パンチの独り言

(2011年4月4日〜4月10日)
(真価、呪縛、平穏、装飾、改悛、自粛、不見識)



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4月10日(日)−不見識

 情報伝達の手法が変わり、市井の意見が目に触れる機会も多くなった。様々な意見の存在を知ることは重要だが、人気投票のような仕組みでは、奇を衒ったものや極端なものばかりに注目が集まる。異なる考えに触れることで、自らの思いを改めることも、種々雑多なゴミの山では、叶わぬ夢かも知れない。
 そうは言っても、この機会に色々な所を覗くのは、何かの役に立つのでは、との思いから、ある鍵を使いながら、数人の意見を眺めている。鍵の特殊性から、一部の領域に限られていることは否めないが、それでも、彼らが拾い集めた情報は、興味を抱かせるものであることもある。ただ、その一方で、こんな分野の人間でも、この程度の考えにしか至らないのかと、落胆することも多く、おそらく長続きはしそうにも無い。これは仕組みの問題というより、この社会が抱える問題だろうが、社会の問題についても、考えさせられるものがあった。ある新聞の識者の意見を取り上げたものだが、リーダーの不在を嘆く意見で、その育成の重要性を強調していた。教育の場にいるツイッターの主は、この意見に同意とのことだが、見識の無さを感じさせられた。識者の意見は正論なのだろうが、その背景にあるものへの思いが感じられず、相も変わらぬ批判姿勢は、彼女のこの所の動きからも、信頼を得るものとは思えない。育成の必要性は当然であり、今更指摘されるものではない。その不在の原因を、育成の不備に押し付けることに、的外れという印象が強まる。人気を得ることに終始する仕組みには、何の責任もないのかと思うが、それに付いても、自らは指摘したと彼女は言い返すだろう。だが、国技とまで言われたものの崩壊状態に、ついこの間まで関わった人の意見となれば、無能ぶりを思うだけである。そんな人のご高説に同意する、教育現場に身を置く人間の考えなど、無価値と見るべきに思えてくる。

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4月9日(土)−自粛

 人間社会がどのような状態にあろうとも、季節の変化は訪れる。穏やかな季節の訪れは、咲き乱れる花々の姿に現れ、普段ならば、それを楽しむ人々が集う筈だ。だが、今はそんな気分になれないという人が多く、何とも寂しげな光景が続いている。気分の落ち込みが大きいことは判るけれど、これで良いのだろうか。
人の不幸を目の前にしながら、浮かれるのは慎むべきとの指摘は、その通りかも知れない。しかし、落ち込んだ気分を立て直す為に、何かをすること自体に、何か悪いことがあるのだろうか。自暴自棄になって、何かしら悪いことを繰り返すのは、全く間違った方向への、欲求不満の解消にしかならないが、ある程度秩序を保った上での、楽しみであるのなら、それはそれで良いことなのではないか。季節の変化を楽しみ、生きる喜びを感じる。そんなことから、毎年続けられてきた催しも、この混乱の中で、自粛を余儀なくされている。自粛とは本来自主的なものであり、外からの力によって、強制されるものではない。だが、この所の動きには、強制とも思えるものが数多くあり、首を傾げたくなるものもある。元々、どんな催しでも、全ての人々が満足できるものは少なく、毎年、苦々しく思いながら眺めていた人もいるだろう。だが、その反面で、催しを首を長くして待ち焦がれ、一時の悦びを享受する人々も多い。配慮とか気遣いが無用とは思わないが、それぞれに目的を持ち、それぞれに効果が上がるものであれば、それを続けることの意味はあるのではないか。皆で落ち込むことは、必ずしも良い結果を産むものではないだろう。華やかな春を楽しむ心まで奪われては、悦びを得ることができなくなる。

