白い蕾が綻び始めている。これまでにも何度か取り上げたが、毎春の出来事として、その花たちは季節が来たことを知らせている。どんなことがあったのか、植物たちも知っている筈だが、彼らには悲しみや苦しみという感情は無いように見える。被災に遭った人々は、こんな花たちをどんな気持ちで眺めるのだろう。
津波に襲われた地域でも、海辺に近い所は泥を被ってしまっただろうが、高台にある植物は揺れで倒れなかった限り、生き延びているだろう。放射性物質の汚染が広がる地域でも、人間たちの避難はかなりの深刻さで伝えられるが、動けない植物たちには選択の余地はない。近くには、春に咲く花の中で、この国では最も有名なものの、その中でも名の売れた樹が立っている場所がある。春という文字が含まれる地名に、何とも言えない繋がりを感じるが、その地も混乱に巻き込まれているに違いない。彼の樹の花たちも、暫く後には綻び始めるだろう。それらを眺められる頃には、果たして、今問題となっている事柄は、片付いているのだろうか、どのように展開しているだろう。被害に対して、大きな不安が漂っているようだが、それに対して、何か考えられることは無いのだろうか。規模も目的も、何もかもが違っているとは言え、この国は六十年以上前、現在恐れられている物質と同様のものに、覆い尽くされた地域があった。彼の国の科学者たちは、回復に要する期間を五十年と推測したが、既に翌年には、草木が芽生え始め、人々は安堵したと聞く。事情が大きく違うだけに、軽々に判断を下すことはできないが、生き物たちの営みは、人間の浅い考えとは違う深みをもっているのではないか。
今回の自然災害に巻き込まれた地域は、30年程前にも同じような震災に見舞われた。揺れそのものの被害に殆ど限られた過去のものと違い、今度はその後に襲ってきた波に大きな打撃を受けることとなった。この位の時代の差だと、両方を経験した人も多く、受けた衝撃とその後の展開の違いに気付くようだ。
被害の大きさの違いは、津波に襲われた部分を除けば、それほど大きくはないらしい。とは言え、全体としてみれば被害は甚大であり、そこに目を奪われたとしても致し方ない所だろう。目の前に現れた被災地の惨状に、体が冷える感覚を覚えた人もいるだろうが、それもまた当然の反応と見るべきだろう。他方、以前の地震との違いを指摘する声は、その被害の大きさではなく、その後の対応の違いに集まる。30年以上前の出来事では、被害の大きさに圧倒されるばかりで、震災後の対応は無いに等しいものだったと言われる。混乱が続くばかりで、復旧に必要となる物資の輸送や公的機関の動きは鈍いままとなった。それに対して、20年前の別の場所での震災をきっかけとして、様々な知恵が集められた対応策は、今回の場面でも効果を発揮し、大きな衝撃を受けた人々の心に、回復の力を与えるものとなった。本当の回復には、まだ長い時間がかかるだろうが、初期対応の迅速さは、そこにも効果を現すに違いない。だが、それとは別の場所に、別の形の不安が影を落としていることは、そろそろ話題になり始めている。不安を膨らませる作用は、数多あるのに対して、それを萎ませる作用は、ほんの一握りしか無い。工業生産に光が射さない状況に、様々な声が届くが、これも又、数年前の地震で部品供給が止まった時のことを考えてみたらどうか。一時的とは言え、先の見えない時期を経験した人が多いだけに、こんな状況も打開の見通しを見ているのではないだろうか。
数値は何らかの意図的操作を施さない限り、誰が見ても同じ意味をもつ筈である。しかし、人の目に触れる数値の多くは、収集されたままのものではなく、何らかの整理をした上でのものだから、それ自体に全幅の信頼を置くことは難しい。一方、誰の目にも同じと映る筈の数値が、全く違う解釈を受けることも多い。
