易きに流れているのだろうか。上を目指し続けていた時代に、その場に安住することは、将来の不安を残すこととなり、少々の困難には立ち向かう姿勢が見られた。だが、頂点に達し、安定期に入ると、無理をして落ちることの方が目立ち始め、難き道を選ぶことは少なくなった。これも一時ならば良いのかも知れないが。
この典型と思われるのは、皆が批判する側に立つ姿勢だろう。攻撃と防御を考えれば、自ずと答えが明らかになるが、安易な選択に思えるものが多い。総攻撃に曝されている人々に対し、石を投げる行為が目立つことは全く無いが、正反対の態度を表すと、矛先がこちらに向かってくるからだ。冷静な判断の必要は無く、ただ勢いに乗れば良いという方式は、外側から眺めれば、何ともお気軽なやり方だ。人間としての価値がどこで決まるかは判らぬが、こんな様子を見ていると、横並びに固執し、目立つことを避け、何も考えない態度ばかりが目につく。施政者や責任者に対して、批判の矢を放つことは、大衆の味方であり、体制につかぬ事を表す。だが、責任ある立場の者たちが、正しい道を模索し、苦心惨憺の上で、究極の選択を繰り返す姿から、それが選択肢の一つとして評価されないのは、不当なことでないのか。専ら批判をする人々は、対象の評価を下す必要がなく、毎度お馴染みの態度を押し通せば良い。しかし、その価値を吟味する為には、選択の正当性や行為の妥当性を検討する必要が生じ、更なる努力が必要となる。要するに、大したこともせずに済む、安易な道を選ぶのが、大上段に構えた批判を繰り返す人々の常なのだ。こう書くと、何とも下らない人間に見えてくるが、画面や紙面を飾る人々の多くは、この体たらくであり、自らの努力を惜しむ人間なのだ。そんな人々に賛美を送るなど、何と情けないことではないか。渦中の人物たちは、彼らなりの努力を繰り返し、迫られながらの決断を下す。それに対して、場当たり的とか、ビジョンが無いとか、ほざく人々に、どんなことができるのか。試させる価値もないだろう。
何も決めないのに、他人の決めたことに文句を付ける。そんな人はどこにでもいるし、そういう人に悩まされた経験を持つ人も少なくない。それでも、こんな人々を抱えておけるのは、ある意味社会が許容力を持つからなのだろう。だが、危機に瀕した時、こんな連中に関わるのは御免、となるのではないだろうか。
確かに、地震が襲った時、津波に襲われた時、余儀なく避難所暮らしをする時、人々は文句一つ言わず、行動を起こしてきたし、平時には煮え切らなかった人々も、即断即決を迫られ、渋々でも決めていただろう。だが、ある意味での落ち着きが戻り、先への心配が頭をもたげてきた時に、再び、あの性格が姿を現すこととなる。そんな人々が画面に映されるのを見ると、本人の気持ちとは裏腹に、他人に見せてはいけないものをさらしている気がして、哀憫の念さえ起きてくる。政治家の訪問への不満を記者たちにぶちまけた人は、当人に直言したのかと不思議に思うし、仮払金の支給に対して、遅すぎるという不満や他の問題を持ち出す人々は、そこに見え隠れする傲慢さに、気付くことはなさそうだ。これらは、本人たちの問題というだけでは不十分であり、それを画面に登場させた人々の思惑も、議論の対象としなければならない。正確な情報の伝達を強調する人々が、その役割を負っていることを考えると、ここに大きな矛盾を感じる。以前から問題視してきた情報操作が、ここに来てその勢いを盛り返しつつあり、正確さよりも印象深さを優先し、予め設定された筋に沿うものばかりを取り上げる。果ては、正確な情報の提供が、政府機関の責任かのように振る舞うに至っては、報道機関としての矜持など、何処かに捨て去ったとしか思われぬ。
数字に弱いことを自覚する人たちにとって、この所の話は迷惑千万なのかも知れない。理解できないことを恥じてはいけないが、それを放置することで恐怖に苛まれるのだとしたら、少しでも片付けようとすることが大切だろう。計算過程でも、少し省略した所があり、また騙されているのでは、と思ったのかも知れない。
