、想定の外にある訳で、結局、仕組みにも責任がないこととなるから、事態は渾沌とする。誰もが無責任に、情報提供に力を貸し、問題を起こす原因となる。実際に流れていたものは、災害に巻き込まれた人を心配するものであり、心情が如実に現れたものなのだろうが、それを共有することに、どれほどの意味があるのか。災害時の情報で肝心なものは何かを、知らない人々までが参加することは、こんな事態を招くのだということなのだろう。改めて、ガセネタに振り回される人々が溢れかえり、戸惑うばかりとなる姿に、社会の脆弱性を垣間見ただけなのかもしれないが。

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3月12日(土)−情報

 天災は忘れた頃にやってくる、という言葉を思い出した人がいるだろうか。何も忘れていない、と思う人もいるだろう。いずれにしても、未だに正確な情報がもたらされず、災害に見舞われた人々を心配する声は止むことが無い。情報社会とは何か、こういう時に議論する必要は無いのだろうが、少し考えたい。
 ビリビリという音共に始まった揺れは、その勢いを徐々に増し、ゆっくりとした周期の揺れが頂点に達した瞬間には、それなりの恐怖を感じた。だが、その初期微動の大きさと、そこから本震までの時間の長さ、更には本震自体の持続時間を加えれば、比較的遠方での地震であるだけでなく、その規模の大きさに思いが及ぶ。幸い、停電も無く、ネットの状態は平常通りとなっていたが、それを介して伝えられる情報には、ろくなものが転がっていなかった。公共放送を通じて、事態の変化が忠実に伝えられたが、情報社会の根幹であるべきネットの方は、大した情報も提供できず、例の如くの偽情報が、誇大な形で伝えられるだけとなる。情報提供についても、被害を受けた人間からのものは殆ど無く、心配の声とともに、信頼度の低い情報が流れる。ラジオやテレビの情報をそのままに伝えるだけでは、その役割を果たしていたとは言えないのではないか。個別の情報も、この仕組みを通して伝えられたものの、解決の道はそこから開けたようには見えない。こんなものと思えばその通りだろうが、これがその実態ということではないか。今も続き、広がりを見せる被害の状況は、徐々に明らかになりつつあるが、何時になったら全貌が明らかになるのか。心配を募らせる人たちには、こんなことをこんな時に書く人間こそ、不謹慎と映るのかも知れないが。

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3月11日(金)−補足

 同じ話を聴いても、人それぞれに解釈が異なる。当然だろうと思う人々で、そこに示される解釈に、自らの考えが左右されることは無いのだろうか。情報提供を役目とする人々は、正確な情報を流すことを最優先とする筈だが、そこに付け加える一言に、より大きな力が働いていることに、違和感を覚える。
 事実を伝える際に、そこから推測される考えを付け加えることは、情報提供が見せ物の一つと見なされるようになってから、ごく当然のことと受け取られてきた。確かに、事実だけを羅列されても、その背景やそこから生まれる影響などに、考えを及ばせることは簡単ではない。そこに、一つ二つのヒントや助言のようなものがあれば、誰でも簡単に考えを展開することができるだろう。だが、その道筋は、誰かが設定したものに過ぎない。それぞれが独自の考えに基づき、人それぞれの解釈を施すという動きは、こういった準備によって排除されることにならないのだろうか。そんなことより、考えを促す方が重要とする向きもあるだろうが、頭を働かせるという観点から言えば、誰かの考えを写し取るだけの作業では、本来のものとは大きく違った形にしかならない。伝えられる事実に加えられた考えや追加情報は、それを加える人々の意図によるものに過ぎず、多くの場合は、思考の方向を決定づけるものとなる。助かったと思う人々には、こんなことを意識する余裕は無く、ただ、誰かの考えを鵜呑みすることが続き、物知りになった気分は味わえるものの、人と同じ考えを展開することしかできない。ここ一番という場面で、大いに役立つのは独自の考えであり、それを編み出せるかが肝心となるが、こんな状況では多くを望むことはできない。非難するばかりで、余計なことをし続ける人には、何も判らないのだろうが。

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3月10日(木)−詐欺紛い

 詐欺と言ってしまえば簡単なのだが、それは言い過ぎだろうと指摘されるに違いない。数年前から始まった大公告事業は、愈々その終結期を迎えようとしている。仕組みの変更が機械の変更を強制するという、公共事業として珍しい出来事は、その伝え方に関しても初めての事ばかりで、送り手も受け手も戸惑うばかりだ。
 だが、その伝える順序に関しては、過ぎてみれば首を傾げる事ばかり、といった雰囲気が流れている。始めは、ごく当然の如く、買い替えを基本の姿勢として叫び、それ以外に方法が無いような印象を与えていた。電化製品の市場は、色々な事情から拡大の勢いは萎え、業界全体が不況の嵐の真っ只中にあったから、こんな事でもきっかけとして歓迎されただろう。しかし、仕組みの違いも判らず、何故押し売りされるのかも判らない人々は、すぐに動く事が無かった。それが徐々に明らかになるにつれ、伝える側の焦りは増すばかりとなり、叫び中心の発信方法が主体となる。ある日を境に、まるで命が絶たれるかの如くの叫びに、危機感を催すより、異常な感覚のみを持った人々は、依然として動く事がなく、期待外れの時間が続くこととなる。そんな中で、突然の方針変更のような出来事は、筋書き通りのように流され始めた。従来の機器に簡単な補助装置を繋げれば、問題が解決されるという話は、理解できないままだった人の救済というより、更に煙に巻くことに繋がったのではないか。この展開は、筋書き通りなのだとする人もいるだろうが、それにしてもこの順序は、まるで詐欺師の手口に思える。新しいものの魅力を伝える力を失い、こんな手段に頼るのでは、業界の復活はやはり遠い先のことなのだろう。

