パンチの独り言

(2011年3月28日〜4月3日)
(分担、経過、感情論、興醒め、心機一転、転福、自粛)



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4月3日(日)−自粛

 春を迎えることに喜びを感じない人はいないだろう。四季の移ろいがはっきりしており、季節の変わり目ごとに気分の変化が訪れる。中でも、暗く冷たい冬が終わり、明るく暖かい春を迎えるのは、毎年のこととは言え、少しずつ違った感覚を抱き、その度に生きる悦びを新たにする。この国に住む楽しみも含め。
 暗い話題が続き、先行きへの不安は以前と比べられぬ程高まる。こんな状況では、歓喜という感覚は鈍り、明るい話題をもつことさえ憚られる。そんな中から、自粛という話が出てきたのだろうか。確かに、生き延びることさえ大変な人々を前に、自分たちだけの楽しみを享受するのは、感情を逆撫でしたり、失礼という言葉さえ浮かぶのかも知れない。しかし、人々の感情がどのように打ち拉がれても、春の悦びはそこに来ているし、それを迎える心の高ぶりは、簡単には抑えられないものである。平等という感覚が、何かこういう場所にも広がり、差別的な感覚を持たされるのは、何故かと思う部分も大きく、こんなときだからこそ、日頃の鬱憤を晴らし、一時の享楽に浸ることも必要なのではないか。様々な式典が自粛される中で、節目を祝う卒業式は、各地の避難所で開催された。新しい始まりの為の式は、不要なものとも思えるが、一つの時代を終える為の式は、少し違った感覚を抱かせる。色々な別れがある中で、こんな形の催しも重要な役割を持つ気がする。復旧に向けて日々の努力を積み重ねることは、今の時点での最重要なことであることは確かだが、だからと言って、そうでない部分を全て削り落とし、何事にも我慢の精神を貫くのは、どんなものだろう。喜怒哀楽は、それぞれが組み合わされてこそのものであり、一つに落ち込むのは余りにも危険なのでは。

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4月2日(土)−転福

 独り言の表紙とも言えるこの頁には、三週間分の呟きが並んでいる。大災害が起きてから既にそんな時間が過ぎたのかと思えるが、この間、ずっと同じような話題が並んでいることに、表現し難い感覚が芽生える。それだけ大きな衝撃があったと言えばその通りだが、果たしてそれだけのことなのか、簡単には言えない。
 これ程の震災だからこそ、心的衝撃は大きいのが当然だろう。ブログなるものを書いている人たちも、心の整理がつかない為か、カレンダーに隙間が空いたものが目立つ。情報不足を訴える人がいる一方、種々雑多なものが次々に持ち込まれ、好むか好まざるかに関わらず、情報の洪水に巻き込まれてしまった人も多かったのではないか。中には、偽情報に振り回され、その対応や批判に力を注いでも、その正体が知れた途端に、心に虚ろな穴があいてしまう。始めの衝撃ばかりでなく、次々に降り掛かる災難に、どう向き合うべきかを悩む人もいる。他人の言い分を鵜呑みにし、自分なりの考えを施さずに来た人々は、こんな事態に巻き込まれた時、どんなことを思うのだろう。信じるべき対象を失い、力を得る方法を見失う。こんな人々も、震災の被害者と見るべきだろうか。一部の人が言い始めていることだが、こんなに大きな変化があったからこそ、自分だけでなく、色々なものを見直すきっかけを得ることができた、という話がある。災難を次への糧に結びつけるかは、あくまでも個人の資質に依存するものだろう。危機を機会に繋げるとは、言葉では簡単に書けるものの、実行に移すことは難しく映る。そんなことを考える人々は、平時の指南書に書いてあることに従い、他に助けを求めるのかも知れない。だが、何もかも無くしたからこそ、一から出直せると見れば、意外に気楽に臨めるかも知れない。こんな所にも、考え方次第のものがある。

