何故と思える程、大きな声で責任を叫ぶ人、緊急事態にも拘らず、責任問題を引き合いに出す人、推測でしか無いけれど、そういう人の殆どは責任が何たるかを知らず、ましてやそれをとったことさえ無いのだろう。今早速に必要なことの判断ができない人々が、勝手気侭な発言を繰り返す、情報社会の恥部ではないか。
だが、現状を見渡すと、そんな症状を抱えた人々が、歴史を誇る情報発信組織にも巣食うことが判り、単に仕組みの問題だけでなく、長く続いた平和な時代に培われた身勝手な批判のみからなる精神の問題であることが、明らかとなる。責任転嫁とか、無責任とか、謝罪とか、今、そんなことを考える余裕があるのなら、代わりに動くべきことは必ずある。にも拘らず、こんな言葉を発して、溜飲を下げたつもりになる輩に、何の権利も無いことを、強く示す必要がある。こんな事態で、こんなことを書いても無駄なことはよく判っているが、彼らが、この騒ぎに乗じて、下らないストレス解消を繰り返しているだけであることを、明記しておくことは必要だろう。お前もな、と言われることはあり得るが、少なくとも、彼らのようなさもしい精神に基づく発言はしていないつもりである。また、ネット上の常として使われる匿名性についても、以前から書いているように、匿名だからこそ責任のある発言が必要であると思う。自らの名前と地位が明記されれば、それによって得られる責任だけでなく、権利も手に入れられる。その上での発言は、相手に対してそれなりの重みを持つことになる訳だ。だが、匿名では、無名の人間の発言に過ぎず、発言の中身が全てとなる。そんな環境で、無責任な発言を繰り返す人間は、ある意味の狂気にあり、人間性が失われつつあるのではないか。そんなことを好む事自体が、既に病に冒されているということだろう。
一週間経過して、実態が徐々に明らかになりつつある。悲惨な状況を伝える画像に、既に麻痺する感覚が芽生え、どんな印象を抱くべきか混乱する事態となる。様々な場面で、情報の開示を求める声は高まるばかりだが、果たしてそれが正しい道なのか、この状況を思う限り、疑いを挟まざるを得ない。
情報を、情報を、と叫ぶ人たちは、不安を解消する為とか、正確な判断を下す為とか、更には、正しい行動をする為と言い続ける。確かに、誤った情報を基に動けば、判断の間違いを招き、被害を拡大することになりかねない。だが、その情報が正しいとしても、間違った判断を下す人々は沢山いて、所謂パニックに陥る人は数知れずいるのではないか。冷静な行動を導く為の情報の操作を、どれほどの人が非難できるのか、この事態を迎えて、改めて考えることがある。数字の大きさに圧倒され、何の思慮も無く走り出す人々、膨張する似非情報に、振り回され続ける人々、これらの人々に、どんなに正確な情報を提供したとしても、そこから生じる行動には、何の保証も施せないのではないか。この問題を熟慮すべき時期が来ていると強く思うのは、特に、こういった情報を提供する立場にある人々が、平時から不安を煽ることに専心し、正しく情報を解釈できないことが明らかなだけに、そちらの方に更なる不安を抱かされるからである。ジャーナリストと呼ばれる人種が、どれほどの知識を持ち、どれだけの判断力があるかは、全く明らかではない。この連中にも、当然の如く、玉石混淆の状況が反映され、無思慮な意見を素早く出せる人間程、重用された時もある。そんな環境で、情報をそのままの形で提供することには、疑問を抱かざるを得ない。それより、ある程度噛み砕いた形のものを、考えた方が良いのではないか。
平和な時代によく言われたことだが、一流は流石に違う、という言葉の意味を、こんな時だからこそ考えてみたい。特に、運動選手については、体力や技術の問題も当然あるだろうが、それ以上に重要な要素として、集中力の違いが取沙汰される。同じ技術を持つ人間同士、差が出るとしたら、精神力と言われる訳だ。