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4月8日(金)−改悛

 大きな衝撃を受けたことで、それまでの行為を悔い改め、新たな道を歩み始める。更生と呼ばれる過程だが、今の混乱に当てはめようとする人がいる。傲慢な活動が、自己崩壊を招き、長く続いた閉塞感から、不安と不満だけからなる時間が続いた。これを機に、全く違った考え方が現れるのでは、という期待からだ。
 そんな話を聴いて、まず頭に浮かんだことは、その為に必要なことは何か、ということだ。確かに、十分な衝撃があり、それなりの変化の兆しが現れた。だが、それが更に大きく膨らむ為には、小さな変化が無数に積み重なる必要がある。これが一方的に進めば、大した時間も手間も要らないが、行きつ戻りつという形になると、ほんの僅かな変化が長続きしないと難しくなる。その中で最も重要な役割を果たすとしたら、それはやはりマスメディアということになる。良きにつけ、悪しきにつけ、様々な影響を及ぼした組織は、明るい未来を築けないまま、不平不満を膨張させることに終始してきた。それが僅かな変化を見せたのは、冷静な解説という昔懐かしい手法が、困難な問題を報じる際に使われた所にある。正確な情報を、なるべく分かり易い形で伝えることは、報道機関の基本であり、それを忘れた人々が、どれほどの悪影響を蔓延させたか、漸く気付いたかのように見えた。だが、難航する復旧作業や次々に噴出する難問に、痺れを切らしたかの如く、批判的な論調が復活してしまった。この変化に気付かぬ人が多いだろうが、解説に徹する姿勢と問題点を指摘する姿勢には、大きな違いが現れる。正確な理解を必要とする解説と違い、悪い所を示したり、駄目だしをする為には、何の理解も必要ではない。ただ、駄目といえば良く、解決策を示す必要も無い。この安易さから、長年続けてきた愚行に戻り始めたことは、ある期待が裏切られつつあることを意味するのでは。

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4月7日(木)−装飾

 直後の混乱から、的外れな批判を続けた所が多い中、冷静な解説を施すことに終始し、その変化を好ましく思った人も多いと思う。情報提供において、何が重要なのかを改めて考えた人もいて、そこからすれば、様々な思惑を貼付けたものより、ただ単純にそのものを流すとともに、判りにくい部分を補うことが当然となる。
 ある時代まで報道機関の姿勢は、伝達を主とするものだった。世間で何が起きているのかを知る為に、これらの情報は大いに役立っていたのだが、そこにはある判断が必要とされた。つまり、流れている情報を吟味し、そこから自らの判断を決めるという過程が必要であり、それによって、自分の態度を決めていた訳だ。これが当然として受け入れられていた時代と、今とはどのように違っているのだろう。報道番組がある程度の視聴率を維持することは、ごく当たり前のものと思えるが、その至上主義が蔓延るに従い、当然のものを更に高める手立てが下されることとなった。報道記者の一人が、番組の全てを仕切るような立場に抜擢されたり、所謂司会者が、ある日突然あらゆる事柄の情報通として画面に現れた。人々が自らの知識と能力を最大限に活かすことに対して、誰も否定的な見方をできないものだが、こんな変革の結果、情報伝達過程に大きな変化が訪れることとなった。それは、正しい情報をそのままの形で伝えることよりも、少しくらい歪曲してでも分かり易く伝えることの方が、注目を浴びるとの判断から来る。正しい情報を伝えた上で、分かり易い解説を加えるという姿勢は、どんどん影が薄くなり、同じような手順を追っているように見えて、元の話が見えなくなるような形が普通になってしまった。前と後を知る人には、その違いが区別できる筈だが、後しか知らない人間には、この報道姿勢が正しいものと映る。混乱の中から生まれたと思われたものは、実は元の、そして真の姿に戻っただけなのだ。

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4月6日(水)−平穏

 大きな変化に対しても、秩序を乱さない行動には、強い精神力が必要と、評価した根拠が崩れ始めたと伝える声がある。正反対の解釈は、精神力の弱さから新たな行動を控えただけというものらしく、手の平を返した如くの反応に、冷たい視線を送るしか無い。秩序と独自、どう両立するのか聞いてみたいものだ。
 前にも書いたように、大災害に巻き込まれた人々の行動には、それぞれの思いが込められているのに対し、大した被害も受けなかった人々は、身勝手な行動を繰り返した。この背景にあるものは何か、殆ど考えもせずに賞賛したり、蔑んだりする態度には、傲慢な姿勢が表れており、そちらの方が更に重い症状を抱えていると思う。本当に大切なことは、それに巻き込まれてみなければ判らない。窮鼠猫を噛むという程極端でなくとも、究極の選択が繰り返されるような状況では、日頃の状態が見事に反映されるのではないか。常に不満を漏らし続けていたとしても、根底では今の生活に満足していれば、一気に爆発する方向には動かない。日々の生活に追われているばかりで、不満を漏らす暇も無い状態の人々には、こんな変化は引き金を引くことに繋がるだろう。そんな違いに目を向けることも無く、ただ上辺だけを眺めて、感心したり、呆れたりを繰り返す。そんな連中の多くが、現実にはある変化に対して恐怖に押し潰されそうになっていたことなど、すっかり忘れてしまったのではないか。いつでも逃げ出せる人々と違い、そこに居続けるしかない人々には、身勝手な選択などあり得ない。そういう状況の違いは、選択の幅に大きく影響する。何時まで続くのか、先行きの不透明感は強まるばかりだが、この国の人々は、やはり逃げ出す訳にも行かないし、暴れる訳にも行かないのだ。