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4月1日(金)−心機一転

 慌ただしい毎日が過ぎていくが、それでも節目を迎えると、何か違った考えに思いが及ぶ。年度の狭間で、本来ならば次への準備とそれまでの整理に向けられるべき時期が、全く違ったことに忙殺されることとなった。引き継ぎが必要なことも、新たな展開に向けて準備すべきことも、多くが棚上げ状態のようだ。
 それでも、その場に居続ける人々に関しては、時期のずれといった程度の感覚しか無いのかも知れない。それに対して、この時期が新たな出発に重なった人々は、予想以上の変化に立ち向かうこととなる。元々不安を抱きながらの旅立ちが、更なる要素を加えられることで、どのような影響が及ぶのか、見通しはつかないだろう。だが、こういうことがあったからこそ、全く違った経験ができ、それが将来の糧となることも考えられる。不安に感じることを優先するより、新たな経験を楽しむことに集中する方が、遥かに有益であると思うが、当事者にしか感じられないことも多く、軽率な助言は慎むべきだろう。どちらかと言えば、当事者たちの感覚がどういった変化をするのか、それを見守ることの方が重要で、それなりの関わりを維持することが、周囲の人間に課せられた役割ではないか。新しい環境という圧力だけでなく、社会全体の不安という圧力が加わることで、人々の精神安定は乱されるかも知れない。当然と見るかどうかは別として、当事者だけでなく、周囲の人々もそれなりの心の準備が必要となる。危機と呼ぶ程のことは無いかも知れないが、個人差も含め、それなりの心構えが要るのかも知れない。

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3月31日(木)−興醒め

 責任ある立場の人々は、窮地に追い込まれていると言われる。しかし、その様相は同じではなく、人それぞれ、立場それぞれに異なっているのは何故だろう。責任を追及することを馬鹿の一つ覚えのように繰り返す連中にとっては、同じ獲物にしか見えていないのだろうが、責任者たちは食われるに任せている訳ではない。
 組織の長は、事情によるとは言え、それなりの収入を得ている。一般の構成員に比べたら、日々の仕事の量が必ずしも多くないのに、そんな高収入は異常だと指摘する人もいるが、こんな事態に陥った時に、その意味が見えてくるのではないか。敵前逃亡をするのでは全く無意味だろうが、敢然と立ち向かう人々は、組織の長としての責任を果たそうとする心理が働いている。高収入だから、という理由は存在せず、ただ、責任感から動くだけなのだろう。その人々がしてきた行動の中で、評価されるものもあれば、評価に値しないものもある。明らかな責任転嫁は、自らの立場を理解せず、相変わらずの平和ぼけのようなものに見えるが、放置する必要も無く、さっさと首のすげ替えをすれば良いだろう。簡単に置き換えられるものなら、すぐに断行すれば良いし、選挙などの手続きが必要ならば、次の機会に行えば良い。だが、その一方で、今早速に進めなければならないものを棚上げするように、責任問題ばかりを取り上げるのは、明らかな間違いであることを理解すべきだ。放送局の主要な人々が集まって、そんなことを議論する番組があったそうだが、視聴者から諌める便りが届き、鼻白んだようだ。こんな姿勢の人々には、何が大事かを理解することはできない。責任ある立場の人も含め、毎度お馴染みの茶番劇に陥らないように、真剣に取り組む必要があるのではないか。

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3月30日(水)−感情論

 人気を博す為には、感情に訴えるのが早道、との考えは浸透しているようだ。大災害、緊急事態、何でもかんでも、感情論が優先されている。悲惨な状況を目にして、冷静さを保つことが難しいのは当然だが、だからと言って、そこだけを見て判断を下すのは、付け焼き刃的な対応にしかならず、後々の手当が必要となる。
 規制をかけることは、秩序を守る為に必要と受け取られる。混乱が生じている最中に、秩序が保たれるかは、全ての人々にとって重要な事柄に違いない。だが、その秩序が一部の人間に対して、圧力をかけるような結果を招くことは、屡々起こりうる。こんな時に下される判断は、秩序を保つ方向に動いて欲しいものだ。ところが、感情に流され易い環境では、これとは違った論法が罷り通ることも多い。可哀想という思いは誰にもあるが、その場の感覚だけで判断して、更に被害者を増やすような手当を施すことは、避けるべきだろう。規制をかける為には、その根拠となるべきものが無ければならず、その際に煩雑な手順を追ったに違いない。そこでの根拠は、その時点での最適なものとされた筈だ。だが、少し事情が変わったからといって、すぐにその変更に手を付けるようだと、そういった手順の意味が無くなるのではないか。そこにも大きな問題があるのだが、もっと大きいと思えるものは、規制による恩恵と被害といった感覚ではないだろうか。天秤の話は以前にも紹介したが、ここでも一見冷たく見える天秤が登場する。釣り合いを取ることこそが秩序を保つ唯一の手段だとすれば、こんなことは当然の成り行きだが、それを許さない環境が感情を背景とした所から出ているように思える。