数字は絶対的なものと信じ込む人は多いが、自分たちがその多くを相対的なものとして見ていることに気付かない。人の感覚は比較によって生じることが多く、例えば、35℃の水は、20℃の水と比べれば暖かいが、40℃くらいの風呂の湯と比べると冷たく感じる。35℃という温度は、数字としては絶対的なものだが、人間にとっては何と比べるかで暖かいとも冷たいともなり得るのだ。今巷に溢れている数値も、絶対的な評価を施すものと、相対的な感覚で理解するものがあり、その間で揺れ動く心理は、複雑な様相を呈することとなる。情報と呼ばれるものも、数値自体が意味をもつ場合と、その解釈により意味をなす場合があり、単純に一括りにできないものではないか。問題は、解釈がそれをする人間によって、様々に異なることであり、それを頼りにする人々にとっては、一喜一憂どころか、右往左往させられ、心理的な不安定だけでなく、身体そのものに影響を与えることとなる。無責任な人々の発した、如何にも心を揺さぶる言動が、その衝撃的な内容から、次々に伝えられ、恐怖が伝染したことは、随分明らかになりつつあるが、これは解釈の主の違いが、全く違う反応を導くことを示している。本来は、信頼に値する人の発言こそが、伝えられるべきものと思えるが、窮地に追い込まれた人々には、それとは違う価値判断が下されるようだ。海外と国内の報道内容の違いも、ひょっとするとそんな所に根っこがあるのかも知れない。
情報を欲している時に、依然として分かり易さを求めるのは何故か。理解する能力と言ってしまうと明らかな言い過ぎになるが、理解の助けになる筈の正確な情報も、それを冷静に分析する力を持たなければ、殆ど役に立たない。ある面で安心を求め、別の面でその保証を求める。鵜呑みで済む前者と違い、後者は理解力が必要となる。
これ程当然と思える事柄なのに、依然として要求を高めるだけの話が増え続ける。既に将来の展望を求める声までが起こり、その為の牽引力を欲する意見に反対はしないが、先に書いたこととの両立は流石に難しい。「安全」と断言すれば安心する人がいる一方、それに疑いを向ける人々は更なる説明を求める。だが、そこに現れる数値に、目が泳ぐ人々に対し、どんな情報が必要なのだろう。信じる心を失った人々に、どんな言葉も届きはしない、とは何度も言い古されたことだが、誠意という心情を、この場面で求めることに些かの疑問を抱く。相手に求めることばかりに終始した人々は、この状況でも同じ行動様式を維持し続ける。鵜呑みと表現すると、恰も馬鹿げた行動のように受け取られるが、信頼と表現すると、全く違った見方が適用される。実際には、結果が同じだとしても、そこにかかる力の大きさを考えると、ここでは説明を省いてでも、確かな「安全」を伝え、それを受け容れることが必要なのではないか。情報を吟味する力について、これまでに何度も書いてきたが、こんな事態に陥った時こそ、その力が発揮される。備わった力によって、その数値の意味する所を汲み取り、「安全」を確認する。不安に駆られて、それさえもできなくなった人に、どんな情報が意味を持つのか、本当に考える必要があるのだろうか。長と呼ばれる人々は、それぞれの責任において、組織の構成員に対して、説明をする必要がある。他に助けを求めたり、他を批判することでは、その責任は果たせるものではない。ましてや、情報に責任を被せるなぞ、馬鹿げたことに思う。
海の向こうの有名大学の教授が、魅力的な講義を行うのが取り上げられ、わざわざ呼び寄せてまで見てみようとする姿勢に、疑問を抱いた人も多いだろう。その魅力が本人だけでなく、参加者にも起因することに気付いた時、安易な飛びつきを繰り返す人々は、立ち去らざるを得ない雰囲気に包まれている、相も変わらず。
彼の手法は、あくまでも参加型、会場の反応がなければ成り立たない。その為と思えるのは、話題の取り上げ方で、身近な対象であるだけでなく、二者択一的な展開に拘る。白か黒か、本来ならば灰色ばかりの世界で、二極化を強いるやり方は、考え易さが高まる割に、割り切れなさが残る印象を否めない。自らの人生やその為の選択を天秤にかけることは、誰にとっても愉しいことではない。しかし、時にはそれを迫られる場面が訪れ、究極とも思える決断を下さねばならない。その準備とも思える論理展開は、馴染みの無い人間にとっては、目新しいものであり、視野の広がりを意識できる。だが、それが机上の論理でなく、現実のものとなった時、自らの無力さに気付かされることとなる。この震災においても、そのような選択は数多あり、結果として、ある部分の引き上げが、別の部分の切り捨てに繋がることもある。人間性を意識し、弱者保護を主張する人々には、弱者の絶対的な存在のみが見えている。その為、彼らを救うことが他の人々にどんな影響を及ぼすかは、問題外にされることがある。一人の不安を取り除くことが、多数の不安を招くことに繋がるのに、気付かないのだ。この選択は、始めに取り上げた講義の中での展開と似ており、一つきりの要素しか考えないことの誤りに気付かされる。天秤を冷徹な決定とするのではなく、様々な要素を汲んだ上での決定とすれば、何が重要なのか、本当の姿が見えてくる。