運動能力では、こんなことは当たり前のように言われ続けてきたが、一般の人々が関わるものでも、同じことが適用されると考えることはできないだろうか。何かしらの差が生じるとすれば、その原因として出てくるのは、集中力の違いであると。時間が足らないと不満を漏らす人々の多くは、そこまで歩んできた道程を顧みてみると、脇道に逸れたり、立ち止まったまま動けなかったり、そんなことの連続であったことが見えてくるだろう。同じ仕事量をこなす場合でも、それなりの能力を有した人々は、無駄な時間を減らし、一時に力を集中することが多い。彼らとて、長時間仕事を続ける能力を有している訳でもなく、体力が桁違いにある訳でもない。単に、必要な能力を短い時間に集めることができるだけなのだ。こんな違いに気付かぬ人は、更なる時間の長さを要求し、無駄なものを増やす傾向に陥る。正常時でさえ、こんな状況の人々が、緊急事態に追い込まれた時、また再び、同じ行動を起こす訳だ。何を先に置かねばならぬか、順番を自然に考えられるか、そんな所で発揮される集中力は、突然湧き出る筈も無く、ただ漫然と秩序を失った行動を繰り返す。緊急時だからこそ見えてくるこの現象が、実際には平時からその姿を見せていただけで、それに気付かぬ人が多いことに問題がある。次の機会こそ、と思う人々が多く出てくることを願うのみだが。
私たちの思いを代弁してくれる、と思って応援していた人もいるだろう。気っぷの良さに好感を抱いていた人もいたかも知れない。だが、今、この窮状で意味不明な言葉を連発し、批判の態度を強めるばかりとなる人に、冷たい視線を送るしか無い。建設的な意見が出せず、ただ罵詈雑言を浴びせるしか無い人間を、何時まで放置するのか。
生活に余裕がある時には、違った見方をしていた人もいるだろう。しかし、災害に巻き込まれたり、将来に対する不安を煽られるのではなく、真の意味で抱き始めた人々には、彼らの声は違う形で響き始めた。解決の糸口を見出す必要が、喫緊の課題として出てきた際に、その存在に反対の声を唱えていた人々は、何の役にも立たないことが明らかとなる。危険が迫っている時に、危険性を訴える声が聞こえたとしても、それを避ける手立てが見えないことは明らかで、平和な時代とは事情が異なってきた。知識の豊かさが問われる時に、同じ言葉を言い続けるだけの人間は、無用の長物としかならない。既に、彼らは舞台の袖から去っていったが、同じように、理解力も適応力も無いにも関わらず、依然として、舞台に立ち続ける人間たちがいる。昔からのお馴染みさんである人々は、放送局にとっては使い易い人間として、重宝がられてきた訳だが、彼らの口から出る言葉は、平和な時代と変わらず、意味を成さないものであり続ける。無知蒙昧を曝け出しても、批判を続けることが役目とばかり、下らない言葉を吐いているが、得意とする煽りや不確実な情報を基にした話に、批判の的となりつつあるのではないか。味方となっていた人々にまで見限られたら、彼らに帰る場所は無い。
これ程の混乱の中、整然と動く人々に、他の国々の人々は感心頻りと聞く。だが、外国に伝えられる情報とは異なる、大混乱を伝える情報に、当の本人たちは何を感じるのか。混乱の極みに追い込まれた人々が、その窮状を訴えるのは当然として、全然別の場所で、根も葉もない情報に惑わされ、買い物に走り回るのは、どうしたものか。
多様性という言葉を、こんな状態に当てはめることは、的確な表現とは言えないだろう。しかし、人それぞれに考えが違うのは当然とは言え、これ程の群集心理を、このようなことが起きる度に見つめさせられるのは、どうしたことかと思う。渦中の人々が、羨望の眼差しで見つめられる程、落ち着いた行動を徹しているのに対し、大した被害を受けなかった人々が、論理性の欠片も無い行動を繰り返すのは、この国の人々の特徴と見なすべきなのかも知れない。厳しい状況に追い込まれた時には、火事場の馬鹿力の如く、期待以上の力を発揮する。