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3月9日(水)−横車

 貧しい人や不幸にある人を見たら、手を差し延べるべきという意見がある。人間愛とか、そんな考え方が根底にあるのだろうが、どうも素直には応じられない類いのものも、巷に溢れているようだ。大災害の後の募金や貧困層への施しなど、当たり前になった途端に、注目度は一気に落ち込んでいくらしい。
 悲劇に巻き込まれた人々に救いの手を差し出すのは、ある意味で人間愛と言えるかも知れないが、今話題になっている人々に対しては、どんな感覚が当てはまるのだろうか。制度の徹底や理解が不足していた為に、本来ならば受け取れる筈のものが受け取れなくなる。規則を正しく適用すれば、手続きを怠った人々に非があり、この結果は当然の帰結となるべきだが、世知辛い世の中では、自己責任と片付けるのは難しいようだ。救済策を講じて、何とか全ての人が恩恵に浴すように、という思いが働いたものの、根本となるべき平等に反する奇策では、被害者と目された人々以外には、受け入れ難いものと映ったようだ。この所、長年続いてきた制度に、根本的な欠陥が指摘されたり、その運用での誤った解釈の適用が問題となり、長期に渡るものだけに、解決への道程は遠いものとなっている。今この時の最良の策が、必ずしも全ての状況を満足するものとならない事は、始めから明らかであるように思うが、当事者たちには差別的なものにしか見えない。被害者救済が第一と考える風潮は、こういう場面でも大きく影を落とし、無理筋を押し通す事が罷り通る。こんな所で本質的な議論はできないと主張する人々にとって、付け焼き刃的な施策は当然に思えるようだが、余りの不均衡に常識を疑うしか無い。存在した規則が正しいかを議論するより、その適用の方策を議論すべきなのでは。

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3月8日(火)−相互理解

 話が通じなくて苦労する。と言っても、外国人相手の事ではない。同じ国の人間と、仕事の話をするだけなのだが、どういう訳か話が噛み合ない。同じ国の言葉を互いに発しているのに、十分な理解が得られない。一方で、何故理解されないのかが判らない。こんな事態に陥った事はないだろうか。
 外国語の習得を大事と見る向きが増えているようだが、足下が暗いという感覚が、こんな場面に出会すと芽生えてくる。言語は所詮は道具に過ぎない、という事が判っているだけに、何故そんなものを自在に使いこなせないのか、地団駄を踏んでも何も変わらない。互いの理解に必要なものは何か、この観点で考える事なしに、話が通じない事を憂えても、何も変わらないという訳だ。では、何が必要なのか。多くの場合、理解不足を感じる場面で、人は自らの不明を思い、それを克服しようと努力する。だが、そんな時、相手がこちらの状況に気付いていないのではないだろうか。十分な理解も重要だが、その為にも十分な説明が必要となる。理解と説明は表裏一体であり、どちらかの過不足が相手に影響する事が度々ある。互いが、違う人間から出てくるものだけに、その間の連携が無ければ、密接な関係は築けない。これは、互いが自らの思うように振る舞うだけでは、上手くいかない事が多くなり、距離は開くばかりとなる。互いの歩み寄りに最も重要となるのは、自分の思っている事を話すだけでなく、相手の話の分からない部分に触れる事なのではないだろうか。話の腰を折る事を恐れたり、自らの不明を恥じたり、そんな事が先に立って、十分な理解が得られないままに、先に進む事は、更なる苦境に分け入る事となる。歩みを止めて、確認する時間が必要なのではないか。

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3月7日(月)−不変

 自信は自分を信じることから始まる。だからと言って、自分だけが正しいと思う事が、必ずしも良い結果を産まない事は、よく知られる所だろう。当事者が徐々に視野を狭め、一つの事に拘る傾向は何処にもあり、問題を生じる原因となる。岡目八目と言われる所以だが、自信が過信に変わる事にも注意すべきだ。
 新たな試みが表に出る度に、苦言を呈する人々がいる。兎に角、新しいものは悪い兆候であり、多くの人々が振り回されるだけで、害ばかりと切り捨てるわけだ。確かに、新しい事を始めようとすれば、それなりの準備が必要だろうし、実施する際にも、不慣れであれば手間が余計にかかるだろう。多くの指摘はそこに集中し、それによる効果や産み出される結果について、議論が進む事は少ない。反対する立場から見れば、従来通りに続ける事の方が、遥かに手軽であり、無駄が少ないという事なのだが、もし、これが大した効果を持たないものだとしたら、続ける事自体に問題があるとなる。少し、そんな形で考えてみれば、随分違った展開も考えられるのだが、そこでの障害となっているのは、最初に取り上げた「自信」にありそうに思える。現状維持に拘る人々の多くは、自らの能力に自信を持ち、それを続ける事に意味があると見なす。そんな凝り固まった人々に、少しくらいの圧力をかけたとしても、何の影響も及ぼさない。却って、頑になるばかりの人々が、改革の道筋に立ちはだかり、様々な障害が生まれるだけとなる。巻き込まれる事の無駄を排除したい気持ちは、ある程度の理解を得られるとしても、それが狭い考えに基づくとなれば、やはり脇に避けて欲しいと思う。互いに無駄な力を使わない為にも。

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