ここまで計算に拘ってきたのは、その能力を誇示したいからではない。こんな計算は少し考えれば、誰でもできるものなのだが、その気を起こさないことが問題なのだろう。これを試してみたのは、以下に書くことを知りたかったからなのだ。放出された放射性物質の量、というよりも数、を考えることで、どんなものかを実感したいという欲求がある。概算したものによれば、それは7の後ろに0が22個並ぶだけの個数だった。これが大気や海水に放出されたのだとすれば、それが均等に拡散されたら、一体どんなことになるのか。ここで又計算が必要となる。大気の体積は、地球の表面積に大気の占める高さを掛ければ、大体の計算ができる。表面積は、5.1億平方キロメートルだそうだから、飛行機が飛ぶ高度の一万メートルを大気の高さと見なせば、51億立方キロメートルとなる。桁が面倒だが、これと前の個数とを比較すると、大体1メートル四方の箱の中に、一万個強の放射性ヨウ素が詰め込まれていることになる。これをベクレルに戻そうとすると、この半分が8日余りで崩壊し、ベクレルはそれを秒で表したものだから、千分の一ベクレル程だろうか。一方海水の方は、その量が13.7億立方キロメートルあるのだそうだから、先ほどの四分の一くらいとなり、ちょっと計算すると、一リットルあたり400個程の数となる。これは何と2万分の一ベクレルとなるわけだ。ただまあ、8日で半分に減るなら、拡散している内に殆ど無くなってしまう。希釈の効果とはこういうものだが、これを批判する人もいる。総量は同じという論理だ。だが、一部の国が挙って実施していた実験では、これを遥かに上回る量のものが放出されていた。あの時は、拡散、希釈の効果をあれほど強調していたのだ。
「放射能」という怪物に押し潰されそうになりながら、次々と繰り出される未知の言葉の洪水に巻き込まれる。一言で済ませてきたことが、却って過剰反応を導き、余分な誤解を除くのに、更なる作業を強いられる。それでも、話が少しずつ分かり始め、気持ちが落ち着いてきたと思ったら、再び、意味不明の基準が飛び出した。
既に説明疲れを見せる人々は、徐々に画面に姿を見せなくなり、編成姿勢の変更からか、解説より批判といった方針が目立ち始めた。以前から気になっていたことだが、分かり易さの問題は、簡単には解決しないようだ。言葉の問題もさることながら、「放射線」という括りで出される話題でも、そこに登場する「単位」は、幾つもあるように見える。桁の表示について叫び声を挙げた、劣悪な評論家は論外としても、真面目に聴いている人々にとって、この辺りは高い壁を意識させられるものとなっている。ベクレルとシーベルトに代表されるものだが、使い分けの基準が示されないままに、流される情報は、理解不能に近い状態にある。前回の独り言で概算してみたことも、誤摩化されたと受け取る向きがあるだろう。その際に引いた例とは少し違うが、前提となる事実と計算過程を示すものを作ってみた。放出量と名付けたものには、放出されたとされる放射性ヨウ素の量を分かり易い重さで示してある。そこから生まれる感覚からすれば、これ程の恐怖が引き起こされる理由は、逆に見えなくなる。見えない量での恐怖を招くという意味で、「放射能」の威力を見せつけられるものではないか。ついでながら、季節の話題となる花粉の飛散量についても、幾つかの仮定を置いた概算だがやってみた。こちらはその総量に驚かされる。もう一つ、ここで比較して欲しいのは、それぞれの数の違いである。ほんの一握りのものに含まれる個数は、どれほど多いものかを感じてみることが、肝心かも知れない。
基準が何の為に存在するのか、考えたことも無いのではないか。それが突然表に現れて、如何にも重要なことのように扱われる。だが、受け手にとってどんな意味があるのか、解説は施されない。そこで例の如くの不平不満の噴出が起きるが、問題は基準を設ける目的であり、それが受け手に意味をなさねば、知る必要も無いのでは。
話題に振り回される姿勢を続けていると、自分の立場などは見えなくなる。不安に苛まれることも大きく影響し、毅然とした態度を取ることもできない。だが、そんな環境下でも、もう少し冷静さを取り戻す努力をした方が良いのではないか。基準の取り扱いに関しては、国際機関であるIAEAが、INESというものを決めている。それによれば、MajorとSeriousという違いがあるが、これを「大きい」と「深刻な」と訳している。どちらがどちらかすぐに判るだろうか。こんな些細な点を取り上げても無意味だが、言葉の意味の違いに感心してしまった。一方、変更のあった基準に関しては、"a release to the atmosphere of more than several tens of thousands of terabecquerels of 131I"とある。