窮状に陥ったときのこのような行動は、60年余り前の国中が混乱の極みに落ち込んだ、あの時を思い出させるようなものだ。もしそうならば、ならず者の馬鹿げた行動が何を起こすかではなく、いつの間にか力を回復し、その後の発展を経験したあの時代を思い起こすべきかも知れない。悲惨な状況に負けること無く、明るい未来を夢見て、日々の努力を積み重ねた、当時のことを思い出すべきだろう。悲劇的な筋書きに飛びつくばかりで、何の努力もしない人々でも、ここまで追い込まれたら、また違った考え方をし始めるかも知れない。だが、暫くの間は、例の人々の愚行は繰り返されるだろう。知らないふりを決め込むことにはしているが。
批判するのは簡単なのだが、本当にそれだけで良いのか、すぐには結論が出そうもない。様々な不手際が重なり、徐々に窮地に追い込まれて行く姿を見ると、救いの手を差し延べるべきなのか、はたまた、厳しい批判の矢を射るべきなのか、迷いが無いと言えば嘘になる。
想定の話もそうだろうが、企業として当然と思えるフェイルセーフと呼ばれる準備も、悉く的外れのものとなり、どうにもならない窮地に追い込まれている。公的な役割を重んじて、様々な便宜が図られたこともあるが、その一方で、責任は重くのしかかっていた。その中で、安全という二文字を見失わないように、様々な工夫を凝らし、策を講じてきたと言われたものが、こうも簡単に崩れるとは、流石に予想できなかったのだろう。その後の手当てに関しても、一つ一つが的確性を欠いたものとなり、いつまでも見通しが立たない状態となる。このような姿勢で、重要な役割を果たすことができるのか、不安視する声は高まるばかりだろう。要求が高すぎるという声がないわけでもないが、命を預かる立場となれば、過ぎるということも言い難いものだろう。計画と称する無計画とも思える措置も、見方によれば、最善を尽くす為のものと映る。だが、最善が重箱の隅にしか適用できないのであれば、公的な仕事とは受け取り難いものとなる。この繰り返しが、危機管理という観点から、全てが最善を尽くしたものと結論づけられることはあり得ないだろうが、それにしても、これだけ想定外のことが起きても、この程度で済んだのだからと後々言われるようなら、結果として良かったということになるかもしれない。そんな所が結論づけられない事情だろうか。
想像を絶しているのか、はたまた想像力が欠如しているのか、目の前で展開される惨状に、言葉を失う。千年に一度の災害とも言われ始めているようだが、人間の記憶や判断は、自分の経験に精々二つか三つの世代を加えた程度にしか及ばないから、こんなことも当然なのかもしれない。
次々に明らかになる状況に、たとえ実際の映像を見せられたとしても、画面の向こうの光景は、何処か他所の次元の話のようにしか見えない。作り物の映像が、これまでに何度も流されていたが、それとは全く違う現実がそこにある。ただ、その現実でさえ、頭の中の処理では消化できないものとなり、また考え込んでしまうだけのようだ。こちらは、天災としか言い様のないものだけに、どんなに悲惨な状況も、ある意味受け容れるしかないこととなるが、これまでにもその存在が不安視されていた施設の話は、どう考えても、人災としか思えないのは何故だろうか。あれほど安全性を強調し、あれほど何重にも積まれた危機回避の仕組みが、何故、これほど簡単に崩れてしまうのか。本当の実態が明らかになっていない時点では、どんな推測も成り立つ訳で、それを簡単に不十分な対策と断言することは、できないかもしれない。ただ、少しだけ流されて来る情報からは、信じ難い状況だけが見えて来るだけに、更なる批判が高まることは割けられないだろう。国土のあちら側とこちら側で起きた地震により、同じ企業が稼働する発電所が、緊急停止に陥った。そこまでは想定通りだったのだろうが、その後の展開は予想外のものとなり、様々な手立てが施されているものの、まだ楽観できないという。何とか終息することを願うのみだ。