これまでも散々扱き下ろしてきたが、不安を煽り続ける人や組織の態度には、目に余るものがある。こんな批判をぶつけると、不安を抱く人が悪いとの反論を返すに至っては、人間性を疑うだけとなり、彼らに災難が降り掛かっても、見て見ぬふりを決めつけてしまいそうに思えてくる。相手にしないとばかりに。
何故、人間は不安にかられるのか、との疑問には、それによって生き延びてきたから、と答えるだろう。ヒトという種が、これ程の繁栄を築くに至った理由は、全く別の所にあるだろうが、そこまでの過程で、種の存続を保証したものの一つとして、不安に基づく行動が挙げられると思う。不安と聞くと、悪い印象ばかりを思い浮かべる人も多いだろうが、実際には、これから起きる事象について、様々な可能性を検証する際に、不安という要素は非常に重要なものとなる訳だ。その意味で、生き延びるとか生き残るとか、何かしらの災厄が降り掛かった時に、人それぞれとは言え、様々な行動を導くことで、集団として誰かが残る作用が働いていたのだろう。そんな形で、先天的に授かったものを、何か馬鹿げたもののように扱う人も、それを煽ることで悦びや快楽を得る人も、人間として扱う必要の無い輩と言える。本当に不安にかられているのであれば、すぐにでも逃げ出すべき状況で、画面の向こうで不安を煽る言動を繰り返すのは、明らかな矛盾を来している。こんな連中の罵詈雑言に耳を傾ける必要は無いし、その姿を眺めるのも時間の無駄に違いない。逆に、不安を解消させようと言葉を尽くし、楽観的な見方を勇気を出して披露する人々に、嘘吐きを見るような視線を向ける人々は、本当の偽善者に乗せられているだけということに気付くべきだ。今、一番肝心なことは、人の言葉をまず信じて、自らの判断を下すことで、たとえ偽善者の言葉でも信じた上で、唾棄すれば良いだけのことだろう。
見えないものの汚染に対して、恐怖を抱くことを馬鹿にしてはいけない。こんな事態になったから、誰もそんなことは思わないだろうが、ついこの間までは、不安を抱かせることはあっても、それを取り除く努力はせず、恐怖を抱く人間たちを放置してきた。その心理の難しさに目を向けることの無いままに。
放射能という言葉が一人歩きし、常に恐怖を抱かせてきたことは、この国においては事実だろう。だが、この言葉のもつ怖れの意味とは別に、様々な誤解を産む原因となっている部分に、もっと目を向けたらどうだろう。今話題となっているのは、放射線と放射性物質となり、放射能という言葉は、かなり意識的に使われにくくなりつつある。それでも、一部の人々は使い易さと馴染みを理由として、使い続けているようだ。始めの話に戻し、汚染の問題は、何が大きな問題となりつつあるのか。原子炉が発生源となる放射性物質は、自然界には殆ど存在しないと言われる。それが測定された時点で、汚染が広がりつつあることは事実であるが、問題がその量にあることは、余り取沙汰されないようだ。確かに、原子力行政により、漏れが全く無いことが目標となり、頭の固い人々は、このような事態になろうとも、同じ水準を求める訳だから、どうにも動きようが無いのだろうが、危険性の程度を考える上で、どのような順序を置くかをまず考えるべきではないか。20年余り前の、歴史上最悪の事故の後に、欧州各国では乳製品と葉物の摂取を控えるように言い渡した。これと同じような事情が今起こりつつある。それに対して、どう処すべきかは人それぞれの判断としか言えない。恐怖を抱く人を引きずってでも、体験させるなどというのは馬鹿げたことだろう。要は、自分の思う所を進めるだけなのではないか。