ヨウ素131は既にかなり知られる所となったから、分かる話だろうが、その前についている単位と桁は、また面倒な話だろう。テラという桁はパソコンを使う人には、最近馴染みが出てきたがキロ、メガ、ギガの上の桁で、10の12乗となる。その千倍の数十倍となれば、この国では数万倍だろう。これが、兆の上の京で表されることとなり、流された。ベクレルは放射線を出す能力の単位で、一秒間に一度放出が起きるのを示す。それらが大気中に吐き出されたというのが、基準の示すことだ。問題は、これがどれだけのヨウ素の放出だったのか、これ又計算が必要となる。10の16乗ベクレルだと、多分数グラムなのだろうか。多いか少ないか、実はこれは問題ではない。感覚と単位と事実は違うのだから。
理解力の無い人間が情報伝達に携わる時、伝えられるのは冷静な情報ではなく、感情論に基づく反応だけとなる。窮地に追い込まれたかの如くの姿をさらし、マイクを向ける相手にまで恐怖を伝染させようとした報道者は、一部で批判の的にさらされているようだが、冷静さを欠く行動には当然の反応と言えるだろう。
多少の違いがあるとは言え、この所の情報の流通には、こんな事情が被さっている感じがする。感情ばかりが先に立ち、冷静な分析を忘れた姿には、呆れるばかりなのだが、彼らと同様に不安定に陥った人々には、同意し易い内容と受け取られる。原因は何処にあるか。発信源にあるのは当然だが、その一方で、不特定多数の人々からなる受取手の問題を無視するわけにはいかない。今回の情報発信においても、「直ちに」という言葉に注目が集まり、悲観論者は長期間では確実に問題が起きるとの意味と解釈する。確率が基本とされる分析結果を基に、このような説明がなされていることに、会見場の人々が気付くことは無いのだろう。その上、十分な時間を与えられている筈の人々でさえ、言葉に対する理解も事象に対する理解も不足する人々は、自己中心的な解釈を施すことに、何の抵抗も示さない。説明不足を指摘する声にも、疑いを向けたくなるのは、どんな説明が届くのかという指摘が無いからだ。自分たちの理解力の無さを、相手の問題にすり替えるのは、彼らの得意技とは言え、このままでは一方的な批判ばかりとなる。思いつくのは、たとえば、質問者の年齢を尋ね、あと何十年生きたいかを質した後、それなら殆ど問題ない、と答えることだろうか。人の死は確実に訪れる。その死を迎えるまでの過程として、様々な確率が施されることを、理解できない人に、「直ちに」という言葉が届かないのは、ごく当たり前のことであり、死を直視しない人に有り勝ちなことなのではないか。
良識とは何か、この所考えさせられることが多い。見識という言葉を当てはめたくなることも多く、自らすべきことを考え、それを済ませた後で、何が足らないか、何が問題かを考えるのが筋に思える。だが、現実の社会は正反対の様相を呈し、責任回避に躍起になったり、偽情報に振り回される人で溢れる。
危機が迫るとき、じっくり考える暇はなく、即決即断を迫らせる。反射的な行動で、命を拾った人もいるだろうが、直後のあの時とは異なり、今はそこまで迫られてはいないだろう。それにも拘らず、依然として反射的に反応し、新しいことを考えたり、調べたりすることが無いのは何故だろうか。何が問題かを知る為には、その原因だけでなく、背景にある知識を少しでも吸収することが必要なのではないか。長期化が見込まれることに、批判を浴びせる人々には、時間がないことが最大の問題となる。しかし、今の状況を眺めていると、それほど事態は切迫していないように見える。現場では、次々に起きることや、明らかになる問題に対して、すぐに対策を講じる必要があるが、現場から離れた場所では、そんな事態にはなっていない。そんな中にある人々が、不十分な知識に基づき、様々に間違った方向への理解をすることは、何とも情けない姿にしか見えてこない。他人に責任を押し付けることばかりを考え、正しい判断に必要なものを見失った人々には、それ以外の選択肢が残っていないのだろうが、それにしても、救いようのない話ではないか。この状況を如実に表しているのは、認可を必要とする情報伝達機関であり、不特定多数にばらまかれる情報は、根拠も説明もない、空っぽとしか思えないものが目立つ。この期に及んでもこの状態では、当分の間何も起きそうにもない。