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4月5日(火)−呪縛

 漏れが無いことを絶対的な約束としてきた人々にとって、現状はどのように映るのだろう。反古にされたと訴える人もいれば、どこまで漏れるのかと心配する人もいる。だが、漏れが事実となった時、こんな反応ばかりを聞かされても、何の役にも立たないことに、そろそろ気付くべき時が来ているのではないか。
 事実として受け止めた上で、現時点での最善策は何かを問う。そんな時が来てから既にかなりの時間が経過している。にも拘らず、依然として拘りを捨てきれず、選択肢を狭め、動きを鈍くする。これ程酷い状況であるのに、まだ過去に縛られるのは、危機管理の欠如に繋がる訳で、これでは、事故を起こした側の責任を問う資格さえ失うのではないか。こんな形で自らを縛り付けているのは、政治の世界でも同様だろう。かなり前から破綻状態にあると言われ続けた財政が、これを機に一気に崩壊に向かうと言われるが、そんな状況にも関わらず、旧態然とした対応しか決断できない。先送りとも評される手立てでは、何の解決も得られないとの指摘は、施政者には届かないということなのか。将来の保証さえ危うくする紙切れを乱発するより、国を挙げての再建を謳う方針の方が、遥かに明るく見えるが、永田町という場所に巣食う人々には、自らの命を絶つ愚行としか映らない。そんな判断しか下せない有権者の問題は、この大震災の後でも同じままに残っているのかも知れないが、もしそうだったら、世界が認めた国民性は、偽りの姿ということになる。危機に巻き込まれ、考え方が根本から変えられる、という期待もあり、もしその通りなら、今がその好機と言えるのではないか。買い物にかける税ではなく、所得にかける税という形で、早速に必要な資金を確保することが自明に思えても動けない連中には、何が見えているのだろう。

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4月4日(月)−真価

 今まで気にも掛けなかった話に耳を傾ける。そんな状況が続いているのだろうか。巷では正確な情報を求める声が満ち溢れ、話が聞けるのならといった雰囲気さえ漂う。反面、付け焼き刃の知識の流入は、正しい判断を促すどころか、混乱を招くばかりとなり、心理的不安定が高まる。安心は簡単には得られない。
 そんな中で、色々な疑問が噴出しているようだ。特に、分かり易い説明を求める為に、科学者と呼ばれる人々に助けを求め、責任ある立場の人たちには、それなりの説明や意見を求める。そんな空気の中で、ある委員会の長の発言が問題視された。多岐に渡る展開に、次々と返答を求める声が迫り、答えに窮した時、知識の無さを表明したとされる。これにより、期待が裏切られ、信頼も失墜したとの説明は、どれほどの正確さを持つのか判らないが、情報を扱う人々にとって、権威ある人物の発言を伝えることが、役割の大部分を占めていただけに、彼らの失望は当然なのかも知れない。しかし、この考え方は余りも安易であり、自らの努力の向け方へも思いを及ばせる必要があるのではないか。確かに、責任ある立場の人々の発言には、それなりの重みが感じられるものの、それとは別の発言の真偽を見極めた上で、確かな情報として流すことは、情報メディアに属する人々にとって、本来の役割と言えるものではないのだろうか。伝言を役割の全てと見なせば、これ程仕組みが発達した結果、その役割を終えたと言われるのも当然で、自ら命を絶ったとも言える。そんな人々が、こんな解説を編み出したとしても、その重みはかなり軽いものにしかならない。今の社会の反応を見る限り、知識不足は決定的であり、それを根本から改善する必要がある。その中で、公の発言だけでなく、教室での発言が科学に関わる者に要求される、最も大きな役割であることは変わらない。

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