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3月29日(火)−経過

 問題を解決する為には、何が問題かを取り上げねばならない。その理解の無いまま、ただ漫然と目の前の問題を片付ける姿勢では、真の解決には向かえず、無駄な力を使うだけとなるだろう。課題を見出すことが重要であるのは、こんな考え方から来ているのではないか。数多ある中から、重要度順に並べて。
 情報伝達において、問題や課題を取り上げることは、その役割の中の大きな部分を占める。報道の姿勢は、まさにこういった考えに基づいており、次々に問題を取り上げていくことが、大事となる訳だ。その情報を基に、先の施策を決めていくことや一般の人々が手を差し延べるものが出される。これはこれで重要な事柄であり、その役割自体を無駄なものというつもりは無い。ただ、これが何度も繰り返されることには、問題があるように思う。次々に噴出する問題点を整理しつつ、片付けていくことは当然の方法であり、そういう過程でしか、問題解決は望めないだろう。だが、続出する問題に目を奪われているだけでは、それが解決したかどうかの検証は行えず、中途半端な手助けの連続となりかねない。取り上げる理由の一つは、その解決が喫緊の課題であるからであり、手を付けたからには、何かしらの光明が見えねば、意味が無いのではないか。その観点から、この所の情報伝達においては、課題ばかりが山積し、それが一つも解決していないような気分に陥らされる。不安を煽ると批判されることも、こういった姿勢から始まったものであるように見え、後日談でも良いから、解決したもの、あるいはその経過などを知らせる意味は、大きいのではないか。騒ぐばかりの人々には、そんな落ち着きは感じられない。

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3月28日(月)−分担

 情報の公開を求める声は高まるばかりである。隠蔽を疑う目が増え、何も信じられなくなった人々は、確かなものを求めているようだ。だが、その一方で、安全ではなく安心の一言を欲する人がいる。一見、同じ線に沿っているように見えるが、そこには全く違った心理が働いている。嘘の有無に拘るかどうか。
 こんな書き方をするから、また疑われるのだと思うが、実際には、安心に繋がる言葉には、そこにある事実の一部を取り上げ、それ以外を排除するという手順が含まれる。情報が欲しいと訴える人の多くは、現実には、悲惨な状況を知りたいのではなく、安心できるものを知りたいのだろう。そんな心理を逆撫でしたり、それに乗っかって批判を繰り返すことは、こんな事態だからこそ控えるべきだ。混乱の中で、情報を希求する声を拾い集めた結果、少しずつ整理されてきたような気がする。そこには、正確な情報を公開する、事態を把握、分析し、対策を講じる、住民に対して説明をする、といった三段階が現れてきたが、これこそが役割分担を必要とするものではないだろうか。測定結果などを知らせる役は、それを行うことができる専門家に任される。しかし、彼らが自ら得た結果を分析し、対策を講じる必要は必ずしも無い。それより、別の観点からの分析や、様々な可能性を考慮した対策を編み出す力を持つ、別の専門家集団が必要となるだろう。彼らには、リスクと評される危険度を天秤にかけ、何を優先するかの判断も必要となり、科学的な知識だけでは不十分となる可能性が高い。そこから出された結果を、住民に伝える役割は誰が負うのか。この所、首長の発言に違和感を覚えることが多くなっているが、この場面で活躍すべきは、彼らしかいない。信頼を勝ち得て、その任に当たる人間こそが、対策の何たるかを理解し、それを安心に繋げる説明に結びつけねばならない。

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